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市公式Facebook連載シリーズ「いわきの戊辰戦争」 その5

登録日:2022年5月23日

『いわきの戊辰戦争』(第10回・第11回・第12回連載内容)

 6月16日に、平潟に上陸した新政府軍が、28日には泉城、29日には湯長谷城を攻め落とし、ついに磐城平城の城下に攻め入ってくる場面です。

  ■長橋の戦い(第1次磐城平の戦い)

10 慶応4(明治元、1868)年6月29日、新政府軍の佐土原藩と備前(岡山)藩の部隊は、昼頃までに湯長谷城を攻め落とし、その後、城内で昼食をとった。
 そして、午後1時過ぎ、湯長谷城を出発し、船尾、湯本、堀坂、綴、御厩を経、磐城平の南西、長橋口まで進んだ。
 長橋口では激しい戦いが行われた。
 その様子は、備前(岡山)藩の記録『岡山藩記』(『復古外記 稿本 平潟口戦記 第一』)には、次のように書かれている。

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 平城長橋門ニ相迫リ、激戦数頃、賊ハ前面、竝、左方山手之砲台ヨリ、大砲、小銃無数及乱射候得共、勝敗不相決。一日、四回之戦争、殊ニ炎天、疲労致シ候ニ付、諸隊ヲ鼓舞シ、黄昏ヲ相待、両藩申談、漸々繰引、終ニ物分レニ相成、同夜、湯長谷迄引揚、宿陣仕候。
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 これを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 磐城平城下への南西の入り口、長橋に到達した。
 敵は正面と左手の山の上の砲台から、大砲や小銃を激しく撃ってきた。戦いは暫く続いたが、勝ち負けはつかなかった。
 この日は炎天のもと、矢板坂、湯長谷城、堀坂、長橋と、四度の戦闘を行ったため、兵士たちは相当に疲労していたが、士気を鼓舞し、戦った。佐土原藩と備前(岡山)藩で話し合い、夕暮れ時、兵を引き揚げ、その夜は湯長谷城に宿陣した。
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 次に、佐土原藩の記録『島津忠寛家記』(『復古外記 稿本 平潟口戦記 第一』)を取り上げる。そこには次のように書かれている。

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 味方、踊躍、平城ニ迫リ、烈シク攻撃、賊、亦、能防戦ス。然ニ、浜手官軍来タリ会セス。夜、深更ニ及ヲ以テ、湯長谷ニ班旋ス。
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 これを現代的な表現に改めると、次のようになる。

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 勢いに乗り、一気に磐城平まで進み、猛攻撃を行った。敵も、また、激しく応戦してきた。浜手の方を進んだ新政府軍の薩摩藩や大村藩の部隊は来なかった。夜遅く、湯長谷城に戻った。
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 これら2つの記録からもわかるが、慶応4年6月29日の第1次磐城平の戦いでは、新政府軍は磐城平城を落とすことはできなかった。

(写真:明治3年に満蔵寺に建てられた、戊辰戦争の戦死者の供養塔)
 

■第一次磐城平の戦い その2

11 慶応4(明治元、1868)年6月29日、磐城平の南西、長橋口で新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との間で激しい戦いが行われた。
 前回は、その様子を新政府軍の備前(岡山)藩や佐土原藩の記録からたどった。今回は、その時の戦いの様子を磐城平藩の藩士が書き残した記録からたどることにする。
 はじめに、磐城平藩の隊長、鍋田治左衛門が書き残した記録「鍋田治左衛門書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)を取り上げる。
 原文は文語調の難しい文章で書かれているが、ここではそれを現代的な表現に改め、紹介する。

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 慶応4年6月29日、新政府軍が渡辺町の新田宿を進発し、磐城平城に向かっているとの知らせを受け、鍋田治左衛門は即刻、部隊を率い、城から出撃した。
 長橋を渡り、御厩村に入り、笑堂(童堂)のあたりまで進んだ。すると、そこに、その先の綴の関門を破った新政府軍の部隊が本街道や脇道から多数、押し寄せてきた。兵を配置し、応戦する時間的な余裕がなかったので、やむなく引き揚げ、薬王寺台から大館権現堂山、さらには境村のあたりに部隊を配置し、戦った。
 夕方になり、新政府軍が引き揚げた。その夜は、そのまま守りを続けた。
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 鍋田は新政府軍襲来の知らせを受け、堀坂まで行こうとしたが、新政府軍は、すでに堀坂の奥羽越列藩同盟軍を破り、さらに綴の関門も突破、相当な勢いで進軍して来た。そこで鍋田は後退し、磐城平城の西に連なる現在の松ヶ岡公園のあるあたりや大館などの小高い山の上に兵士を配し、新政府軍と戦ったという。

