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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その8

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第18回・第19回連載内容)

  ■第三次磐城平の戦い その3-六間門の戦い-

18 慶応4(明治元、1868)年7月13日、第三次磐城平の戦いの際には、磐城平城の西、六間門でも激しい戦いが行われた。
 六間門の戦いについては、磐城平藩の藩士、神谷外記が「神谷外記書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)に詳しい記述を残している。
 原文は文語調の難しい文章で書かれているので、ここでは現代的な表現に改めたものを紹介する。

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 磐城平城の六間門の西、広小路に、新政府軍の部隊が多数、押し寄せた。六間門は相馬藩の相馬将監胤真が率いる部隊が守りに当たっていたが、激戦のため、疲労し、磐城平藩に対し、援軍の要請があった。
 それに応じ、磐城平藩の神谷外記は部隊を率い、六間門に向かい、戦った。
 六間門での戦いは、いよいよ激しさを増した。
 新政府軍が撃った大砲や小銃の弾が六間門の外張門である高麗門の扉に激しく当たり、ついには扉のかんぬきが折れ、扉が開いてしまった。
 土俵を積み上げ、弾除けにしようと、「土俵を持って来い、土俵だ」という大きな声が聞こえたが、土俵を用意することはできず、その代わりに、城内の米蔵から米俵15、6俵を運んで来て、 それを門の扉のところに積み上げ、戦った。
 そうしているうちに、夕刻になった。
 磐城平藩の家老、上坂助太夫も自ら出撃し、指揮を執り、六間門の北にある玉の御門から広小路の新政府軍に攻めかかった。これには新政府軍も耐えきれず、あたりの侍屋敷に火を放ち、兵を引いた。
 これで六間門の戦いは終わった。

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 第三次磐城平の戦いの際、六間門の戦いでは、相馬将監胤真が率いる相馬藩の部隊と磐城平藩の部隊が力を合わせ、六間門に攻め寄せた新政府軍を退けたのだ。

(写真:かつて、高麗門があった場所。この橋(高麗橋)を渡った先に六間門の外張門である高麗門があり、こちら側(高麗橋の西側)から新政府軍が大砲や小銃で攻撃した。高麗橋を渡り、左に折れたところに、六間門の内張門である櫓門があった。)
 

■第三次磐城平の戦い その4-磐城平城の落城-

19 慶応4(明治元、1868)年7月13日の深夜、磐城平城は落城した。
 その時の様子を磐城平藩の藩士、神谷外記は「神谷外記書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)のなかに書き残している。
 原文は文語調の難しい文章で書かれているが、それを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 夜に入り、砲声が少し静かになった。しかし、田町の方からの激しい攻撃は続いていた。だが、すぐに磐城平城の城内まで攻め込んでくる怖れはなかった。
 その頃、城内で軍議が開かれた。弾薬の残りが少なく、明日も戦いを続けるのは難しいという結論に達した。
 そして、そのことを磐城平藩の家老、上坂助太夫が小座敷にいた相馬藩の相馬将監胤真と堀内大蔵に伝えた。すると、将監は「このような事態になっては、致し方がない。相馬まで、ともに引き揚げましょう」といった。これに対し、上坂は「私は殿様から城を預かっている身、私は一人、ここに残り、城とともに討ち死にをする覚悟です」といった。すると、将監は「御覚悟はもっともですが、生きて、相馬に逃れ、そこで再起を期せば、勝運に恵まれることもあります。そのことを、よく考えていただきたい」といった。しかし、上坂の決意は変わらない。すると、将監は「あなたの決意が変わらないのであれば、磐城平藩と相馬藩は同盟の間柄、私も、ここに残り、城を枕に、ともに討ち死にをいたします」といった。これには上坂も心を動かされ、夜の十時過ぎ、城に火を付け、将監とともに城を出た。
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 また、磐城平藩の藩士、中村茂平も落城の際の様子を「中村茂平書き上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)に、次のように書いている。
 それを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 磐城平城の西、六間門の戦いで新政府軍を退け、相馬将監胤真が城に戻り、磐城平藩の家老、上坂助太夫と面談をした。
 この時、上坂は「今朝、新政府軍の攻撃が始まると直ぐに、松本外也が馬を飛ばし、四倉に行き、米沢藩の江口縫殿右衛門に至急の援軍を要請した。また、仙台藩や相馬藩からも援軍の要請をしたが、米沢藩の援軍は来ない」と述べた。
 それに対し、将監は「現在、城には磐城平藩の藩士と相馬藩の200人ほどの部隊しかいない。さらに、弾丸は残り2,000発ほど、また、大砲の弾も僅かしかない。米沢藩の援軍が来なければ、明日、戦うことは不可能。ひと先ず、城から退却すべきではないか」と述べた。
 この後、上坂は役所に戻り、将監の意見を磐城平藩の主だった者たちに伝え、「将監のいうようにするしかないだろう」ということになった。ところが、上坂は「私は殿様から城を預かっている身であるので、城を捨て、逃げることはできない。私は一人、城に残る。皆は城を出て、信正様に付き従ってもらいたい」といった。これに対し、中村茂平は「城を出るのはやむを得ないことだが、上坂殿が一人、城に残るのは納得できない。皆とともに、信正様に付き従うべきだ。奥州での戦いは始まったばかり、戦いはこれからも続く、ここはひと先ず、城を出るべきだ」といい、味岡礼質も同様のことを口にした。
 その後、上坂をはじめ、磐城平藩の藩士たちは将監とともに、大手門から黒門を経、桜町を通り、平窪に逃れることになった。
 また、城を出て、2kmほどのところに達した頃合いを見計らって、城に火をかけるため、駆け足に自信のある者、4、5人に段取りを伝え、夜の12時頃、城を出た。何とも、無念であった。

