『勿来海水浴場』(平成28年7月27日市公式Facebook投稿)
登録日:2016年7月27日
いわきの『今むがし』 Vol.52
1 二つ島(昭和37年8月10日、浅野和男氏撮影)
明治時代、石城郡(いわきぐん)における人気の海水浴場といえば、小名浜や四倉でした。当時は市街地に近く、交通の便が良いことが、浴客が集まる第一要件でした。その点で、勿来関下の海水浴場は勿来駅から約3km離れていて、道路も良くなかったことから、知名度は高くはありませんでした。当時は松川浦(まつかわうら)海水浴場と呼ばれていました。
大正9(1920)年7月には消防組や青年会が無料脱衣場を設置するなど地元関係者は浴客の誘致に努めました。加えて、勿来関の整備が進み、名が知られるようにつれて、相乗効果となって海水浴客の増につながりました。
昭和4(1929)年8月8日付の『常磐毎日新聞』をみると、「大字関田及九面の(中略)農家も漁家も殆ど東京方面の客に満員の状を見せ、海岸に踊る人魚の賑ひは想像以上のものである。(中略)勿来駅では日帰り客及団体が朝夕大混雑を呈し、臨時出札所の準備までしている始末で…」と報じられています。
昭和9(1934)年7月下旬から9月上旬までは、勿来駅-海水浴場の臨時バスが運行されていたことが記録されています。
海水浴場の北側には小さな岩礁が点在し、そのなかでも二つ島(別称二つ岩)は、白砂の続く海岸に強いアクセントをつけており、勿来名勝に一つになっていました。陸の島には松も生えていて、高さ8~10mの岩塊が直立していました。沖の島は長さ20m余、幅数mとやや細長く、その周辺では白波がうずを巻き、釣りの名所としても知られていました。
昭和30年代以降のレジャー時代到来で、海水浴は人気を集めます。起伏が大きく曲がりくねっていた国道6号線(現国道6号)は昭和32(1957)年から翌年にかけて築堤を高く築いた一直線の舗装の海岸通りに生まれ変わり、バスも通じて交通の便が格段に向上したこともあって多くの集客を可能にしました。
昭和31(1956)年7月には、海水浴場南域に「勿来水族館」が開設されました。
昭和35(1960)年夏前には、イメージアップのため、名称が松川磯海水浴場から勿来海水浴場へ変えられ、以降毎年7、8月には、市内はもとより茨城県北部、栃木県、福島県中通りなどから貸切バスを仕立てて団体客が訪れ、ごった返しのにぎわいをみせました。
昭和40年代に入り、海水浴関係者は増える海水浴客の安全や環境整備に力を注ぎました。昭和41(1966)年7月、高さ8m余の監視塔を設置。昭和42年(1967)7月には、関山地内に自動車600台の駐車場を設置して遠方から来る海水浴客に便宜を図りました。
この時期、天候に恵まれた7月下旬から8月上旬の日曜日ともなると、勿来海水浴場は1日5万人余を集客し、勿来地区のみならずいわき地方最大の観光地として、内外に知られるように成長していきました。
2 二つ島(平成28年7月、いわき市撮影)
海水浴客が増加するにつれて、海水浴区域内(南域の侍岬から二つ島までの間)に収まりきれず、北側の区域外へはみだすようになっていました。昭和40年(1965)には、これまでの最高の70万人の人出となり、1日4万人がこれまでの水泳区域における限度であったのに対し、1日8万人も訪れるようになり、このため水泳禁止区域外にも浴客が溢れることが常態化しました。脱衣所も区域内の収まりきれず外側に設置されるようになります。
この状態に対し、関係者は区域の拡大を検討。監視体制や標識などを整えたうえで、昭和45(1970)年7月には、潮流の激しい二つ島周辺を従来どおり危険区域とし、それ以外、関山地内防潮堤まで遊泳指定区域を600m延長し、海水浴区域を1kmへ拡張する、という対応で増え続ける海水浴客への対応策を図りました。
