『「鮫川橋」と「十三枚橋」』(平成27年12月16日市公式Facebook投稿)
登録日:2015年12月16日
いわきの『今むがし』Vol.37
鮫川に完成した「十船橋」絵図落成式に際し、出席者などに配布されました。絵図手前は大島村の集落です。〔明治14(1881)年高木之武氏提供〕
土木工事が発達していない時代、川に橋を架けることは至難の業でした。防衛上のこともあり、大きな河川には政策的に架橋しない状況でした。
市内でも夏井川や鮫川の街道には、架橋されていませんでした。
今回は、対照的な運命をたどった鮫川における二つの橋を紹介します。
まず、鮫川橋です。江戸時代には浜街道の道筋にありましたが、架橋されていませんでした。人や物の往来には渡し船が使われ、両岸にはそれぞれ植田宿、大島の集落が栄えていました。
明治14(1881)年12月に架橋されますが、最初は船10隻を鉄線で結び、その上に板を敷き並べて橋に仕立てた「十船橋(とふねばし)」と名づけられたものでした。この形式の橋は船橋、筏(いかだ)橋、総称しては浮橋と呼ばれ、洪水などで破損の危険があると、撤収できる利点がありましたが、幹線道路においては明治時代以降の増加する交通量に対応できるものではありませんでした。
十三枚橋木橋が建設された後、洪水で流失したため、昔の形態が復活しました。〔昭和20年代佐川義文氏所蔵〕
橋の建設には、両岸の有志が奔走し、尼子橋や鎌田橋が地方費であったのに対し、私費を投じて建設した橋でした。
しかし、この橋は強度や機能の観点からみて、あくまでも暫定的なものでしかなく、近代的な木橋の建設が望まれました。十船橋と同じ位置に木橋が建設されたのは、明治35(1902)年3月のことでした。
次に十三枚橋です。鮫川橋よりはるか上流、上遠野村滝(現いわき市遠野町滝)には十三枚橋という変わった名称の橋があります。
大正時代まで、川の浅瀬を渡るか、上滝青年団が川舟を出し、村人の足を確保していましたが、大雨が続くと何日も往来ができませんでした。このため、地元民が官有地内の松について払下げを受け、大正14(1925)年2月に十三枚橋を建設しました。直径1mほどの竹籠のなかに岩を詰めて川の浅瀬に沈め、その上に13枚の板を渡して橋に仕立てたため、この名が付けられたのです。
大倉橋跡を錦町側から植田町に向かって見る〔平成27(2015)年11月、いわき市撮影〕
木橋となった鮫川橋は、上流側に明治30(1897)年2月に日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が開通したことにより、鉄道橋の橋脚を巻いて流れる水勢が橋桁にぶつかり、洪水のたびに木橋が破損するようになったことから、大正2(1913)年、水害復旧事業として、両岸に築堤を設けたうえで架け替えされました。
その後、大水害のたびに補修が繰り返されながらも鉄道橋との間に、鉄筋コンクリートの新たな鮫川橋が昭和14(1939)年6月に開通するまで、交通の要所としての役割を果たしました。
新橋が完成後は、大倉橋として錦村の人々が対岸に所有していた鮫川河川敷の畑に、あるいは植田商店街に買い物に出向くなど、もっぱら地元民の利活用に供していました。
元の橋から上流約200mの位置に架けられた、現在の十三枚橋〔平成27(2015)年11月、いわき市撮影〕
一方、十三枚橋もたびたび洪水で流されました。大雨時には交代で橋を監視する川番に当たり、橋板の流失を防ぐため、そのたびに川から引き揚げました。それでも板橋はたびたび流され、下流の山田村まで行って拾い上げ、荷馬車に積み、地区民総出で元の橋に復旧するという努力が繰り返されました。
その後、昭和20年代に一般的な形態の木橋に“昇格"。それでも昭和29(1954)年、昭和39(1964)年と流失が繰り返され、昭和41(1966)年3月、旧橋より約200m上流に永久橋として架け替えられました。
十三枚橋の由来と架橋のために地区民の強い願いは、後に建てられた石碑に見ることができますが、建てられた場所は、なぜか、十三枚橋でなく約100m上流に架かる滝大橋の近くでした。その石碑は、東日本大震災の地震で倒れてしまいました。
鮫川橋位置図
さて大倉橋となった木橋。永久橋の鮫川橋ができて、本来の役目を終えるはずでしたが、交通往来が激しくなる鮫川橋には歩道部分がなかったことから歩くには危険な状態となりました。このため、大倉橋は歩道代わりとして、その後も流失しては再建されることを繰り返し、もっぱら流域の人々のささやかな“足"として利用されました。昭和46(1971)年3月、ようやく鮫川橋に付設して歩行者専用橋が完成。役目を終えた大倉橋に、昭和57(1982)年9月時の台風で流失した後の再建はありませんでした。
十三枚橋位置図
その後、河川改修によって大倉橋跡も消失。人々の記憶からも消えようとしています。
浜街道としての機能を果たし、その後も主要道路の重要な橋として存在しながら、消えていった橋、一方は地区民が往来した橋で、何度も流され、しかも近くに橋がありながらも復活した橋。その違いに人々の思いが反映しているような気がします。
その他の写真
立原杏所作「サメ川」(江戸時代末期、鷺栄一郎氏所蔵)
鮫川の大洪水錦町から植田方面を望む木橋が流失(昭和16年7月、渡辺徳太氏所蔵)
大倉橋竣工記念昭和26年4月10日
大倉橋下を通る観光船(昭和31年8月6日、浅野和男氏撮影)
旧大倉橋と釣り少年(昭和62年10月、いわき市撮影)
元の十三枚橋が架かっていた河原(平成27年11月、いわき市撮影)
東日本大震災によって滝大橋たもとにあった十三枚橋の倒れた碑(平成27年11月、いわき市撮影)
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