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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その9

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(最終回連載内容)

 前回まで、1868年6月16日に平潟港に新政府軍が上陸してから、同年7月13日に磐城平城が落城するまでの、約1か月にわたるいわき各地での戦いを、解き明かしてきました。
 今回が最終回です。

 ■笠間藩神谷陣屋の戊辰戦争

20-1 戊辰戦争当時、笠間藩(藩庁は現在の茨城県笠間市)は神谷や草野、四倉など、現在のいわき市の北東部に3万2千石の領地(飛び地)を持っていた。そして、その領地や、そこに暮らす人々を治めるため、現在のいわき市平中神谷字石脇地内に神谷陣屋を置き、代官をはじめ、50人ほどの人数を配置し、執務を行わせていた。
 そのようななか、戊辰戦争が勃発した。
 笠間藩は新政府を支持し、新政府軍に加わった。しかし、いわきで、笠間藩の領地(飛び地)に隣接する磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦火を交えることになった。また、磐城平藩の南に位置する湯長谷藩や泉藩、さらには、磐城平藩の北に位置する相馬藩や仙台藩も奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦うことになった。そのため、いわきの地に置かれた笠間藩の神谷陣屋は、四面楚歌、孤立無援の状況に陥った。
 笠間藩の神谷陣屋の側に立てば、この状況は「四周を奥羽越列藩同盟の勢力に囲まれ、身動きが取れない」「いつ襲われるかわからない」「この状況を何とか、打開しなければ」「しかし、どうすればいいのだ?」ということになる。
 逆に、磐城平藩の側に立てば、奥羽越列藩同盟軍の拠点が置かれた居城、磐城平城の北東に、新政府軍に味方する笠間藩の領地があって、そこに陣屋があるのは何とも邪魔で、厄介なことになる。奥羽越列藩同盟の仙台藩や相馬藩の部隊が磐城平に応援に来る際には、笠間藩の領地(飛び地)を通らなければならない。また、北茨城の平潟に上陸した新政府軍が北へと進軍し、磐城平城に迫った時、背後に笠間藩の領地や陣屋があっては挟み撃ちにされたり、退路を断たれたりする怖れがある。つまりは、「直ちに、笠間藩の勢力を取り除いておく必要がある」ということになる。
 こうして、笠間藩の神谷陣屋は、一気に戊辰戦争の大きな渦のなかに飲み込まれていった。

 江戸時代から大正時代にかけ、漢学や歴史学の分野で大きな働きをした大須賀筠軒が、この時のことを『磐城郡村誌 塩村・上神谷村・中神谷村・下神谷村』の「中神谷」の項に書き残している。
 原文は難しい文語調の文章で書かれているので、それを現代的な表現に改めたものを以下に紹介する。

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 戊辰戦争の際、笠間藩の神谷陣屋は奥羽越列藩同盟軍に囲まれ、陥落した。
 当時、東北地方の諸藩は同盟を結び、新政府軍に立ち向かった。しかし、笠間藩は新政府を支持し、慶応4(明治元、1868)年4月の宇都宮城の戦いでは、旧幕府軍と戦った。そのため、笠間藩の神谷陣屋は藩の意向に沿い、奥羽越列藩同盟軍に抗したため、孤立状態になった。
 慶応4618日、奥羽越列藩同盟軍の部隊が神谷陣屋を取り囲み、鈴木藤太夫(年齢52歳)を殺し、「降伏しなければ、命はないぞ」と声を張り上げ、陣屋の者たちを脅した。陣屋詰めの50数名の者たちは必死で抵抗したが、食糧や弾薬を奪われてしまった。また、元々、陣屋には弾丸などの貯えが少なかったため、陣屋を出て、北にある薬王寺まで退き、新政府軍や本藩の援軍を待つことにした。
 これより前、陣屋詰めの酒井昇平が、下神谷村の農民、新妻正吉と上仁井田村の舟乗りを雇い、久之浜の舟戸から、夜の海に小舟をひそかに漕ぎ出し、波涛を越え、平潟の港まで行き、新政府軍や笠間藩に援軍を要請した。

20-3 陣屋詰めの藩士に、山下清伸という者がいた。陣屋が襲われた時、山下は大いに奮闘したが、奥羽越列藩同盟軍の部隊を追い返すことはできなかった。山下は自らの力のなさを憤り、6月21日の夜、自刃した。清伸は幼名を鶴三郎といい、父は清唯といった。真っ直ぐで、潔い性格だった。有能であったため、若いうちから取り立てられ、勘定方の仕事をしていた。この時、25歳だった。
 その後、奥羽越列藩同盟軍は7月3日、陣屋詰めの者たちが身を寄せていた薬王寺を襲撃した。この時、陣屋詰めの者たちは応戦し、敵を数人、討ち取った。奥羽越列藩同盟軍は薬王寺に火を放ち、焼き払った。また、陣屋にも火を放った。このため、陣屋詰めの者たちは八茎村の銅山まで退去した。この時、陣屋詰めの者たちは援軍もなく、武器も食糧も乏しく、極めて厳しい状況に追い込まれた。
 しかし、7月7日、仁賀保直記と田村義尾を隊長とする笠間藩の援軍、400人ほどが八茎村の銅山に到着、そこを拠点にした。
 その後、7月13日の早朝、新政府軍が磐城平城への総攻撃を行った。砲声が雷鳴のように聞こえた。これに笠間藩の者たちは奮い立ち、気勢を上げ、進軍し、中神谷の一山寺に砲台を築いた。
 磐城平城は危うい状況に陥った。四倉に宿営していた米沢藩の部隊が磐城平へ援軍に向かうところを、笠間藩が一山寺の砲台から攻撃し、敗走させた。
 この日の夜、奥羽越列藩同盟軍は磐城平城に火を放ち、城を出た。

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 筠軒の記述によって、私たちは戊辰戦争の際、笠間藩の神谷陣屋が経験したことのあらましを知ることができた。

(写真上:笠間藩神谷陣屋跡(平中神谷、現在の平第六小学校)。慶応4年6月18日、ここに詰めていた笠間藩の人たちは、奥羽越列藩同盟軍に襲撃され、薬王寺まで退いた。)

(写真中:薬王寺(四倉町薬王寺)。7月3日にはここも襲撃され、八茎まで退いた。)

(写真下:一山寺(写真奥、山に抱かれるようにして建っているのが一山寺)。7月13日、新政府軍の磐城平城総攻撃の日に、笠間藩の人たちはここに集結し砲台を築いた。)
 

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