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 ところで、磐城平城の落城にいたるまでの経緯だが、神谷外記と中村茂平の記述をよく読むと、同じところもあるが、違っているところもある。
 以下、神谷と中村の記述を総合し、慶応4年7月13日の夕刻から深夜にかけ、磐城平城内で、どのような事態が、どのように発生し、推移したのかを再現してみようと思う。
 7月13日の夕刻、磐城平城の西、六間門から、新政府軍の部隊が兵を引き、六間門での戦いが終わった。その後、その戦いに加わっていた磐城平藩の家老、上坂助太夫は、すぐに城に戻った。
 そのタイミングで、磐城平藩の主だった者たちが集まり、軍議が開かれた。軍議では、弾薬が残り僅かとなり、明日も戦いを続けるのは無理だとの報告がなされ、今夜のうちに城を逃れるのもやむを得ないということになった。
 そこへ、ひと足遅れで、六間門から引き揚げた相馬藩の相馬将監胤真が姿を見せ、上坂に面会を求めた。求めに応じ、上坂は軍議の場を離れ、将監と面会した。城を逃れるのであれば、当 然、相馬藩の総大将である将監にも相談し、了承を得る必要がある。
 この時、まず、上坂が「磐城平藩や仙台藩、相馬藩の各藩が四倉に宿営している米沢藩の江口縫右衛門に至急の援軍を要請したが、米沢藩の援軍は未だ来ない」と述べた。それに対し、将監は「現在、城には磐城平藩の藩士と相馬藩の200人ほどの部隊しかいない。さらに、弾丸は残り2,000発ほど、また、大砲の弾も僅かしかない。米沢藩の援軍が来なければ、明日、戦うことは不可能。ひと先ず、城から退却すべきではないか」と発言した。これは上坂をはじめ、磐城平藩の主だった者たちと同じ意見だった。
 将監の意見を聞き終えると、上坂はその場を離れ、再び、磐城平藩の主だった者たちがいるところに戻り、将監の意見を伝え、了解を取り付けた。
 しかし、その直後、上坂は「自らは城に残り、城を枕に討ち死にする」という覚悟を口にした。しかし、それに対し、磐城平藩の主だった者たちは、皆、異を唱えた。しかし、上坂の覚悟は揺るがない。
 そして、上坂は、再び、将監のもとを訪れた。自分一人は城に残るという、自らの覚悟を伝えるためだった。
 上坂と向かい合った将監は「上坂殿も、この城を出て、相馬に向かい、ともに戦いましょう。そこで再起を期すべきです」といった。しかし、上坂は首を横に振った。すると、将監は「それならば、私も城に残り、上坂殿とともに城を枕に討ち死にをいたします」といった。これには、さすがの上坂も「将監言葉の義、理に迫り」と、ともに城を出ることを決断した。

 これが慶応4年7月13日、磐城平城の落城に至る経緯だったのではないかと私は考えている。

(写真:磐城平城本丸跡地から見る現在の景色)
 

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