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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その1

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第1回・第2回連載内容)

 ■プロローグ

1-1 慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府の15代将軍、徳川慶喜が大政奉還(政治の実権を天皇に返上すること)を行った。それを受け、慶応3年12月9日には、天皇が王政復古(天皇のもとで政治を行うこと)の大号令を出し、薩摩藩や長州藩などが主導する新しい政府が発足した。
 しかし、江戸幕府の影響力を残そうとする勢力と、それを阻止しようとする勢力の対立が深まり、慶応4(明治元、1868)年1月3日、戊辰戦争の最初の戦い、鳥羽・伏見の戦いが起きてしまった。
 明治新政府軍と、旧江戸幕府の勢力や奥羽越列藩同盟軍などとの間で、激しい戦いが行われた戊辰戦争は、ここ、いわきの地でも行われた。
 慶応4(明治元、1868)年6月16日、明治新政府軍が平潟(茨城県北茨城市)に上陸、その後、勿来町の九面の戦い(6月17日)、泉城の戦い(6月28日)、渡辺町の新田坂の戦い(6月28日)、小名浜の二ツ橋の戦い(6月29日)、中之作の戦い(6月29日)、湯長谷城の戦い(6月29日)、内郷の堀坂の戦い(6月29日)、そして、磐城平城の戦い(6月29日、7月1日、7月13日)と、約1か月にわたり、各地で戦いが続いたのだ。
 慶応4年の夏、それは、いわきにとって、とても長く、苦しい夏になったのだった。 

(画像:幕末の磐城平城の八ッ棟櫓(『戊辰私記』(いわき総合図書館所蔵))
 

■新政府軍の平潟上陸

2-1 慶応4(明治元、1868)年6月16日、午前10時頃、新政府軍の軍艦3艘が平潟沖に姿を見せた。この時、平潟には奥羽越列藩同盟の仙台藩、大江文左衛門が率いる50人ほどの兵士が駐屯し、警固にあたっていた。
 ところで、新政府軍はどのようにして平潟への上陸を成功させたのだろうか?
 その一部始終は、新政府軍の薩摩藩私領二番隊の記録「私領二番隊戦状」に書かれている。原文は難しい文語体で書かれているが、それを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 慶応4年6月14日、薩摩藩の本府十二番隊、私領一番隊、私領二番隊、そして、佐土原藩、大村藩の部隊が東北地方への出撃を命じられ、富士山丸、三邦丸、飛隼丸という3艘の軍艦で、品川を出発した。
 2日後の6月16日、平潟沖に到着。港付近の海底の様子がわからないし、奥羽越列藩同盟軍からの攻撃を受ける恐れもあるため、沖合い約3kmのところに船をとめた。
 まず、大勢の兵士を一気に上陸させるために必要な小舟を手配するため、高橋金次郎、竹内慶介、伊東仙太夫、野崎平左衛門の4人に、バッテーラ(船に積んだ上陸用の小舟)に乗り、陸に向かうよう命令が下った。
 高橋たちが陸に近づくと、小銃を持った兵士たちがいるのが見えた。しかし、高橋たちは何喰わぬ顔で、兵士たちがいるところにバッテーラで近づき、「あなたたちは、どちらの藩の方々ですか?」と尋ねた。すると、「仙台藩だ」との答えが返ってきた。そこで、高橋たちが「私たちは日向国(現在の宮崎県)あたりの者だが、航海の途中で薪や水が底を尽き、困っている。薪や水の補給のため、上陸したい」と伝えると、「隊長に伺いを立て、許しがなければ応じられない。その間、船に戻っていろ」といわれた。しかし、「すぐに返答が欲しい」と、高橋たちは仙台藩の兵士たちが止めるのも聞かず、強引に陸に上がり、待機所を用意させ、そこで待つことにした。
 急なことだったので、仙台藩は待機所の周囲に柵を設け、高橋たちを隔離することができなかった。そこで高橋たちは平潟の人たちを集め、沖の軍艦まで小舟を出して欲しいと頼んだ。しかし、平潟の人たちの答えは先ほどの仙台藩の兵士と同じで、仙台藩の隊長の許しがなければ、応じられないというものだった。
 時間が経つにつれ、待機所の周りに仙台藩の兵士たちが続々と集まって来た。
 「このままでは、まずい」
 高橋たち4人は相談をし、「仙台藩からの返答を待っている場合ではない。直ちに全軍の上陸作戦を決行すべきである」との結論に達し、高橋、伊東、野崎の3人は待機所に残り、竹内1人だけを沖の軍艦に戻し、新政府軍の参謀に全軍上陸の決行を進言させることにした。
 陸から戻った竹内の進言を受け、参謀は全軍に上陸命令を出した。3艘の軍艦から数艘のバッテーラが降ろされ、そこに幾人かの兵士が乗り込んだ。また、竹内は自分の部隊が乗っている船に行き、偵察要員15人を選び、バッテーラに乗り込ませた。
 と、その時、陸の方を見ると、何と、たくさんの小舟がこちらに向かって漕ぎ来るではないか。
 「これは一体、どうしたというのだ?」
 新政府軍の兵士たちの上陸を助けるため、平潟の人たちが小舟を出したのだ。小舟は次から次へと3艘の軍艦に横付けされ、そこに大勢の兵士を乗せると、陸に向かった。
 この様子を見た仙台藩の兵士たちは、怖れをなしたのか、大慌てで逃げてしまった。
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 このようにして、新政府軍は平潟への上陸を成功させたのだが……、どうにも、納得のいかないところがある。
 新政府軍の上陸先遣部隊の高橋たちが小舟を出してくれと、いくら頼んでも、「仙台藩の隊長の許しがなければ応じられない」と、それを拒んでいた平潟の人たちは、どうして、突如、手のひらを返し、小舟を出したのだろうか?
 なにゆえに、平潟の人たちは突然、命がけともいえる行動に出たのか? 謎だ。

(写真:現在の平潟港)

●慶応4年・明治元年…
 慶応4年9月8日、元号を慶応から明治に改める詔が出された。この詔には「改慶応四年為明治元年」(慶応4年を改め、明治元年と為す)とあり、改元は慶応4年1月1日にさかのぼって適用された。これによって慶応4年はまるごと明治元年になった。
●新政府軍の3艘の軍艦…
 この時、平潟にやって来たのは、富士山丸、三邦丸、飛隼丸の3艘だった。富士山丸は新政府軍の旗艦。アメリカ製の蒸気船で、大砲12門を装備していた。当初は江戸幕府の持ち船だったが、慶応4年4月、新政府に譲渡された。三邦丸はイギリス製の蒸気船で、薩摩藩の持ち船、大砲の装備はない。慶応2(1866)年1月、寺田屋で負傷した坂本龍馬は3月、お龍を伴い、療養のため、鹿児島への旅に出たが、その際、2人が乗ったのが、この三邦丸だった。 

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