『豊間中学校』(平成29年3月2日市公式Facebook投稿)
更新日:2017年3月2日
いわきの『今むがし』Vol.65
上:市立豊間中学校・薄磯海岸清掃のための集合〔昭和55(1980)年6月 いわき市撮影〕
中:市立豊間中学校〔昭和55(1980)年6月 いわき市撮影〕
下:改築された市立豊間中学校 〔昭和58(1983)年6月 いわき市撮影〕
昭和20(1945)年の終戦によって。日本は、連合国軍総司令部(GHQ)の中心・アメリカの間接統治(政治主体を日本に持たせる)に入り、アメリカから示された統治政策によって、婦人の選挙権付与、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済機構の民主主義化-の5つに関する法整備を行っていきました。
昭和21(1946)年3月には、第一次アメリカ教育使節団が訪日して、各分野で調査を行いました。この報告書に基づき、戦前の教育改革が図られ、新たに創られたのが、昭和22(1947)年3月に公布された「教育基本法」でした。さらに同年3月には「学校教育法」が公布されました。
このなかには、学校の義務教育は中学校を含めて9年とすることが明記され、これに従って、昭和22(1947)年4月に全国の中学校が発足しました。
しかし、中学校建設は困難を極めました。連合国軍総司令部(GHQ)からの強い要請があったのは、中学校の独立校舎を持つことでした。戦前は小学校の尋常科と高等科が併設されていることが一般的でしたが、これが禁じられたのです。新たに校舎を建設することは、戦後の資材難、財政難の折、小さな町や村ですぐに校舎を建設することができませんでした。
このため、当初は小学校との同居、青年学校など既設の校舎を充てるなどの方策で遣り繰りするのが精一杯で、また教員の数も不足して、教員免許を持たない代用教員を使って充足させました。
豊間町も例外ではありませんでした。それでも、関係者の努力によって学校敷地と国の補助予算を確保して、ようやく豊間町大字薄磯字南街地内に昭和27(1952)年3月に完成させ、同年4月に落成式を迎えました。
ところで、豊間中学校はなぜ薄磯に所在し、豊間ではないのでしょうか。
そこには、豊間、薄磯、沼ノ内の各地区における独立独歩や協調の歴史が関わっていました。
明治22(1889)年4月、全国的に自治制確立のための合併(後に「明治の大合併」と呼称)が施行され、この合併基準が300~500戸であったことから、半ば強制的に豊間、薄磯、沼ノ内の各村が合併対象(411戸)となりました。
これに対し、沼ノ内は内陸の神谷作や下高久との関係が深く、これらのグループとの合併を望みました。しかし、それでは300戸に達しなくなってしまううえに、薄磯は沼ノ内と関わりが深いこともあって、豊間との対立構図が取りざたされてしまいました。これは県が強権を発動して、原案のままの合併となりました。
この際に、村役場は薄磯字中街に設置。小学校は豊間地内に設置され、分校が沼ノ内に開校されました。
しかし、その後、明治35(1902)年に村役場は豊間に移設され、学校については沼ノ内分校が廃校になったこともあって、大正2(1917)年には、小学校が薄磯字南作に移転します。駐在所の位置も豊間と薄磯を行き来して、最終的に薄磯と豊間の境、薄磯字南作に定まります。
この経緯の状況について、『豊間郷土史』(明治時代末期と昭和時代初期の2度、全国規模で小学校区の自然、地理、歴史、地誌、民情などさまざまな統一した項目立てにより作成)のなかでは「学校敷地問題ヲハジメ役場、巡査駐在所等、毎々ニ利己的打算ニヨル闘争ガ絶エナカッタト思フ」と表現されています。
昭和20年代前期の新たな中学校建設に関しては、こうした経緯を踏まえ、等しく通いやすいよう、学区となる沼之内と豊間の中間に位置する薄磯に敷地を求め、建設されることになりました。
豊間中学校は、その後、昭和58(1983)年6月に改築されました。夏ともなると、薄磯海水浴場を眼前に控え、同校の校庭は臨時の駐車場としてにぎわいを支えてきました。
左上:東日本大震災で被災した市立豊間中学校〔平成23(2011)年4月1日 いわき市撮影〕
右上:津波がれきが中学校校庭に山積み〔平成23(2011)年4月27日 いわきジャーナル撮影〕
左中:津波がれきを撤去〔平成25(2013)年1月 いわき市撮影〕
右中:津波がれき撤去完了間近〔平成25(2013)年11月 いわき市撮影〕
左下:市立豊間中学校を撤去〔平成27(2015)年7月 いわき市撮影〕
右下:中学校跡地は津波防災緑地などへ整備中〔平成29(2017)年2月 いわき市撮影〕
絶えず、季節ごとの海風を受けながら海岸のかたわらに立つ市立豊間中学校。教室には、その日その日の天候に寄り添うように、潮騒が時に近く、時に遠く聞こえてきました。
悪天候の日が来たとしても、それはいつでも通り過ぎていきました。
しかし、平成23(2011)年3月11日に発生した東日本太平洋沖地震に起因する大津波は、豊間中学校にとって、必ずしも明日は来ないと知らされる出来事となりました。
中学校にも大津波が押し寄せましたが、子どもたちは先生とともにいち早く避難して難を逃れました。しかし、教室や体育館は大津波にかき回され、骨格こそ残りましたが中のすべてが破壊されてしまいました。
また、現役の子どもたちはもちろん、数多く巣立っていった卒業生の懐かしく温かい記憶をも、悲哀の色に変えてしまいました。後に、体育館の泥のなかに残っていた“奇跡のピアノ”が奏でた響きが唯一の救いとなりました。
もう使うことのできなくなった中学校の建物。これを「震災遺構」として保存するかどうか、関係者の意見交換が続きましたが、地元の意見は多くの犠牲者を出したという思いが強く、取り壊す方向が多くを占めました。市もこれら意見を尊重し、撤去して防災緑地にすることを決めました。
平成27(2015)年4月、翌月の解体を前に、卒業生や関係者の多くが校舎と決別するため、見学会が催されました。訪れた地元の人々、卒業者などは校舎の一つひとつに記憶をよみがえらせ、それぞれの関わりのなかで交感しました。
新しい中学校校舎は、豊間小学校の西側に保育園と併設して建設が進められ、平成29(2017)年度内の完成をめざしています。
日々、まったく新しい街路が形成されていくなかで、これからの子どもたちは豊間中学校にどのような記憶を紡いでいくのでしょうか。
参考地図
その他の写真
豊間中学校玄関(平成23年3月15日、いわきジャーナル撮影)
豊間中学校校舎内(平成23年3月15日、いわきジャーナル撮影)
空撮・薄磯地区(市立豊間中学校)、薄磯海岸(平成23年3月25日、陸上自衛隊第8普通科連隊撮影)
市立豊間中学校解体工事前の見学会・黒板(1)(平成27年4月、いわき市撮影)
市立豊間中学校解体工事前の見学会・時計など(2)(平成27年4月、いわき市撮影)
市立豊間中学校解体工事前の見学会・時計など(3)(平成27年4月、いわき市撮影)
市立豊間中学校解体工事前の見学会・薄磯海岸(平成27年4月、いわき市撮影)
10 市立豊間中学校解体工事前の見学会に訪れた人々が薄磯地区震災復興土地区画整理事業、防災緑地、塩屋埼灯台を見る(平成27年4月、いわき市撮影)
市立豊間中学校の新校舎は(左)は、市立豊間小学校(右)に隣に整備中(平成29年2月、いわき市撮影)
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