『常磐下湯長谷町』(令和5年6月21日市公式SNS投稿)
登録日:2023年6月21日
いわきの『今むがし』Vol.171
【湯長谷藩と跡地】
元和(げんな)8(1622)年、磐城平藩主として7万石で入封した内藤家の2代目・忠興は新田開発で得た1万石(天和2年・1682に1万5,000石へ加増)を、寛文10(1670)年に三男の遠山政亮(兄に対して関係性が悪くなるという高僧の進言を受けて内藤から遠山姓へ)に与えて分家・湯長谷藩(当時は「○○藩」という地名と組み合わせた呼び方が明確化していなかった)を成立させました。
政亮は当初、湯本に居住。その後、延宝4(1676)年に湯長谷陣屋を築造しました。平地に向って阿武隈高地の東縁から突き出ていた、比高40mに及ぶ舌状台地の突端近く(中世、一帯のもっと広い範囲で、岩崎一族が城館を構えていたものと推定)にあてられました。
■図 湯長谷藩の城下配置図(概念図) 城郭の外側に堀、武家屋敷、さらに町人屋敷を配置した。 〔1:10,000地形図 いわき都市計画図(平成19年作成)/「磐城湯長谷藩御陣屋絵図(明治4年作成)〕
街道を境に東側に町人町、西側に武家屋敷を配置し、武家屋敷の真ん中に陣屋を配置しました。陣屋の周囲には掘割を開削しました。
3代目は廃藩となった窪田藩主・土方雄賀の二男で、遠山姓を内藤姓に戻しました。以来13代継続。うち、7代が他大名家からの養子で、その庇護(ひご)を受けて存続しました。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に半ば同調せざるを得ず、陣屋は明治元(1868)年6月、後の明治政府軍に攻め込まれ落城しました。その後、湯長谷藩主は行政機関として藩を統治しましたが、明治4(1871)年に明治政府が任命した県知事が配属されたことにより、役目を終え、湯長谷を退去しました。
明治時代に入ると、どの藩の家臣団も失職の憂(う)き目に遭い、湯長谷藩の場合、明治時代以降、平や泉のように頼るべき生活基盤を失いました。磐城平城下には新たな商業が、泉城下には鉄道を介した通運業がそれぞれ勃興。いずれも旧城下やその付近で生計を得る機会がありましたが、湯長谷には、職を得る機会がごく限定されていました。周辺に新たな職を得られる環境にない湯長谷藩の家臣団の場合、流離する状況のなかでしか新たな生活を見出すことはできませんでした。
湯長谷藩を舞台とした架空のファンタジー映画『超高速!参勤交代』は東日本大震災の支援として映画化されましたが、湯長谷藩の現状がファンタジーによる映画化を容易にしたことが推察されます。
明治22(1889)年4月に下湯長谷村や白鳥村などが合併して成立した磐崎村では村役場や駐在所、小学校は、いずれも城下の陣屋や武家屋敷ではなく、町屋のあった字町下(まちした)に配置されました。
■図 明治時代の旧湯長谷藩陣屋付近 〔1:50,000地形図 小名浜(明治41年測図)〕
意識的に、過去の、しかも新政府に対抗した権力の場であった陣屋跡は避けられ、畑や荒れ地のままで、長い間放置されて推移したのです。
それは、平の本丸・二の丸・三の丸や泉藩陣屋なども同じでした。逆の新政府に味方した笠間藩の飛び藩であった神谷陣屋の跡には村役場、小学校が当てられました。
【中学校建設】
昭和20(1945)年8月、敗色濃かった日本は戦争相手国の主要国が戦後のあり方をまとめた「ポツダム宣言」を無条件に受け入れることで戦争終結にこぎつけました。
その後は、アメリカを主体とする連合国軍総司令部(GHQ)の間接統治下に入ってアメリカの主導によって民主化を進めました。その一つとして教育改革がありました。アメリカは義務教育の制度として6・3制を日本に命じ、中学校の独立校舎を要請しました。
しかし、戦後の荒廃期、各市町村は予算確保の困難や資材不足で、容易に独立校舎を建築する余力はありませんでした。
磐崎村も同様で、昭和22(1947)年4月、暫定的に磐崎小学校に併設して磐崎中学校を開校しました。磐崎村の場合、中学校の校舎建設に関しては、常磐炭礦(株)が湯本礦や磐崎礦などの炭鉱関係者の子弟を対象に独自で別に「仮称・常磐中学校」を設置することを要望しました。
これに対し、磐崎村は昭和23(1948)年7月開会の村議会において、村内1校とすることを決定。村長や村議長などが、常磐炭礦礦業所を訪れて説得を試みて、了解を得ました。
中学校の位置の決定については、常磐炭礦(株)の意を汲んで、炭鉱地域に近い大字上湯長谷字上ノ台周辺および村役場に近い大字下湯長谷字古館(ふるだて)周辺の2か所を候補として挙げ、比較検討。地盤の安定、整地費の安価、村役場からの近接の理由で、同年9月開会の村議会において大字下湯長谷地内と決定しました。具体的には、当時畑地や荒れ地となっていた湯長谷藩陣屋跡および周辺を建設地と定め、昭和26(1951)年4月、磐崎村大字下湯長谷字家中跡(かちゅうあと)に独立校舎として移転しました。期せずして同時期、泉村においてもほぼ未利用地となっていた泉藩陣屋跡に泉中学校を開校しています。
【国道(浜街道)整備】
