コンテンツにジャンプ

市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その3

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第5回・第6回連載内容)

  ■泉城をめぐる戦い

5 慶応4(明治元、1868)年6月28日、この日、新政府軍の矛先は、泉城に向けられた。
 薩摩藩の私領二番隊が先鋒を務め、薩摩藩の私領一番隊や本府十二番隊、さらには、大村藩や備前(岡山)藩の部隊が、それに続いた。
 この日、先鋒を務めた薩摩藩の私領二番隊が書き残した記録を現代的な表現に改めると、次のようになる。

-------------------------------------------------
 北茨城の平潟を出て、九面、関田を過ぎ、蛭田川、鮫川を渡った。植田の先で、浜街道から逸れ、岩間や小浜に向かう海沿いの道に入った。
 黒須野の七回(ななまわり)というところに敵が砲台を築き、待ち構えているとの情報が入ったので、部隊を2つに分けて進み、砲台を攻撃し、打ち破った。
 その後、剣浜に進み、そこでも敵を打ち負かし、泉城に向かった。
 泉城の大手門の扉は固く閉ざされていたので、脇の窓格子を切り破り、そこから入って、なかから扉を開き、全軍が城内に押し入った。しかし、敵は逃げ去り、誰もいなかった。
-------------------------------------------------

 また、薩摩藩の私領二番隊の後に続いて、泉城攻撃に向かった薩摩藩の私領一番隊の記録には、次のようなことが書かれている。

-------------------------------------------------
 先鋒を務める私領二番隊が黒須野の七回のあたりで、敵と銃撃戦を始めたとの知らせがあったので、足を速め、向かった。しかし、現場に到着した時には、すでに戦いは終わっていた。
 そのまま泉城に向かい、城下町の入り口のところで、私領二番隊に追いついた。私領二番隊は城の大手門に、私領一番隊は裏手に向かった。裏手の門からは私領一番隊が真っ先に城内に入った。また、同時に、私領二番隊も大手門から城内に入った。
 その後、城のなかを探索したが、敵兵は一人もいなかった。慌てて逃げ去った様子で、食糧や弾薬などは置かれたままになっていた。
-------------------------------------------------

 泉藩は黒須野や剣浜での戦いで敗れ、泉城はこのようにして新政府軍の手に落ちた。
 この日、泉城を失った泉藩の藩士たちは、翌日の6月29日には、湯長谷城を守るため、新政府軍と戦った。

(写真:現在の泉公民館敷地内にある泉城跡)

●剣浜…
 戊辰戦争の14年前の嘉永7(1854)年10月、泉の剣浜では大規模な西洋式の軍事訓練が行われた。その様子は「泉剣浜西洋流調練之略図」に描かれている。泉藩の本多六郎が軍代(藩主に代わり戦いの指揮を執る役)を務め、大砲4門を海に向けて据え、海防のための訓練を行った。この時期は日米和親条約の締結を受け、海防の重要性が叫ばれ、全国各地で砲台が整備されたり、軍事訓練が行われた。
 

■新田坂の戦い

 慶応4(明治元、1868)年6月28日、渡辺町の新田坂で、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が激しい戦いを行った。
 この日の早朝、平潟(北茨城市)を出発し、北に向かった新政府軍は、植田で部隊を2つに分けた。薩摩藩や大村藩などの部隊は、海沿いのルートを泉城に向かい、もう一つの佐土原藩や柳川藩の部隊は、山手のルートを新田坂から湯長谷城に向かった。
 山手のルートを進んだ佐土原藩の記録『島津忠寛家記』には、次のようなことが書かれている。

-------------------------------------------------
 佐土原藩と柳川藩の部隊は、植田から山手のルートを進み、新田坂を越え、湯長谷城を攻撃、その後、磐城平城に向かうことになった。
 新田坂では、奥羽越列藩同盟軍が山中に築いた数か所の砲台から、激しい砲撃を行ってきた。佐土原藩の大砲隊は真っ直ぐ進み、正面の砲台を攻撃した。また、佐土原藩の小銃隊は左の山手から、柳川藩は右手から進撃した。
 左の山手を進んだ佐土原藩の小銃隊は、堤沿いの道をまわり込み、激戦の末、敵の砲台五か所を落とした。その後も必死の働きを見せ、山によじ登って、敵の背後にまわり、攻撃を加え、敵を敗走させた。
-------------------------------------------------

 この記録だけを読むと、添野町の方から新田坂に向かった佐土原藩と柳川藩の部隊だけで、奥羽越列藩同盟軍を打ち破ったかのように思えるが、実はそうではなかった。泉城を落とした新政府軍の薩摩藩の部隊が応援に駆け付け、新田宿の方からも攻撃を行ったのだ。
 つまり、新田坂の奥羽越列藩同盟軍は、前と後から、新政府軍の攻撃を受けたのだ。
 次に、新田坂の戦いで大敗を喫した奥羽越列藩同盟軍側の記録を取り上げる。林忠崇は『林忠崇私記』に次のような記述を残している。

-------------------------------------------------
 山に上り、1株の松に身を隠し、しばらくの間、敵と撃ち合った。敵兵が背後にまわり込むような動きを見せたので、兵士たちを道の左右に伏せさせ、なお、しばらくの間、銃撃戦を行った。
 しかし、仙台藩などが、いつの間にか撤退し、林が率いる部隊だけが残り、孤立してしまった。そこに敵兵が背後の稜線、わずか30メートルほどの距離から小銃を撃ってきた。林の部隊は前と後から、にわか雨のような弾丸を浴びた。
 奥羽越列藩同盟の各部隊が新田坂の西の下り口まで撤退してしまったため、新政府軍が新田宿に進入し、宿場の端から激しく攻撃してきた。新田坂に取り残された味方の兵士たちは、ばらばらになり、路傍の草むらに身を隠した。
 主要な道は全て新政府軍によって押さえられてしまったため、日が暮れるのを待って、一人ひとりばらばらになり、人の歩かない野や山を歩き、翌日の6月29日になって、ようやく、磐城平城にたどり着くことができた。
-------------------------------------------------

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?