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『常磐水野谷町(常磐炭礦鹿島礦⇒常磐鹿島工業団地)』(令和5年6月7日市公式SNS投稿) 

登録日:2023年6月7日

いわきの『今むがし』Vol.170

石炭開発前の湯本村大字水野谷 〔1.50,000地形図 平、小名浜(明治41年測図) 国土地理院発行〕

石炭開発前の湯本村大字水野谷 〔1.50,000地形図 平、小名浜(明治41年測図) 国土地理院発行〕 概観すると、常磐炭田の炭層は阿武隈高地東縁から海岸に向かって710度の角度で深部へ傾斜しています。各炭鉱はこの炭層に沿って坑道を延ばすことになりますが、海岸部へ近づくにつれて採炭条件が容易でなくなり、したがって大手の炭鉱しか掘削できなくなっていきます。
 明治時代から掘削されていた炭層の主要は、昭和時代に入ると常磐線地下の東方へ向けられていきます。
 大手の磐城炭礦(株)(昭和19年に入山採炭(株)と合併して常磐炭礦(株)へ)は、湯本市街東方の坑口を設ける計画を推進。昭和13(1938)7月に、湯本町大字水野谷地内に「小名浜坑」を起工し、昭和16(1941)9月には本層に着炭しました。炭質が良質であったことから、本格稼働に向けた資本投下による設備充実を図り、入山採炭(株)との合併を機に、「鹿島坑」と変更しました。実際の坑口は湯本町地内でしたが、将来的には、「小名浜」「鹿島」の地域も視野に入っており、その意図が坑口名にあらわれていました。
 昭和20(1945)年に長きにわたる戦争が終結した後、常磐炭礦の組織は、磐城と茨城の二つの礦業所を持ち、磐城は湯本礦、磐崎礦、内郷礦の三つを統括していた。これら三つの各礦にはいくつかの坑区に分かれていました。湯本礦の下には湯本坑、四坑、鹿島坑がありました。このように当初は「鹿島」は一つの「坑」の存在でしかありませんでした。
 その後、採炭部分が東進・深部採炭に向かうにつれて、鹿島坑は重要性を増し、選炭機、選炭場、捲上機、扇風機などの生産施設や会館、寮、炭鉱住宅の厚生施設が鹿島坑付近に建設され、炭鉱拠点地としての地位を築き、最も採炭最前線となる「鹿島坑」が重要視され「鹿島礦」へ格上げされます。現に、鹿島礦の出炭量は着実に伸び、昭和35(1960)年には年間採炭量50万tを超え、昭和42(1967)年には同70万tに達しました。
 しかし、工場でも家庭でもエネルギー源として石油への転換が進み、石炭需要が減るなか、さらには常磐炭礦から産出された石炭が公害問題となり、昭和46(1971)年、鹿島礦を含む磐城礦業所は閉山に追い込まれてしまいます。

