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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その7

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第16回・第17回連載内容)

  ■第三次磐城平の戦い その1-磐城平に攻めよる-

16 慶応4(明治元、1868)年6月29日と翌日の7月1日、新政府軍は二日続けて、磐城平を攻撃した。しかし、二日とも失敗、城を落とすことはできなかった。
 九面の戦い、二ツ橋や中之作での戦い、泉城をめぐる戦い、新田坂の戦い、湯長谷城の戦い、さらには堀坂の戦いなど、新政府軍は連戦連勝、圧倒的な強さを見せた。ところが、磐城平の戦いでは、二度も、しくじった。
 連戦連勝に驕り、奥羽越列藩同盟軍の力を甘く見るなど、この時の新政府軍には慢心や油断があったように思う。しかし、6月29日と7月1日の二日連続、二度のしくじりから、新政府軍はさまざまなことを思い知らされ、反省し、そこから教えを得た。
 まず、磐城平の奥羽越列藩同盟軍が手強いことを知った。また、磐城平城は構えが堅牢で、攻め落とすのが容易でないことも知った。
 さらには、しくじりの原因が相手の強さや城の堅牢さだけにあったのではなく、自らの内部にもあったことも知った。慢心や油断を排し、全軍の引き締めを図った。さらには、部隊間の連絡、連携を密にすることも徹底した。また、援軍を仰ぎ、たくさんの部隊をいわきに呼び寄せ、兵力の増強も図った。
 そして、三度目の磐城平城攻撃、日にちは7月13日に決まった。
 この時、新政府軍は3つのルートから磐城平に向け、進撃した。
 ルートの一つは、前日の7月12日に小名浜を出発し、豊間、薄磯と海沿いを進み、沼ノ内や下高久に1泊し、そこから磐城平に攻め込むものだ。ただし、磐城平城下に入る手前で南白土に向かうルートと北白土に向かうルートに分かれ、新川町と鎌田町から城下に進入する。
 ルートの二つ目は小名浜から鹿島街道を北上し、磐城平に向かうものだ。7月13日、早朝、小名浜と鹿島の七本松を出発し、磐城平の南、谷川瀬に押し寄せ、そこから城下に進入する。
 三つ目のルートは7月13日の早朝、湯長谷城を出発し、湯本、堀坂、内郷を経て、磐城平に向かうものだ。内郷地内で3つに枝分かれし、城下に進入する。
 これに対し、奥羽越列藩同盟軍は、一つ目の海沿いルートでは薄磯と沼ノ内の境と上高久の2か所に砲台などを築き、迎え討った。また、二つ目の鹿島街道ルートでは上荒川に拠点を築き、迎え討った。さらに、三つ目の内郷ルートでは堀坂に拠点を築き、迎え討った。しかし、いずれの拠点も新政府軍によって破られてしまった。
 三つのルートを進み、奥羽越列藩同盟軍の拠点を破った新政府軍は、磐城平城下に攻め寄せた。その際の進入口は、海沿いルートでは新川町と鎌田町、鹿島街道ルートでは新川町、内郷ルートでは御台境や長橋町、久保町などになる。多方面から城下に攻め入ったことがわかる。

(写真:磐城平城本丸跡地)
 

■第三次磐城平の戦い その2-田町の戦い-

 慶応4(明治元、1868)年7月13日、第三次磐城平の戦いでは、磐城平城下の町なかでも戦いが行われた。
 激戦の場となったのは、新川町や銀座通り、JRいわき駅周辺、そして、才槌小路や六間門などだ。
 この日の戦いについては、新政府軍や奥羽越列藩同盟軍が多くの記録を残しているが、ここでは薩摩藩の本府小銃九番隊が書き残した記録「本府小銃九番隊戦状」(『薩藩出軍戦状』)をもとに、才槌小路から田町にかけての戦いの様子を取り上げる。
 原文は難しい文語調の文章で書かれているので、現代的な表現に改めたものを紹介する。

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 慶応4年7月13日、未明、鹿島町の七本松を出発し、磐城平に進んだ。空地(空知)山に奥羽越列藩同盟軍がいたので、部隊を二つに分け、左と右の峰から攻撃し、敗走させた。
 その先、荒川では奥羽越列藩同盟軍の食糧置き場を見つけた。そこに敵兵が潜んでいたので、追い払った。ここで部隊を一つにまとめた。
 磐城平城の南、約1kmのところで、敵と大砲の撃ち合いになった。その後、東に進み、相馬(鎌田)口に築かれた敵の砲台を攻め、すぐに落とし、町なかを才槌門まで進んだ。しかし、才槌門の守りは固く、攻め入るのが難しかった。そこで、隊長が門の脇の塀を乗り越え、門内に入り、内側から扉を開き、部隊を門内に入れた。
 才槌門と、その先の二つ目の城門との間では激戦になった。銃弾が雨のように飛び交い、苦戦を強いられた。隊長が負傷し、また、敵兵を多数、討ち取った。苦戦しつつも、二つ目の城門を破り、三つ目の城門も破った。
 しかし、城の本丸は遥か高いところにあり、また、城の櫓からの大砲や小銃による攻撃が激しく、防御のしようがなかったが、堀の土手の杉林を楯に取り、身を隠し、攻撃した。とにかく、城を攻め落すのは難しい。どうすることもできず、その場にとどまり、撃ち合いを続けた。
 夕刻になり、参謀から、引き揚げの命令があった。しかし、「この機会を逃したら、城は落とせない」「今日のこれまでの苦労が無駄になる」「戦いを続けさせてくれ」との意見が出され、攻撃を続けることになった。各藩の部隊も同様に攻撃を続けた。
 夜の10時頃、奥羽越列藩同盟軍は自ら城に火をつけ、敗走した。しかし、すぐには城に入れず、各部隊は持ち場を固めた。
 翌日の未明になって、本丸に入った。城には誰もいなかった。その後、城下に宿営した。
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 「本府小銃九番隊戦状」には「一ノ城門」「二ノ城門」「三ノ城門」という表現が出てくるが、「一ノ城門」は磐城平城の才槌門、「二ノ城門」は田町外張門、「三ノ城門」は田町内張門と考えられる。

 今から150年前の1868年7月13日、磐城平城下、才槌小路や田町のあたりでは、極めて凄まじい戦いが繰り広げられたのだ。
 

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