通称・浜街道は明治5(1872)年に正式に「陸前浜街道」と命名され、次いで明治13(1880)年に第15号国道(後に国道6号。現主要地方道常磐-勿来線)に変わり、整備が始まりました。
整備といっても、鉄道が重視される時代、限定的な道路改良に過ぎませんでしたが、下湯長谷では、平地から一旦丘陵地の湯長谷城下の町屋に入り、鍵型の道路を経て平地に戻るという不都合さがありました。このため、明治時代中期、丘陵地の縁を回るように通じる現在の道路が開削されました。
丘陵地下には道路沿いに家屋が並び、郵便局や駐在所、小学校などが設置され、幹線道路の移設とともに、磐崎村の中心地が丘陵地から平地に移ったことがわかります。
低地の多くは市街化された下湯長谷および周辺 〔1.25,000地形図(平成18年更新)〕
西側から延びる丘陵地が尽きる先には、広い低地で農業が営まれる光景が北、東、南の方向に広がり、昭和40年代まで続いていました。
このうち下湯長谷の平地区域では、常磐市時代から市街化区域の住居地域に編入されており、専業農家は少なく耕地整理も行われていませんでした。また藤原川、湯長谷川、湯本川に囲まれ、河川の急激な増水による常習冠水地帯となっており、しかも下流には常磐線の築堤が横たわっていました。
これを改善するための第一歩として昭和38(1963)年には国土調査が行われました。
次いで、住宅化を図るために、組合施行となる「常磐下湯長谷土地区画整理事業」(21.3ha)が昭和51(1976)年12月に事業認可を受けました。施行には全面にわたる土盛りが必要となるなどの困難が伴いました。しかし関係者の努力に加えて県営住宅に誘導も行われ、昭和56(1981)年8月に換地処分が行われて、事業が完了しました。
土地区画整理事業が進ちょくするなか、区域は「常磐下湯長谷町一~三丁目」などに改称されました。
かつて石炭産業が華やかしかった時代には、湯本市街を中心に北部の炭鉱があった場所に住宅が密集していましたが、閉山が相次ぐなかで、宅地化は南方に伸び丘陵地を中心に住宅団地の開発が進みました。
次いで、下湯長谷町や関船町においては土地区画整理事業が施行されて住宅化が進み、現在市街地はさらに南域の西郷町へ延びており、この地域の沿道型商業は南進してきた住宅地に対する消費の受け皿ともなっています。
高台の上湯長谷町に接した区域や平地には瀟洒(しょうしゃ)な住宅が並ぶ一方、武家屋敷や町人町は昔の佇(たたず)まいを見せる下湯長谷町。好対照な景観に、時代推移の妙をみることができます。
(いわき地域学會 小宅幸一)
その他の写真
磐崎村大字下湯長谷および周辺 〔1.50,000地形図 小名浜(明治41年測図) 国土地理院発行〕
大きな変化のない下湯長谷周辺 〔1.25,000地形図 磐城泉(昭和46年測量) 国土地理院発行〕
藤原川に架かる愛谷川橋を木橋から永久橋に掛け替えから先の丘陵地下を見る 丘陵地下の道路は、明治時代になってから開削される。 〔昭和56(1981)年1月 いわき市撮影〕
常磐市下湯長谷の勝善橋から湯長谷川下流方向を見る・消防放水訓練 〔昭和39(1964)年 常磐市撮影〕
常磐市下湯長谷の勝善橋から北方を見る 〔昭和40(1965)年頃 常磐市撮影〕
湯長谷藩町下の町人町跡 写真左が太平桜酒造。 〔平成13(2001)年2月 いわき市撮影〕
丘陵地下の三叉路道路改良が行われている愛谷川橋の先 中央公民館てくてく講座「いわきの城下町を歩く」。 〔令和4(2022)年11月 小宅幸一撮影〕
常磐市下湯長谷の勝善橋から湯長谷川下流方向を見る 湯長谷川沿いは土地区画整理事業で宅地化。 〔令和4年11月 小宅幸一撮影〕
常磐市下湯長谷の勝善橋から北方を見る 〔令和4年11月 小宅幸一撮影〕
静かなたたずまいが変わりのない、旧湯長谷藩町下の町人町跡 奥に住宅団地があるため、交通往来は想像以上。中央公民館てくてく講座「いわきの城下町を歩く」。 〔令和4年11月 小宅幸一撮影〕
福島県母子休養ホーム「白百合荘」建設を北西側高台から見る(昭和39年、いわき市所蔵)
湯長谷陣屋跡の旧堀清掃(平成26年5月 いわき市撮影)
湯長谷藩御陣屋の配置図(平成29年12月 いわき民報社撮影)
リアル!参勤交代出発式・磐崎中学校(平成26年6月 いわき市撮影)
関連リンク
- 『常磐湯本町辰ノ口』(令和2年8月12日市公式SNS投稿)
- 『常磐湯本町』(平成26年8月20日市公式Facebook投稿)
- 『常磐湯本町八仙』(令和2年7月29日市公式SNS投稿)
- 『21世紀の森公園』(令和元年8月14日市公式Facebook投稿)
- 『常磐上湯長谷町梅ケ平』(平成30年1月24日市公式Facebook投稿)
- 『常磐湯本町三函(温泉神社前)』(平成30年8月22日市公式Facebook投稿)
- 『常磐湯本町三函(表町通り)』(平成30年9月12日市公式Facebook投稿)
- 『常磐湯本町傾城』(令和5年1月25日市公式SNS投稿)
- 『常磐立体橋と湯本跨線橋』(平成29年3月15日市公式Facebook投稿)
このページに関するお問い合わせ先
総合政策部 広報広聴課
電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469