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『常磐湯本町三函(温泉神社前)』(平成30年8月22日市公式Facebook投稿)

登録日:2018年8月22日

いわきの『今むがし』Vol.101

(上)湯本町表町通りの南側、温泉神社前とネオンアーチ〔昭和30(1955)年、坂本雄一氏撮影〕
(下)湯本町表町通りの南側、温泉神社前(昭和30年代、青柳美衛氏撮影)

1 平安時代中期の寛弘3(1006)年頃に編さんされた『拾遺和歌集』に、「あ(飽)かずして わか(別)れしひと(人)のす(住)むさと(里)は さはこ(三箱)のみゆ(御湯)る山のあなた(彼方)か」の一首が収録されています。この「見える」という意味と「三函の御湯」という地名をかけた掛詞です。掛詞はその本体を知らなければ編み出せません。それほど、「三函の御湯」が古くからの名勝の地として知られていたということになります。
 延長5(927)年に編さんされた『延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)』には、「陸奥国磐城郡(いわきごおり)小七座(しょうななざ)温泉(ゆの)神社」と温泉神社が記載されており、併せて歌も紹介されています。
 この温泉神社は「おんせんじんじゃ」「ゆせんさま」とも呼ばれ、人々に親しまれています。
 含硫黄・ナトリウム・塩化物硫酸塩泉に属し、慢性皮膚炎や婦人病、糖尿病、動脈硬化などに効能があります。
 神社名の由来は必ずしも明らかではありませんが、古くから湯ノ岳(593.9m)が神体の山とされ、病を治療する神が祀られていました。暦応3(1340)年に観音山中腹へ、さらに宝暦9(1759)年に現在地へ遷宮されたとされています。
 神社の第一鳥居前は、浜街道と御斎所街道が交差する場所の前に位置しています。温泉旅館や商店でにぎわった通称・表町(おもてまち)通りは、温泉神社の入口に接していることから、“門前町(もんぜんまち)”の要素も持っていました。
 街内には、古くから温泉水が湧出しており、この湯壷(ゆつぼ)を中心とした湯本の街が発祥した時期は明らかではありませんが、鎌倉時代初期の寛喜2(1230)年2月、菊田庄(きくたのしょう)の総地頭(荘園を実質的に管理した豪族)として支配地を拡大させていた小山友朝(ともあさ)氏の文書に「陸奥国菊田庄加湯竃郷(ゆがまごう)」とあります。湯窯とは湯本と窯(釜)戸(かまど)をさすものとされており、郷(村)としてすでに機能していたことがうかがえます。
 正徳元(1711)年の『正徳卯7月諸品覚書』をみると、湯本宿の町割は6町余(約650m)で、岩城道(御斎所街道)、小名浜道が分岐する交通の要所でもあり、江戸時代には宿場も置かれました。                                 
 以来、湯本は温泉資源を中心として歩みを進めていきます。
 次回に紹介するように、石炭採掘との確執は根深いものがありましたが、石炭産業が盛んな頃は共存共栄をめざして、観光地としての位置を築いていきました。
 湯本温泉が大きく変わったのは、長い戦争が終わって荒廃から復興へ向かう昭和20年代後半からでした。「観光」という言葉が一般的となり、高度経済成長とともに、温泉を訪れる人が増え、湯本市街も観光客を受け入れる体制が整っていきます。
 表町の入口にネオンアーチが設置されたのは、昭和30(1955)年12月でした。これを皮切りに、街中にネオンアーチが建てられ、またネオン街灯が通りに設置され、夜の街に華やかさをもたらしました。 

(上)湯本町表町通りの南側、温泉神社前〔昭和54(1979)年8月、いわき市撮影〕
(中) 同上〔昭和62(1987)年4月、高萩純一氏撮影〕
(下) 同上〔平成29(2017)年12月、菅波晋氏撮影〕

2 湯本町は明治・大正の時代を中心に、温泉は文人墨客(ぶんじんぼっかく)の創作の場であり、憩いの場でもありました。測量家・伊能忠敬や挿絵画家・竹久夢二、童謡詩人・野口雨情などが、時代が移りゆくなかで湯本温泉に親しんでいました。 
 温泉神社入口前、四つ角の一角に位置しているのが「野口雨情記念湯本温泉童謡館」です。建物は、昭和9(1934)年に常磐(ときわ)銀行湯本支店として移転改築したのが始まりです。昭和10(1935)年には資本再編で常陽銀行湯本支店に改称。昭和48(1973)年に移転した後には、昭和51(1976)年には市が買い取り、いわき商工会議所常磐支所などが平成19(2007)年まで入居していました。その後、この建物を活用し、まちづくり団体などが、野口雨情が遺した資料などの展示を中心とした新たな交流拠点を開設。平成20(2008)年1月のことでした。
 湯本における街中の道路は、江戸時代に形成された街道を基本としており、高度経済成長に伴う自動車の増加には対応しきれない状況となっていきます。
 温泉神社前の県道常磐-石川線(昭和47年8月に主要地方道いわき-石川線)から八仙立体橋付近までは「横町商店街」と呼ばれ、国道6号に至るルートでもあるため、交通量が激しく、拡幅が望まれました。
 昭和35(1960)年度から始まった湯本駅前の県道から温泉神社前までの道路工事は、幅員6~7mを倍の12mに拡幅するものでした。駅前付近が完成した後、昭和40(1965)年度からは八仙立体橋から温泉神社前までの延長300m区間で実施されましたが、家屋が密集しており、移転は容易に進みませんでした。この間、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)が昭和41(1966)年にオープンすると、混雑に拍車がかかりました。この区間が開通したのは、昭和46(1971)年のことでした。
 主要地方道いわき-石川線の新しい道路が開通して以降、以前ほどの混雑は見られなくなりましたが、今でも温泉神社前は、交通の要所として朝夕を中心に、通勤・通学者の人・自動車などが行き交うほか、温泉街のホテル・旅館に向かう観光バスや自動車、人の流れと、温泉街独特の表情をほのかに見せてくれます。
(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

湯本町表町通りを温泉神社入口から見る(昭和30年代、青柳美衛氏撮影)

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湯本町表町通り・先に「松柏館」が見える(昭和30年代、青柳美衛氏撮影)

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現常磐支所入口付近から県道に沿って、常陽銀行(現童謡館)方向を見る(昭和30年頃、野木茂氏撮影)

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常磐市湯本町三函の表町通りを北から見る・消防出初式(昭和40年、いわき市所蔵)

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湯本町表町通りの南側(温泉神社前)入口・常磐湯本温泉給湯管の敷設工事(昭和51年4月、 常磐湯本財産区所蔵)

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温泉神社前の交差点を北西に向かって見る(昭和54年11月、いわき市撮影)

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湯本町表町通りを温泉神社から見る(昭和62年4月、高萩純一氏撮影)

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湯本神社前の三差路を西方に向かって見る(平成28年3月、菅波晋氏撮影)

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