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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その4

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第7回・第8回・第9回連載内容)

  ■二ツ橋の戦い

7 慶応4(明治元、1868)年6月29日、いわき市小名浜の南富岡、二ツ橋のあたり。
 藤原川を挟み、西には、泉城から進んだ薩摩藩や大村藩からなる新政府軍、そして、東には、小名浜から進んだ仙台藩などの奥羽越列藩同盟軍が陣取った。
 午前5時半、戦いが始まった。
 当初、戦況は一進一退、ほぼ互角だった。しかし、地元の人たちが富士山と呼ぶ小高い山の上に、新政府軍が大砲を運び上げ、そこから砲撃を始めると、形勢は一気に新政府軍の有利に傾いた。
 ほどなく、奥羽越列藩同盟軍は総崩れとなり、敗走を始めた。それを新政府軍が追撃した。
 この日、戦場となり、多くの死者が出た二ツ橋には、後に「仙台藩戦死者之碑」という大きな石碑が建てられた。
 石碑には大槻文彦が書いた文章が刻まれている。そこには次のようなことが記されている。

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 明治元(慶応4年、1868)年、戊辰の年に行われた奥州での戦いの折り、仙台藩はいわきに兵を出した。大隊長の富田小五郎や参謀の安田竹之助などが兵を率い、6月27日、長崎丸と大江丸、蒸気艦の3艘で、松島の石浜を出港し、翌日の6月28日、いわきの中之作に上陸し、小名浜まで進んだ。

 当時、磐城平には、陸路で、いわきに入っていた仙台藩の参謀、古田山三郎がいた。その古田がやって来て、「昨日、新政府軍は泉城を手に入れ、北に向かって軍を進めようとしている。私は北の磐城平から、そして、あなたたちは東の小名浜から、泉に向けて軍を進め、新政府軍を挟み撃ちにしよう」という作戦を提案した。

 二ツ橋の戦いでは、新政府軍は山の上の砲台から、見下ろすようにして攻撃した。一方、仙台藩は平坦な場所に構えたため、身を隠すところがなかった。また、新政府軍は浜の方からも攻め寄せ、背後を突いて来た。そのため、仙台藩の軍勢は散り散りになってしまった。
 早朝から昼頃までの撃ち合いで、多くの死傷者が出た。仙台藩は兵を引き、小名浜から中之作、さらには四倉まで敗走した。
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(写真:二ツ橋の傍に建つ仙台藩戦死者之碑(小名浜大原字西橋))
 

■湯長谷城の戦い

 慶応4(明治元、1868)年6月29日、新政府軍による湯長谷城攻撃の様子は、備前(岡山)藩の記録「岡山藩記」(『復古外記 稿本 平潟口戦記第一』)に詳しく書かれている。
 原文は文語調の難しい文章で書かれているが、それを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 慶応4年6月29日、薩摩藩と大村藩の部隊は、泉城から海沿いに進軍した。しかし、一緒に進軍する予定であった備前(岡山)藩の部隊は、渡辺町の新田宿から湯長谷城の攻撃に向かう部隊が手薄だということで、そちらにまわることになった。
 それはなぜかというと、前日6月28日の夜、平潟が奥羽越列藩同盟軍の軍艦によって砲撃を受け、平潟の守りを固める必要が生じ、新田宿から湯長谷城の攻撃に向かうことになっていた柳川藩の部隊が急遽、平潟に向かうことになり、湯長谷城に向かう部隊が佐土原藩だけになってしまったためだった。
 新田宿で、備前(岡山)藩の部隊は佐土原藩と合流し、軍議を開き、その後、両藩の部隊は湯長谷城に向け、出撃した。
 近辺を探索すると、奥羽越列藩同盟軍が湯長谷城の南、矢板坂で待ち構えていることがわかり、備前(岡山藩)の半小隊は道案内の者を連れ、泉田村から脇道を進み、矢板坂の西北隅の小山から攻め、本道を進んだ部隊と連携し、敵を挟み撃ちにした。
 奥羽越列藩同盟軍は激しい銃撃を受け、湯長谷城へと雪崩れを打って敗走した。
 それを追い、湯長谷城に攻め寄せると、奥羽越列藩同盟軍は3か所の砲台から、大砲や小銃で応戦してきた。砲弾や銃弾が雨のように飛んで来た。激戦になった。
 その後、佐土原藩は搦手から、備前(岡山)藩は大手から進撃した。藤原川にかかる蟹打橋を挟んで撃ち合ったが、ついには砲台を攻め落とし、城内に入った。同時に、佐土原藩も搦手から城内に入った。
 時刻は既に昼の12時、両藩は城内で昼飯を食べ、暫時、休息した。
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 この日、佐土原藩や備前(岡山)藩の新政府軍と戦ったのは、湯長谷藩や泉藩、仙台藩などの奥羽越列藩同盟軍や旧江戸幕府の家臣によって結成された純義隊の兵士たちだった。
 また、「岡山藩記」に書かれている3か所の砲台というのは、「熊野堂の前」と「龍勝寺の坂の上」、「下町の鍋屋の坂」の3か所に設けられたものだった。

(写真:藤原川にかかる現在の蟹打橋から、かつて、湯長谷城があった山を見る)
 

 ■堀坂の戦い

9 慶応4(明治元、1868)年6月29日、昼頃までに湯長谷城を攻め落とした新政府軍の佐土原藩と備前(岡山)藩の部隊は、その後、城内で昼飯を食べた。
 そして、午後1時過ぎ、湯長谷城を出発し、磐城平に向かった。
 一方、奥羽越列藩同盟軍は湯長谷城を追われた後、船尾宿や湯本宿に火を付け、敗走した。しかし、湯本と内郷の境にある堀坂に拠点を築き、新政府軍の進撃を食い止めようと、待ち受けた。
 堀坂では激しい戦いが行われた。
 このあたりのことは、備前(岡山)藩の記録『岡山藩記』には、次のように書かれている。原文は文語調の難しい文章で書かれているが、ここではそれを現代的な表現に書き改めて紹介する。

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 午後1時過ぎ、湯長谷城を出発し、磐城平城に向かった。
 新政府軍が進軍して来ると知り、奥羽越列藩同盟軍は途中、船尾宿や湯本宿に火を付けながら北に向かって敗走した。
 また、堀坂では、奥羽越列藩同盟軍が激しい攻撃をしてきた。しかし、多くの敵兵を倒し、それを退けた。
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 また、備前(岡山)藩とともに進撃し、戦った佐土原藩の記録『島津忠寛家記』には、次のように書かれている。

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 午後1時、磐城平城攻撃のため、湯長谷城を出発した。奥羽越列藩同盟軍は新政府軍の進軍を妨げようと、湯本宿に火を放った。新政府軍は、それを避け、脇道を進んだ。
 その先、奥羽越列藩同盟軍は堀坂で攻撃をしてきた。新政府軍は本街道から一斉に砲撃を加えた。また、小銃隊は山側にまわり込み、敵の横合いから攻撃を加え、壊滅させた。
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 堀坂で奥羽越列藩同盟軍を撃ち破った新政府軍は、その後、綴、御厩、小島と内郷地内を一気に進軍し、新川に架かる長橋の南岸、現在、満蔵寺がある山のあたりに拠点を据え、そこから激しい攻撃を始めた。

(写真:堀坂にある馬頭観世音)

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