 次に、磐城平藩の隊長、神谷外記が書き残した記録「神谷外記書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)を取り上げる。これも現代的な表現に改めたものを紹介する。

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 慶応4年6月29日、渡辺町の新田宿のあたりから、新政府軍が磐城平に向かっているとの知らせがあった。
 神谷外記は磐城平藩の家老、上坂助太夫とともに城を出て、見まわりを行った。途中、大館の権現山に行き、南の方を見ると、堀坂の山から砲煙が立ち昇っていた。早々に城に戻り、各所の守りを固めるよう手配をした。
 そうしているうちに、新政府軍が内郷の御厩から小島の満蔵寺の山まで押し寄せて来た。この時、満蔵寺とは新川を挟んだ対岸、長橋に設けられた胸壁(銃弾をよけるための土手)には仙台藩が、そして、薬王寺台や真先稲荷には各藩からの援軍が配置され、激しい撃ち合いになった。長橋番所の後方からは、磐城平藩の大砲隊、井上十郎兵衛や亀山秀五郎などが激しく大砲を撃った。
 夕刻、戦いは引き分けに終わった。負傷者などは出なかった。
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 この時、戦いが行われたのは、新川に尼子橋が架かるあたりになる。新川の北岸や松ヶ岡公園のあたりに奥羽越列藩同盟軍が、そして、新川の南岸、満蔵寺があるあたりの山の上に新政府軍が、それぞれ部隊を配置し、激しい撃ち合いを行った。
 しかし、この時の戦いは、夕方、新政府軍が兵を引き揚げ、引き分けになった。

(写真:現在の松ヶ岡公園(奥羽越列藩同盟軍が部隊を配置した薬王寺台はこのあたり)に建つ安藤信正公の銅像)
 
 

■第一次磐城平の戦い その3

 磐城平藩の藩士、中村茂平が書き残した記録「中村茂平書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)を取り上げる。
 原文は文語調の難しい文章で書かれているので、ここでは、それを現代的な表現に改めたものを紹介する。

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12 慶応4年6月29日、新政府軍は堀坂で奥羽越列藩同盟軍を破り、その後、綴や御厩の関門を突破し、磐城平の南西、新川に架かる長橋の対岸に押し寄せ、激戦になった。
 「長橋の関門が破られそうだ」との知らせを受け、中村茂平は大いに驚いた。もし、長橋の関門が破られれば、新政府軍はすぐに磐城平城に襲来する。「ひと先ず、御隠居、安藤信正様を久之浜か、木戸あたりまで退避させなければならない」と考えた中村は、神谷外記とともに、その旨を信正に伝えた。信正は早速、供揃えを整え、城を出た。
 ところが、そこに純義隊の隊長、渡辺綱之助がやって来て、「信正様はすでに立ち退かれたのか?」と
質問された。各藩の主だった者などに相談もせずに、信正を城から退避させたことを詰問するつもりなのだろうと考え、中村は「これまで頑張って戦ってきたのは、ひとえに、主君、信正様のため。主君に怪我などがあっては取り返しがつかないことになってしまう。それゆえ、皆様方には相談せずに、退避していただいた。一刻の猶予もなかったので、そのような取り計らいをした」と答えると、「いや、私は信正様に立ち退きを勧めるためにやって来たのだ」との答えがあり、ひと安心した。
 その後、家老の上坂助太夫が城に戻り、「私は信正様の立ち退きに際し、ひと言の挨拶もできなかった」と責められた。それに対し、中村と神谷は「これは私たち二人の罪。申し開きの余地はありません」と答えると、上坂は、それ以上、何もいわなかった。
 長橋の関門は破られることなく、この日の夕方、戦いは終わった。新政府軍は湯本や湯長谷のあたりまで引き揚げた。
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 この日、安藤信正が磐城平城を退去したことは、磐城平藩の藩士、漆原市郎左衛門が書き残した記録「漆原市郎左衛門書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)にも書かれている。
 また、磐城平藩の藩士、竹尾直右衛門が書き残した記録「竹尾直右衛門書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)には、この時、広野の浅見川まで退去したと書かれている。
しかし、翌日の7月1日の夕刻には、信正が磐城平城にいたことを思わせる記述が「竹尾直右衛門書上げ」(『磐城平藩戊辰実戦記 藩士十六人の覚書』)にあるで、信正は城を退去した6月29日か、もしくは、翌日の7月1日に、城に戻ったものと考えられる。 ※この年の6月は29日が月末。旧暦標記

(写真:平長橋町にある性源寺。戊辰戦争の際、新政府軍によってここに奥羽出張病院が設置された)
 

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