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『久之浜町・代ノ下橋』(令和2年11月25日市公式SNS投稿)

登録日:2020年11月25日

いわきの『今むがし』Vol.145

大久川に架かる代ノ下橋〔平成23(2011)1月、いわきジャーナル撮影〕

1 「木橋」とは主要部材に木材を用いた橋で、桁橋(板橋)が主流ですが、数奇な運命をたどった木橋が久之浜町を流れる大久川にありました。
 往来のための街道整備が進んだ江戸時代、特別なことがない限り河川に橋は架けられず、いわき地方でも、川幅の狭い場所はもちろん、鮫川や夏井川にも橋は架けられませんでした。
 明治時代に入り、浜街道が国道に位置づけされ、いずれの河川にも木橋が架けられました。
  大正8(1919)年4月、「道路法」が公布され、翌年4月には道路は国、県、市町村に区分され、整備が始まりました。しかし、輸送の中心は鉄道の時代。道路交通は旧態依然のままで、ましてや河川に架かる橋は粗末な造りでした。
 代ノ下橋は、元々は江戸時代に浜街道、明治時代には国道(現県道四倉-久之浜線)に位置づけられ、幹線道路の重要な橋でしたが、昭和30年代初め、代ノ下橋の上流側に新たな国道が敷かれ、コンクリートの「大久川橋」が架かると、役目を終えたとして取り壊されました。
 しかし、日常利用していた両岸の人々からは、当時歩道部分のなかった国道では遠回りで危険という声があがりました。
 関係者は「大久川歩道建設促進期成同盟会」を立ち上げ架橋運動を続け、大久川の堤防かさ上げ工事を機に、昭和47(1972)年3月に全長54.5m、幅員2mの木橋が架けられました。橋脚はカラ松、桁やならし木などには市内産の杉が使われました。
 重量0.3t制限の車止めは2、3年後に設けられました。これ以降は歩行者専用の橋となり、その後、老朽部分の補修や台風などの破損が繰り返され、平成3(1991)年に大改修が行われました。

東日本大震災の大津波で被災した代ノ下橋〔平成23(2011)年3月14日、いわきジャーナル撮影〕

2 代ノ下橋は平成15(2003)年にも改築されましたが、木橋のままでした。
 木橋が相次いでコンクリート化されるなか、現存する木橋は珍しく、その風情を楽しみに、市内外からカメラマンが足を運ぶようになります。
 しかし、平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災で大久川を遡上した津波に襲われ、橋脚を残して姿を消しました。
 ところが、代ノ下橋は別な形で蘇ります。
 被災した久之浜市街全体を新しい街に生まれ変わらせる「久之浜震災復興土地区画整理事業」の一環として、平成27(2015)年9月に、都市計画道路「賤(しず)-川田線」の整備として着工されたのです。大久川のかさ上げに伴う橋梁架け替え事業として施工されました。
 こうして、平成30(2018)年3月、人がようやく通れる木橋の橋は、片側1車線、しかも歩道部分も確保された、立派な鉄筋コンクリート橋へ衣替えしました。
 現在は、昔とはまったく異なる空気感のなかを、住民が通り過ぎていきます。


(いわき地域学會 小宅幸一)
 

その他の写真

コンクリート橋として完成した代ノ下橋の渡り初め 遠方に見えるのは、災害公営住宅「市営久之浜東団地」。〔平成30(2018)年3月、いわきジャーナル撮影〕

コンクリート橋として完成した代ノ下橋の渡り初め 遠方に見えるのは、災害公営住宅「市営久之浜東団地」。〔平成30(2018)年3月、いわきジャーナル撮影〕

 

大久川の代ノ下橋(平成19年9月、小泉屋文庫提供)

4 大久川の代ノ下橋(平成19年9月、小泉屋文庫提供)

 

久之浜震災復興土地区画整理事業区域(写真右)を西側高みから見る(2015年6月、いわきジャーナル撮影)

5 久之浜震災復興土地区画整理事業区域(写真右)を西側高みから見る(2015年6月、いわきジャーナル撮影)

 

久之浜町大久川に架かる代ノ下橋がコンクリート橋として開通(平成30年3月、いわきジャーナル撮影)

6 久之浜町大久川に架かる代ノ下橋がコンクリート橋として開通(平成30年3月、いわきジャーナル撮影)

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