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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その2

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第3回・第4回連載内容)

 ■九面の戦い前夜・湯長谷城会議

3 慶応4(明治元、1868)年6月16日、新政府軍の平潟への上陸を許してしまった奥羽越列藩同盟軍は、その日の夜遅く、湯長谷城で会議を開いた。
 会議の議題は、当然、平潟を奪い返すための戦いをどのように行うか、だった。
 会議の席には、平潟から引き揚げて来たばかりの仙台藩の隊長、大江文左衛門もいた。そして、磐城平から駆けつけた遊撃隊の人見勝太郎や林忠崇もいた。
 遊撃隊の林は、今すぐ、平潟に夜襲をかけることを主張したが、その意見は退けられ、翌日の朝早くに出撃することになった。
 そして、6月17日の早朝、前夜の会議での決定に従い、奥羽越列藩同盟の各部隊が出撃した。
 その際の様子などは、磐城平藩の藩士、槙徳之助が書き残した「槙徳之助書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)に次のように書かれている。

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 一手は遊撃隊二小隊、仙藩一小隊、泉、湯長谷、御家鍋田隊、新田より植田、関田討入、一手は泉藩、先手にて、遊撃隊、中備、御家杉浦隊、後補にて、泉海岸より小浜固め、模様次第、植田に相会し、関田討入と手訳相定り、天明、繰出に相成候。此時、神谷外記殿、御着に相成、新田山越の手に御加りに相成候。
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 言葉を少し補いながら、これを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 奥羽越列藩同盟軍は二手に分かれて進軍することになった。一手は遊撃隊の2小隊と仙台藩の1小隊、そして、泉藩や湯長谷藩、さらには磐城平藩の鍋田治左衛門が率いる部隊から構成され、湯長谷城を出た後、渡辺町の新田を通り、その先、植田を経て、関田から新政府軍に攻めかかることに、そして、もう一手は先鋒を泉藩、中備えを遊撃隊、後備えを磐城平藩の杉浦三平が率いる部隊が務め、泉の海岸を通り、小浜に向かい、小浜の守りにあたった後、様子を見て、植田に進み、関田から新政府軍に攻めかかることにし、6月17日の早朝、各部隊が出撃した。また、この時、磐城平から駆けつけた磐城平藩の神谷外記が率いる部隊が到着し、新田の山を越えて平潟に向かう部隊に加わった。
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 そして、この日の昼、12時頃、平潟の奪回を目指す奥羽越列藩同盟軍と、平潟を死守しようとする新政府軍は、勿来町の九面でぶつかった。
 九面の戦い、その結末は、どうなったか? 

(写真:磐崎中学校に建つ「湯長谷藩館址」の碑)

●遊撃隊…
 慶応2(1866)年に結成された江戸幕府の銃撃部隊。戊辰戦争の際には江戸幕府支持派と新政府支持派に分かれ、後に、江戸幕府支持派は、さらに二つに分かれた。いわきでの戊辰戦争に加わったのは、人見勝太郎などが率いた一派。
●人見勝太郎…
 天保14(1843)年、京都生まれ。慶応3(1867)年、遊撃隊に入り、江戸幕府の将軍、徳川慶喜の警護にあたった。鳥羽・伏見の戦い、東北地方での戦い、箱館戦争などで、遊撃隊を率い、新政府軍と戦った。
●林忠崇…
 嘉永元(1848)年、生まれ。請西藩(じょうざいはん)(所領は1万石、藩庁は現在の千葉県木更津市請西)の藩主だったが、戊辰戦争の際、藩士70名を率いて、藩主自ら脱藩、遊撃隊と行動をともにした。請西藩は戊辰戦争の後、取り潰しになった。
 

■九面の戦い

4 朝早く、湯長谷城などを出発し、渡辺町の新田、添野を通って進軍した奥羽越列藩同盟軍の軍勢は、植田を越え、鮫川を渡り、大島、安良町、関田と進み、そこで二手に分かれた。
 一手は、そのまま街道を南下し、平潟に向かう「勿来の切通しルート」を進み、もう一手は、かつて勿来の関があったとされるあたりの山あいの道から平潟に向かう「勿来の関ルート」を進んだ。
 戦いは昼の12時頃、勿来町の九面で始まった。激しい銃撃戦になった。しかし、新政府軍の薩摩藩私領一番隊や私領二番隊の臨機応変な対応により、形勢は新政府軍の優位に傾き、午後2時頃には勝ち負けが明らかになった。奥羽越列藩同盟軍は崩れ、北へと敗走、それを新政府軍が関田、さらには安良町のあたりまで追撃した。
 この九面の戦いについて、仙台藩の記録「仙台藩記」には「人見等裏崩レ致シ、敗走」、つまり、奥羽越列藩同盟軍とともに九面の戦いに参戦した人見勝太郎たちの遊撃隊が「裏崩れ(最前線で戦っている部隊ではなく、後続の部隊の方が先に崩れること)」し、敗走したと書かれている。
 これに対し、遊撃隊の林忠崇は『林忠崇私記』に「仙兵、裏崩シテ、遂ニ敗走セリ」と書いている。 「裏崩れ」したのは仙台藩の方だと書いている。
 どちらが真実なのだろうか? 九面の戦いで「裏崩れ」したのは遊撃隊だったのだろうか、それとも仙台藩だったのだろうか?
 それとも、双方が「裏崩れ」したのだろうか?
 ところで、仙台藩と遊撃隊の間には、九面の戦いの前夜、湯長谷城で行われた作戦会議の場でも、激しい意見の対立があった。
 遊撃隊の林忠崇は「今すぐ、出撃し、平潟を奪い返さなければならない」と主張し、湯長谷藩士に、いわきの地理や地形の説明をさせた。ところが、仙台藩の隊長、大江文左衛門は「いや、待て。泉藩の態度がどうにもはっきりしない。そのような者たちとは一緒に戦えない」といい、それに対し、遊撃隊の人見勝太郎は「そんな心配は無用だ」と一蹴、激論になった。
 九面の戦いの前夜、仙台藩と遊撃隊は対立、反目し、それをそのまま翌日の戦いの場に持ち込 み、その戦いで負けると、敗因を、それぞれが相手になすり付けようとした。
 九面の戦いとは、こういう戦いだったのだ。

(写真:勿来の切通し)

 

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