コンテンツにジャンプ

市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その6

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第13回・第14回・第15回連載内容)

  ■第二次磐城平の戦い その1

13 慶応4(明治元、1868)年6月29日、磐城平は新政府軍による1度目の攻撃(第一次磐城平の戦い)を受けた。その際には磐城平の南西、長橋のあたりが戦いの場になった。
 そして、翌日の7月1日、磐城平は2度目の攻撃(第二次磐城平の戦い)を受けた。この時、磐城平に襲いかかったのは薩摩藩と大村藩の部隊だった。
 この日の戦いの様子は、薩摩藩の本府十二番隊の記録「本府十二番隊戦状」(『薩藩出軍戦状』)に書き残されている。原文は文語調の難しい文章で書かれているので、ここでは、それを現代的な表現に改めたものを紹介する。

-------------------------------------------------
 慶応4年7月1日、午前7時過ぎ、小名浜を出発し、磐城平に向かった。空地(軍陣、軍事、軍師)山を過ぎ、磐城平の南、谷川瀬に出た。
 そこから、薩摩藩の本府十二番隊と私領二番隊は西の方向に進み、水田の中に兵を配し、磐城平城から三、四百メートルほどのところから攻撃を行った。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟軍は1時間ほど、大砲や小銃を互いに撃ち合ったが、奥羽越列藩同盟軍の部隊が長橋を渡り、後方の山に廻り込むのが見えた。また、弾薬も残り少なくなったので、一旦、山の上まで引き揚げた。
 程なく、谷川瀬から新川町の方に向かい、戦っていた薩摩藩の私領一番隊や大村藩の部隊も引き揚げて来た。
その後、参謀から「全軍、引き揚げ」の命令があり、小名浜に引き揚げた。
-------------------------------------------------

 次に、この日の戦いを奥羽越列藩同盟軍の磐城平藩のサイドから見てみよう。
 磐城平藩の藩士、鍋田治左衛門が書き残した記録「鍋田治左衛門書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)を取り上げる。原文は難しい文章で書かれているので、ここでは現代的な表現に改めたものを紹介する。

-------------------------------------------------
 慶応4年7月1日、米沢藩の部隊とともに大館あたりの守りについていると、磐城平の南、谷川瀬のあたりで戦いが始まった。
 米沢藩は長橋を渡り、新政府軍の背後にまわり込んで攻撃をしようと出発した。一方、鍋田が率いる磐城平藩の銃士隊は新川町の南に向かい、そこで、しばらくの間、戦った。
 その後、新政府軍が敗走した。それを谷川瀬のあたりまで追撃し、夕方、大館に引き返した。
-------------------------------------------------

 慶応4年7月1日、第二次磐城平の戦いでは、鍋田が書いているように、奥羽越列藩同盟軍が勝利を収め、新政府軍が敗北を喫した。

(写真:現在の新川にかかる新田橋(谷川瀬)。薩摩藩の私領一番隊と大村藩の部隊は、この辺りを南側から北側に向けて進撃、薩摩藩の本府十二番隊と私領二番隊は西方面に進撃した。)
 

■米沢藩の隊長、山吉源右衛門の死

14 慶応4(明治元、1868)年6月29日の午後、新政府軍の佐土原藩と備前(岡山)藩の部隊が磐城平の南西、長橋口に攻め寄せ、激しく撃ちかけてきた。これに対し、奥羽越列藩同盟軍も応戦。しかし、夕刻、新政府軍が兵を引き、戦いは引き分けに終わった(第一次磐城平の戦い)。
 そして、この日の夜遅く、米沢藩の山吉源右衛門が率いる援軍が磐城平城に入った。
 翌日の7月1日も、早朝から、磐城平は新政府軍の攻撃を受けた(第二次磐城平の戦い)。
 山吉は休みも取らず、部隊とともに戦場に向い、大車輪の活躍を見せた。
 しかし、不幸が起きた。
 それを磐城平藩の藩士、中村茂平は「中村茂平書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)に次のように書きとどめている。
 原文は文語調の文章で書かれているので、ここでは、現代的な表現に改めたものを紹介する。

-------------------------------------------------
 慶応4年7月1日、朝、磐城平は新政府軍の攻撃を受けた。米沢藩の部隊は休みもとらず、すぐに菩提院町や新川町の戦場に出撃した。
 米沢藩の隊長、山吉源右衛門は槍を振りかざして、部下を指揮し、一歩も退かず、「進め、進め」という声が砲声の合間に聞こえた。その勇猛さは、まさにあっ晴れのひと言、隊長の器量を備えた人物だった。
 ところが、戦いの最中、一発の銃弾が飛んできて、山吉の胸板を貫通した。
 「山吉が戸板に乗せられ、城中の病院に運び込まれた」
 知らせを受けた中村茂平は病院に駆けつけた。
 山吉はかなりの重傷で、ただ息をしているだけだった。
 山吉の傍らには16歳ぐらいだろうか、山吉の息子、源蔵がいた。源蔵が泣き崩れるさまは、目にするのも辛かった。中村が声をかけると、源蔵は頷きを返したかのようにも見えたが、定かではなかった。
 「余人をもって代えがたい立派な隊長がこのようなことになり、無念だ。気の毒としか申しようがない」
 中村は源蔵に声をかけ、ひと先ず、役所に戻った。
 その後、間もなく、山吉が息を引き取ったとの知らせがあった。
 中村は再び病院に駆けつけ、源蔵に「何とも、言葉がない。お悔やみを申し上げる」と言葉をかけた。
-------------------------------------------------

(写真:当時の菩提院町(現在の十五町目交番の周辺)から新川町の辺り。山吉隊長率いる米沢藩の部隊はこの辺りで戦った。)
 
 

■鹿島・七本松の戦い

15 慶応4(明治元、1868)年7月1日、磐城平に攻め寄せた新政府軍を撃破した奥羽越列藩同盟軍は、その勢いに乗り、自らの拠点である磐城平と、新政府軍の拠点である小名浜の中間、鹿島の七本松(市立鹿島公民館のあたり)に砲台を築き、部隊を配し、守りに当たらせた。
 鹿島の七本松に築かれた奥羽越列藩同盟軍の砲台は、新政府軍にとっては邪魔な存在だ。
 そのため、新政府軍は7月10日、七本松の砲台を襲撃した。この時の攻撃には、薩摩藩の私領一番隊と外城番兵一番隊が投入された。
 薩摩藩の私領一番隊の記録「私領一番隊戦状」(『薩藩出軍戦状』)には、七本松での戦いの様子が詳しく書かれている。
 原文は文語調の文章で書かれているので、ここでは、それを現代的な表現に改めたものを紹介する。

-------------------------------------------------
 慶応4年7月10日、午前5時、小名浜を出発した。大原村から下船尾村に出て、そこから山を越え、鹿島町の七本松の背後に出た。
 七本松には奥羽越列藩同盟軍の砲台があり、兵士が警固に当たっていた。私領一番隊は背後から、外城番兵一番隊は正面から、砲台を挟み撃ちにした。すると、敵は大慌て、散り散りになり、敗走した。
 砲台を乗っ取り、大砲を破壊し、午前10時頃、小名浜に向け、引き揚げた。

-------------------------------------------------

 このようにして、新政府軍は七本松の砲台を落とし、磐城平と小名浜の中間、鹿島のあたり一帯を自らの勢力下に置き、7月13日の磐城平城総攻撃に向けての足場を固めた。

(写真:現在の鹿島公民館敷地内に建つ「史跡七本松」の石碑)
 

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?