『三崎公園(1)』(平成30年6月27日市公式Facebook投稿)
更新日:2018年6月27日
いわきの『今むがし』Vol.97
三崎公園の空撮-小名浜港方向を見る-〔昭和36(1961)年、十条製紙(現日本製紙)撮影〕
かつて、小名浜には白砂青松(はくしゃせいしょう)の海岸が広がっていました。その海岸を西方から東方に目を転じていくと、砂浜海岸が一転して、海食崖(かいしょくがい)が海に突き出る風景へ変化します。仔細にみると、切り立つ綱取(つなとり)岬、陰磯と呼ばれる磯浜と小さな砂浜が連続して変化します。岬には鰐淵と呼ばれる深淵も控え、渦を巻いています。その一方で、その間には狭い湾状の砂浜が点在しています。釜ノ前(かまのまえ)海岸もその一つです。
突き出た丘陵地からは「綱取貝塚」の遺跡が発見されており、縄文時代から平安時代まで先人が居住したことがわかります。
丘陵地に立つと、海岸線や湯ノ岳など広い眺望を得ることができますが、交通路がない時代は地味な存在でした。この地が脚光を浴びるようになったのは、昭和32(1957)年5月、海岸線や丘陵地が「磐城海岸県立自然公園」に指定されてからでした。
この都道府県立自然公園は、昭和6(1931)年に公布された「国立公園法」のなかの国立公園や国定公園ほど国内外に誇れるほどの知名度はないものの、これに準じた公園として位置づけられたものです。
昭和20年代までは、日本人が余暇を楽しむという慣習がなく、この制度があっても身近には感じることができませんでした。昭和20(1945)年8月に戦争が終わり、荒廃から立ち直るようになると、余暇を楽しみ、「観光」という考え方が広がっていきます。
こうした折、昭和32(1957)年、「自然公園法」が公布され、県立自然公園の位置付けが明確化されると、地元の市町村は知名度アップや施設整備による観光産業の発達と地域振興を図る契機として、指定に向け許可権者である都道府県に働きかけていきます。
この結果、昭和32年5月、小名浜の工業地帯を除き、三崎を含む豊間の二見ケ浦から南、藤原川河口域までの海岸線を中心とした範囲が「磐城海岸県立自然公園」に指定されました。
磐城市は昭和34(1959)年、大字下神白(しもかじろ) の丘陵地を“港の見える丘”として「都市公園法」の適用(面積66万㎡)を受け、このうち約1万5千㎡をレクリエーション基地として建設しようと、水族館や展望台の建設、道路敷設などを盛り込んだ計画を策定。同年10月から5か年継続事業で、鉄筋コンクリート造りの円型展望台、遊園地、休憩所、駐車場、散策道路、植栽などの建設工事が進められました。
三崎公園の空撮-小名浜港方向を見る-〔昭和55(1980)年5月、いわき市撮影〕
昭和30年代の公園整備によって、この時期三崎公園には年間6~8万人の観光客が訪れるようになりました。
昭和39(1964)年、三崎公園は総面積62.1haに及ぶ風致公園として都市基本計画に決定されており、同時期に磐城市は「三崎マリーン・ランド構想」を打ち出しました。遊歩道、水族館・海洋博物館、観光タワー、ユース・ホステル、海の家、ケーブルカー(三崎展望台-富ケ浦公園)、海水プールなどが配置予定される遠大な計画でした。
昭和40(1965)年、磐城市は「磐城市三崎公園の調査と基本計画立案報告書」を策定しています。いわき市への合併を翌年に控え、三崎公園のあり方を内外に示しており、三崎公園の整備をさらに推し進めることによって、いわき市における発展の推進役としての位置づけを明確にしたものでした。
しかし、合併後のいわき市財政は、旧14市町村から持ち込まれた事業が過大に見積もられたことによって、窮屈な財政運営を強いられ、容易に三崎公園の整備に着手することができませんでした。
この間、いわき地方が新産業都市に指定された昭和39年前後から港湾整備や臨海部を中心とした工業化が進展し、これに連動して人口が増加し、三崎公園周辺においても港ケ丘住宅建設や周辺の住宅化が進みました。
一方で、公園外側の開発の波が広がるなか、三崎公園一帯は私有地が多いことから、地主側からは公園整備が進まないことに不満を持ち、昭和40年代半ばからは都市公園の指定解除による開発を望む声が強まっていきました。
この間、三崎公園をめぐる観光環境が大きく変化していきます。いわき市内の観光・交通関係者は、オープンしたばかりの常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を含め、全国レベルの周遊指定コースとして、当時、観光の交通面における推進役を担っていた国鉄(現JR)に申請。これは昭和42(1967)年8月、「湯本温泉郷・いわき海岸」(平駅、常磐湯本温泉、常磐ハワイアンセンター、三崎公園、塩屋埼灯台などをめぐる延べ43.6km)として認められ、全国234周遊指定観光地の仲間入りをしました。
指定を受けると、三崎公園の観光客は一躍38万人に伸び、三崎公園の整備は市の大きなテーマとなっていきました。
このような流れが後押しとなって、昭和46(1971)年3月に公園整備の事業認可を得て、昭和46~47 (1971~72)年、市は公園整備のため、国や県と調整して、国庫補助や起債を申請し、整備の前提となる私有地の買収を進めました。
これに合わせて、まず昭和48(1973)年4月に、展望台から海寄りに芝生とサクラを植栽した芝生広場が一部(昭和49年に全面)オープンしました。
昭和53(1978)年7月には、三崎公園の南端に「三崎潮見台」が完成しました。
-次回に続く-
(いわき地域学會 小宅幸一)
その他の写真
釜ノ前海岸の奇岩(昭和13年頃、郵便絵はがき)
空撮・三崎海岸南方上空から三崎公園、小名浜港港湾を見る(昭和55年頃、いわき市撮影)
空撮・三崎公園の三崎潮見台上空から見る(昭和55年頃、いわき市撮影)
空撮・三崎公園、小名浜港を東側から見る(昭和62年8月、高萩純一氏撮影)
三崎公園の展望台付近(昭和36年8月、郵便絵はがき 磐城市観光協会)
三崎公園の展望台付近(昭和44年10月、いわき市撮影)
三崎公園の展望台付近(昭和45年10月、いわき市撮影)
三崎公園の展望台(昭和47年7月、いわき市撮影)
三崎公園整備(昭和48年1月、いわき市撮影)
三崎下の磯遊び(昭和55年8月、いわき市撮影)
三崎公園の芝生広場(昭和60年頃、いわき市撮影)
三崎公園内の「綱取遺跡」発掘調査(昭和58年8月、いわき市撮影)
三崎〔1.50,000地形図 小名浜(明治41年測図)〕
周遊指定地の「湯本温泉郷・いわき海岸」(昭和42年7月28日付『いわき民報』)
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