常磐鹿島工業団地の工場配置状況 〔1.50,000地形図 小名浜(平成18年更新)  国土地理院発行〕

常磐鹿島工業団地の工場配置状況 〔1.50,000地形図 小名浜(平成18年更新)  国土地理院発行〕 石炭から石油へ、というエネルギー革新は零細炭鉱から小中炭鉱へと及び、炭鉱は相次いで閉山。炭鉱を多く持つ自治体では、大きな疲弊を抱え込むようになりました。
 このような社会問題に対し、政府は昭和36(1961)年に「産炭地域振興臨時措置法」を公布して対策を講じ、昭和37(1962)年には、法に基づき地域疲弊からの脱却を図るため、産炭地の自治体単位で「産炭地域」の指定を受け、いわき地方も地域指定されました。法のなかでは、産炭地域振興事業団が主体となって復興策の一つとして工場誘致施策が盛り込まれました。
 いわき地方の各自治体(合併したことにより、いわき市へ1本化)においても適用を受け、このうち常磐市では、落合工業団地(12.0ha・分譲開始=昭和39年〔1964〕)、続いてその南方の水田地帯に岩ケ岡工業団地(19.7ha・同=昭和40年〔1965〕)が、それぞれ開発されました。
 前述したように、常磐炭礦磐城礦業所が昭和46(1971)年に閉山となったのを機に跡地利用が検討され、国道6号と将来計画があった同常磐バイパスの間に位置していた鹿島礦について工業団地への跡地利用が決まりました。
 工業団地造成は昭和4611月に起工。常磐炭礦鹿島礦跡地を全面的に活用したもので、「常磐鹿島工業団地」と名づけられ、昭和47(1972)9月から分譲を開始(造成工事完了は昭和511976〕年8月)しました。面積は115.8haに及ぶという大規模な工業団地でした。
 昭和48(1973)年に勃発した石油危機に伴う物価高騰などにより景気減速の憂()き目に遭いましたが、各種優遇措置に加え、常磐自動車道がいわきまで延伸することが決まって交通体系が整いつつあり、昭和50年代半ば過ぎには工場立地100%に達し、地元雇用の大きな受け入れ先となりました。 

(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

 湯本駅からの専用鉄道でつながっていた常磐炭礦鹿島礦 〔1.25,000 昭和30年11月測図  福島県発行〕

湯本駅からの専用鉄道でつながっていた常磐炭礦鹿島礦 〔1.25,000 昭和30年11月測図  福島県発行〕 

常磐炭礦鹿島礦を西側から見る〔昭和43(1968)年8月 いわき市撮影〕

常磐炭礦鹿島礦を西側から見る〔昭和43(1968)年8月 いわき市撮影〕 

常磐炭礦鹿島礦の生産施設 ズリ山は一般的に尖っているが、鹿島礦のものは、昭和30年代半ばから幅広型に変化していった。 〔昭和45(1970)年9月 小山田昭三郎氏提供〕

常磐炭礦鹿島礦の生産施設 ズリ山は一般的に尖っているが、鹿島礦のものは、昭和30年代半ばから幅広型に変化していった。 〔昭和45(1970)年9月 小山田昭三郎氏提供〕 

閉山間際となった常磐炭礦鹿島礦の鋼製炭車 ずり山が遠望できる。〔昭和46(1971)年3月 長谷川達雄氏提供〕

閉山間際となった常磐炭礦鹿島礦の鋼製炭車 ずり山が遠望できる。〔昭和46(1971)年3月 長谷川達雄氏提供〕

工場が進出する「常磐鹿島工業団地」 〔昭和54(1979)年5月 いわき市撮影〕

工場が進出する「常磐鹿島工業団地」 〔昭和54(1979)年5月 いわき市撮影〕 

近年の「常磐鹿島工業団地」 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

近年の「常磐鹿島工業団地」 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

施設群が撤去される、常磐炭礦鹿島礦跡地 〔昭和48(1973)年1月 いわき市撮影〕

 施設群が撤去される、常磐炭礦鹿島礦跡地 〔昭和48(1973)年1月 いわき市撮影〕 

工業団地の造成が開始 〔昭和48年頃 長谷川達雄氏撮影〕

工業団地の造成が開始 〔昭和48年頃 長谷川達雄氏撮影〕

一部では工場が建設 〔昭和48年7月 いわき市撮影〕

一部では工場が建設 〔昭和48年7月 いわき市撮影〕

分譲地すべてに、工場が進出 〔昭和63(1988)年9月 いわき市撮影〕

分譲地すべてに、工場が進出 〔昭和63(1988)年9月 いわき市撮影〕

常磐鹿島工業団地の中、東西には交通量の多い県道常磐-江名線が貫通 〔平成8(1996)年10月 いわき市撮影〕

常磐鹿島工業団地の中、東西には交通量の多い県道常磐-江名線が貫通 〔平成8(1996)年10月 いわき市撮影〕

常磐鹿島工業団地起工式(昭和46年11月、いわき市撮影)

常磐鹿島工業団地起工式(昭和46年11月、いわき市撮影)

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