この年の脱衣所は37軒にまで増加して、海水浴客を受け入れました。昭和46 (1971)年には第二監視塔を設置。また、昭和47(1972)年夏季には、首都圏と結ぶ海水浴特急が1日2往復運行されました。
昭和40年代から50年代にかけて、海水浴はピークを迎えることになります。夏季の入り込み客が100万人を数えることも珍しくなく、昭和50年(1975)には、勿来海水浴場だけで130万4,000人に達(たっ)した、と記録されています。
増加した海水浴客や車社会の進展に対応するため、駐車場の整備も課題となりました。市はこの対応策として、常磐線を越えた山側を買収して昭和61 (1986)年7月に400台余を収容できる駐車場を設置しました。
平成10年(1998)ごろまで、天候には左右されたものの、いわき市の海水浴場は観光の目玉の一つとして、とりわけ勿来海水浴場はその牽引的役割を果たしました。
しかし、平成10年(1998)ごろから様相が変化していきました。天候に恵まれているにもかかわらず、夏のアウトドア・レジャーの多様化、少子化などの要因により入込客は減少傾向をたどりました。
勿来海水浴場をめぐる自然環境も変化していきました。二つの島は昭和30 (1955)年ごろから侵食の度合いを速め、海中の島からはマツの木が消滅し、岩が縮小していきました。陸の島はさらに侵食が著しく、とうとう島は崩れてしまいました。その後も海中の島では侵食が進み、ひび割れが目立ち崩落の危険が出て、海水浴客の安全を保つことが困難になりました。
このような状況のなか、景観保全にも配慮した勿来海岸の環境整備に務めるため、福島県は勿来地区海岸環境整備事業(平成8~15年度)を推進し、勿来海水浴場における階段状護岸階段の建設、スロープ式通路の設置、排水路の改善などの環境整備を行いました。
この事業の一環として、平成12(2000)年5月、島は取り崩されて炭素繊維のモルタルで同じ形状に復元した擬岩に置き換えられました。
東日本大震災後、勿来海水浴場はいち早く再開しました。海水浴場の背後が高く堅固な築堤が施された国道となっていて津波被害もなく、安全な避難誘導路として確保されるからです。しかし、入込客の数は震災前には遠く及びません。多くの人の気持ちが、1日も早く「夏のいわき、海のいわき」に向くことを期待するばかりです。
<参考>3 勿来海岸周辺マップ
その他の写真
4 二つ島を背景に松川磯海水浴場に並ぶ誘客(大正時代、郵便絵はがき)
5 二つ島を背景ににぎわう勿来海水浴場(2)(大正または昭和初期、郵便絵はがき)
6 勿来水族館(昭和30年代初め、野木茂氏撮影)
7 勿来海水浴場の海の家(昭和31年8月6日、浅野和男氏撮影)
8 勿来海水浴場二つ島を遠くに見てモデル撮影会(昭和34年7月、二片英治氏撮影)
9 国道から見た勿来海水浴場(昭和37年7月29日、浅野和男氏撮影)
10 勿来海水浴場の二つ島を俯瞰(昭和30年代、長谷川達雄氏撮影)
11 勿来海水浴場(昭和41年、いわき市所蔵)
12 勿来海水浴場(昭和40年代、大竹昭一氏撮影)
13 勿来海水浴場の二つ島(渡辺政信氏撮影・昭和40年代)
14 侍岬越しの勿来海水浴場「海の家」(昭和50年、いわき市撮影)
15 九面民宿街(昭54年10月30日、いわき市撮影)
16 海水浴場付近の市営駐車場(昭和61年7月、いわき市撮影)
17 勿来海水浴場・二つ島(昭和63年8月、いわき市撮影)
18 勿来海水浴場と二つ島(昭和61年8月、いわき市撮影)
19 勿来海水浴場(昭和62年8月、いわき市撮影)
20 勿来海水浴場北側(平成7年8月、いわき市撮影)
21 震災後、初の海開きのサンシャインガイドに報道記者が殺到(平成24年7月16日 いわき市所蔵)
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