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『常磐湯本町傾城』(令和5年1月25日市公式SNS投稿)

登録日:2023年1月24日

いわきの『今むがし』Vol.161

上 傾城から南西方向の四坑を見る(昭17、磐城国道事務所提供)
中 湯本町傾城・国道6号(1)(昭和50年代、いわき市撮影)
下 湯本町傾城(令和3年9月、小宅幸一撮影)

1  傾城 内郷と湯本の間では丘陵地が横たわっていたことから、江戸時代の通称・浜街道はその谷を縫うように整備されました。このため、見通しの悪いカーブが続き、特に湯本市街寄りのカーブでは90度に近い大曲りとなっていて、交通の隘路になっていました。この交通隘路のうち、湯本寄りの国道沿いの地名を、傾城(けいせい)といいます。 この傾城という珍しい地名は中国の文書のなかに出てくる言葉です。すなわち、「一顧すれば、人の城を傾け、再顧すれば、人の国を傾く」ような、君主が絶世の美女に溺れてしまうとどのようなことになるのか、を言いあらわしています。なんとも色っぽい言葉ですが、地域にはこれにまつわるような伝説は残っていません。(近くに古代の「辰ノ口横穴墓群」が確認できるだけ) 明治時代後期、石炭産業が発達すると、平-湯本の交通往来が激しくなっていきます。大正時代末期に登場した乗合バスは平-湯本では5社に及び、客の奪い合いをして警察署の斡旋を仰ぐという状態となりました。加えて、石炭輸送を中心とするトラックの増加で道路は傷み、道路整備は必至の状況となりました。昭和16(1941)年には平-湯本の拡幅改良工事に着手し、内郷以南は未舗装ではあったものの昭和20(1945)年に完成。その後、舗装工事も継続され、湯本-内郷は昭和26(1951)年に完成しました。
 昭和30(1955)年から始まる長期の高度経済成長は、日本人の物資的な生活を豊かにし、個人が自動車を保有できるようになっていきます。これに比例して平-湯本の交通量は増加の一途をたどります。平、内郷、湯本の市街では速度制限がかけられていましたが、内郷と湯本の間では人家が少なく、自動車、特にトラックがスピードをあげることから、内郷綴町掘坂や常磐湯本町傾城は交通事故多発区域となりました。傾城では、スピートを出し過ぎたトラックが民家に突っ込むという事故も起きました。
 傾城という優雅な地名とは裏腹に、自動車の往来は危険を伴って、地域住民を脅かすようになっていきました。また、傾城は湯本町民にとっては、歴史的に重要な地域でもあります。湯本町は水道水が取水できるような河川はなく、加えて温泉水の乱開発や石炭の増産などで飲み水確保さえ困難となり、町の大きな問題となりました。入山採炭(株)から水利権の一部(好間川からの分水)を譲り受け、傾城配水池を建設し町に引水(内郷村大字宮字金坂の浄水場から新たに設けた大字湯本字傾城の配水池に送水し、大字湯本に配水)して水問題を解消したのは、昭和8(1933)2月のことでした。

上 上川付近から北を見る。常磐線が見える(昭17、磐城国道事務所提供)
中 湯本町傾城歩道橋(昭和43年10月、いわき市撮影)
下 湯本町傾城歩道橋(令和3年9月 小宅幸一撮影)

2  傾城 「横断歩道橋」とは、車道または鉄道を跨ぐように架けられた歩行者・自転車専用の橋です。単に「歩道橋」とも呼ばれます。当初は「交通安全橋」とも呼ばれていました。人と車の交通事故が増加の一途をたどるなか、当初はバリアフリーの視点や交通弱者優先の考え方はなく、通学途中における児童の安全を図るとともに、歩行者を隔離する意味でも、横断歩道橋は、いわば緊急避難的な措置でした。
 
日本で初めて歩道橋「学童専用陸橋」が登場したのは、昭和34(1959)6月、愛知県においてです。政府は昭和40(1965)年に道路法を改正して、横断歩道橋設置の根拠となる規定を整備しました。これに基づき、昭和41(1966)年度から横断歩道橋の建設が始まりました。
 
いわき市はもちろん、県内でも初めてとなる横断歩道橋が設置されたのは、90度に近い大曲りのカーブの先、常磐炭礦第四坑に至る三差路の道路が分岐し、すぐ鉄道の四坑踏切に接する「常磐横断歩道橋」でした。当時、付近の通行者は湯本第二小学校の児童や炭鉱従業員などの通勤者合わせて1日平均数千人に達していました。これら人々の安全を守るため、昭和4112月、国道6(現いわき-上三坂-小野線)に設置されもので、設置場所は傾城の隣り、常磐湯本町上川でした。完成後の昭和46(1971)年、さらに、既設の横断歩道橋を延長して、常磐線をまたぐ人道橋が接続されました。
 
横断歩道橋が設置し始まった時期は、交通往来が激しい場合は、道路は車両通過路であり、歩行者は安全対策のために分離されました。当時は、そのことが“人間優先”だったのです。しかし、交通をめぐる人と車の関係は変化していくようになると、新たな歩道橋建設は生まれにくい環境へ移行していきます。常磐炭礦は閉山して常磐興産に生まれ変わり、一部の炭鉱住宅は湯本川調節池や市営住宅などへ。「常磐横断歩道橋」の周囲環境も大きく変化し、横断歩道橋の利用者も少なくなりました。 

(いわき地域学會 小宅幸一)

 

その他の写真

 傾城山から常磐線、四坑炭鉱住宅を遠望(昭17、磐城国道事務所提供)

傾城山から常磐線、四坑炭鉱住宅を遠望 

丘陵地の間を、縫うように通じていた浜街道は国道へ 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

■地図1  丘陵地の間を、縫うように通じていた浜街道は国道へ 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕 

炭鉱開発が進み、狭い低地に炭鉱施設や従業員住宅などが林立 〔1.5,0000地形図 平(昭和27年応急修正)   国土地理院発行〕

■地図2 炭鉱開発が進み、狭い低地に炭鉱施設や従業員住宅などが林立 〔1.5,0000地形図 平(昭和27年応急修正)   国土地理院発行〕 

「傾城」は今も重要な道路沿い 〔1.25,000地形図 常磐湯本(平成18年更新)〕

■地図3 「傾城」は今も重要な道路沿い 〔1.25,000地形図 常磐湯本(平成18年更新)〕

国道6号の常磐傾城歩道橋竣工(昭和41年12月、いわき市所蔵)

国道6号の常磐傾城歩道橋竣工(昭和41年12月、いわき市所蔵) 

常磐湯本町傾城の自動車事故多発のため、付近の国道6号に設置された警告用の赤色回転塔(昭和53年9月、いわき民報社撮影)

常磐湯本町傾城の自動車事故多発のため、付近の国道6号に設置された警告用の赤色回転塔(昭和53年9月、いわき民報社撮影)

湯本町傾城・国道6号(昭和50年代、いわき市撮影)

 湯本町傾城・国道6号(昭和50年代、いわき市撮影) 

湯本町傾城の高台から南方の常磐線、国道6号を見る(昭和29年頃、常磐公民館提供)

湯本町傾城の高台から南方の常磐線、国道6号を見る(昭和29年頃、常磐公民館提供)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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