『御斎所峠』(平成29年9月27日市公式Facebook投稿)
更新日:2017年9月27日
いわきの『今むがし』Vol.79
(左)御斎所峠の碑〔昭和64(1989)年1月、高萩純一氏撮影〕
(右)御斎所洞門〔昭和51(1976)年3月、高萩純一氏撮影〕
主要地方道いわき-石川線は、常磐湯本町と中通り南部の石川郡石川町を結ぶ、延長46.3kmの幹線道路です。別に、御斎所街道と呼称されています。街道名は、山地のなかほどにある御斎所山に由来していました。392mと、標高はそれほどありませんが、山の麓には鮫川が深い谷を刻んでいることから、見た目に高くそびえている印象があります。
御斎所街道は、阿武隈高地の懐(ふところ)では鮫川のつくった隙間に捩(ね)じ込み、縫うように続きます。田人町石住字才鉢から遠野町根岸の間、約6km。このあたりは、御斎所変成岩と呼ばれる硬い岩盤が発達し、そのため浸食が進まず【5】字形の御斎所渓谷と呼ばれる峡谷が連なっています。さらに幾つもの急峻な沢が鮫川に向かって流れ込んでいます。
したがって、古い時代には川の流れる谷底に道を通すこともできず、道は眼下に深い断崖を見て縫うような細い山道となっていました。おまけに勾配がきつく、道はその都度谷壁を上下し、さらに七曲がりして迂回(うかい)、鮫川になだれ込む谷にはいくつもの木橋を構築しなければなりませんでした。
明治24(1891)年における御斎所街道の改修の際には、街道の概況が「石川湯本間ノ道路ハ、元山間僻地(へきち)ニシテ東西交通ノ不便フ極メ、羊腸(ようちょう)坂路時二人畜(じんちく)ヲ害シ、断崖ノ狭路又交叉スルニ肩臂(ひじ)モ危(あやう)ク、一歩ヲ誤(あやま)テバ千仭(せんじん)ノ谷二墜落ス。谷間ノ渓水(けいすい)ハ百丈ノ麺(めん)ヲ布シ、谷河ハ泡沫(ほうまつ)岩ヲ噛(かみ)テ奔流ス、是(これ)御斎所峠、河ハ鮫川ナリ」と記録されています。
峠を挟んで、峠の西方、石住字神山(かみやま)には物資の集散の任に当たっていた問屋が所在し、さらに峠の入口には、明治20年代から昭和14(1939)年頃まで立場(たてば)があり、馬車曳(ひ)きと馬の休憩所が置かれていました。峠の東方、遠野町大平宇皿貝(さらがい)の集落には、江戸時代から昭和13(1938)年頃まで牛宿があり、旅人は峠越えの準備をしました。
街道の最高地156mは御斎所峠と呼称され、峠には、熊野神社遥拝所が設けられていました。容易に対岸の御斎所山頂上に位置していた熊野神社の御宮(おみや)に近づくことができないため、鮫川対岸から参拝できるように配慮したからでした。付近には峠の通行の厳しさを伝える記念碑が建てられています。
峠から上遠野方面に約300m東方に下った地点には、自然の岩を10mほどくり抜いた御斉所洞門が掘られていました。
(上)幹線道路から外れた御斎所峠-通る人や車がなく、峠は荒れた様子-〔平成28(2016)年7月、いわきジャーナル撮影〕
(下)トンネルが取り払われた道路-新道ができて、通る人は滅多にない-〔平成27(2015)年9月、いわき市撮影〕
御斎所街道は江戸時代から現代へ、補修と拡張、舗装、直線化、さらにはトンネルの建設と、土木技術の向上とともに整備されていきました。
古くから所在していた御斉所洞門は、交通量が増えたため、昭和7(1932)年から翌年にかけての道路改修で自動車が通れる大きさまで広げられました。時代を経るにつれて洞門にはコケが生え、ツタがからみ、岩松が這(は)って、渓谷美との取合わせは景勝地ともなりましたが、車の大型化や道路拡幅に伴い、惜しまれながら昭和61(1986)年8月に取り払われました。
御斎所街道は、市南域の国道289号よりも利用度が高く、中通り南部と浜通りを結ぶ重要な道路として、次第に重要度を増していきます。昭和62(1987)年10月に小名浜港にコンテナターミナルが開設されると、トラックによるコンテナ輸送ルートとして整備が急がれました。
福島県が平成15(2003)年10月に調査した、小名浜港からいわき市外に搬出された物資のうち、御斎所街道を利用したのは28%。搬入に至っては73%という高率を示しました。特にコンテナなどの大型車混入率(交通量に大型車が占める割合)は30%を超え、一般県道の10~15%を大きく上回り、物流道路として大きな役割を果たしていることが明らかになっています。
道路整備が進み、難所・御斎所峠を避けて御斎所トンネル(延長685m)が平成7(1995)年7月に完成。これを記念して、峠の東方に位置する洞門があった場所付近に広場と洞門跡の記念碑が建てられましたが、この区間も平成12(2000)年12月に完成したトンネル(延長177m)の完成によって、人目に触れることが少なくなりました。トンネル名を「御斎所洞門(どうもん)」としたのは、かつて洞門をくり抜いた先人への感謝を込めてのことでした。
昭和58(1983)年8月18日付の『福島民報』には、麓にあった旅館の女主人が明治時代の峠越えを、回顧しています。
「峠の道は幅一間(1.8m)足らずと狭く、擦れ違うことさえ出来なかった。ところどころに待避所があって、馬子(まご)はここに差し掛かると、“ホーイ、ホイ”と声を掛ける。反応がないとみて馬を進めた。雨や雪で足場が悪いと、崖から転落する馬もあり、馬も荷も諦めなければならなかった。馬を落とすのは自分のせいだが、諦め切れないのが追剥(おいは)ぎでねぇ。身ぐるみ剥がされて戻ってくる旅人もいたっけ…」
(いわき地域学會 小宅幸一)
その他の写真
御斎所山から見下ろす御斎所街道(昭和49年8月、いわき市撮影)
御斉所街道と洞門(案内板)(昭和64年1月、高萩純一氏撮影)
御斉所洞門開通式(平成12年12月、いわき市撮影)
御斎所山の遠景(平成28年7月、いわきジャーナル撮影)
御斎所街道の新旧(石住村才鉢~根岸村) 〔『御斎所街道(須賀川~湯本)』県教育委員会 昭和60年〕
御斎所街道と御斎所峠〔1.50,000地形図 竹貫(平成13年修正)、川部(平成14年修正)〕
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