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『常磐湯本町八仙』(令和2年7月29日市公式SNS投稿)

登録日:2020年7月29日

いわきの『今むがし』Vol.138

常磐炭礦八仙住宅〔昭和40年代初め、笹島静江氏提供〕

1 大きな企業は、従業員の福利厚生の一環として「社宅」と称した集合住宅を複数棟設けました。企業が設けた集合住宅のうち、いわき地方で独自に発展したのが、「炭鉱住宅」です。日本では北海道、九州などの産炭地でしか生まれませんでした。
 地下採炭は断層の崩落やガスの噴出などが生じる可能性があり、採炭現場は死と隣り合わせだったので、ここで働く鉱員を募るためには、厚生施設を整備し、全国から募集することが必須でした。そこで、炭鉱会社は鉱員の福利厚生のために、住居、光熱水費などの生活全般を支援する仕組みをつくったのです。
 明治時代から大正、昭和時代初期にかけて、常磐炭田内の炭鉱には、農作物などが冷害や暴風雨で被害を受けた東北の農山村から、口減らしや職探しのため、多くの労働者が流入してきました。
 彼らに提供された「炭鉱住宅」はさまざまな意味が込められ、略して「炭住(たんじゅう)」と呼ばれました。
 そこは、各地から流入してきた坑夫(後に「鉱員」と呼称)・家族にとって、相互助け合いの精神が息づく場でした。
 湯本町八仙の炭鉱住宅は、入山採炭(株)が5坑、6坑(現市石炭・化石館)を開削した大正時代から昭和時代にかけて建設されました。
 昭和20(1945)年8月、戦局が悪化していた日本は戦争相手国が戦後のあり方を示した「ポツダム宣言」を無条件で受け入れ、長きにわたる戦争を終結させました。
 戦後日本は荒廃の極みにあり、衣食住が不足していました。このなかにあって、日本のほぼ唯一のエネルギー源である石炭の増産によって経済復興を図る施策が打ち出されました。石炭産業の優遇策により、昭和22(1947)年1月、「炭鉱労務者住宅建設計画実施要綱」が決定。大手はもちろん中小・零細炭鉱に至るまで、規模に応じて炭鉱住宅や世話所などの厚生施設整備が進み、八仙住宅も改良されました。
 炭鉱住宅には1棟に3、4世帯が入っており、間取りは6畳2間、あるいは4.5畳1間・6畳1間でした。棟の間には共同便所、洗い場があり、共同風呂が炭鉱住宅の一角に1か所ないし2か所配置されました。
 昭和30年代以降、石炭から石油へのエネルギー革命によって石炭産業は衰退し、これに伴って炭鉱労働者は減少、炭鉱住宅も消滅や縮小の道をたどりました。
 大手の常磐炭礦磐城礦業所(じょうばんたんこういわきこうぎょうじょ)は昭和46(1971)年4月に閉山しました。このとき、常磐炭礦(株)が保有する炭鉱住宅は1,227棟、5,808戸。このうち木造は5,394戸で、ほとんどが修理を要する状態でした。八仙炭鉱住宅は、495戸を数えました。

常磐炭礦磐城礦業所の閉山闘争支援県民大会で八仙住宅を行進〔昭和46(1971)年2月、渡辺聖一氏提供〕

2 市は常磐炭礦と協議し、「都市再開発法」に基づいて、国費3分の2、残額85%の起債が適用できる「不良住宅改良事業」によって、数多い炭鉱住宅の一部を対象に改良事業に踏み切る方針を決めました。
 その手始めとして、八仙炭鉱住宅(台ノ山住宅を含む、68棟439戸、うち空き家86戸)を取り壊し、新たに市営住宅「八仙団地」を整備することとしました。
 八仙地区が選ばれたのは、閉山によって人口が流出し、経営不振になっている商店街を人口増によって復興させる必要があること、そのためには商店街に最も近い八仙地区が適地であること、さらには新たな公共投資の投入によって地元企業の景気浮上を図るためでした。
 木造平屋の炭鉱住宅を取り壊しながら、順次5階建ての高層アパートを建てて入室させる方式で、周囲の緑地化も進めました。入居は昭和48(1973)年度から開始され、昭和52(1977)年3月に全16棟・460戸が完成し、入居も完了しました。
 炭鉱住宅時代の家賃はわずか月額270円でしたが、新しいアパートは約6,000円前後。一般の市営住宅より割安でしたが、炭鉱住宅に住んでいた人にとっては重い負担でした。それでも、これまでの共同トイレ・風呂から解消されて快適環境を得られるようになりました。
 この八仙住宅は、昭和52年7月、住宅改良事業関係部門で成果が認められ、建設大臣表彰を受けました。
 その後、アパートは改良工事が施されましたが、建設から半世紀を経て、湯本市街を取り巻く生活環境は大きく変化しました。常磐炭礦は昭和51(1976)年に全面閉山となり、湯本市街の空洞化も進んでいるため、アパートの入居率は低下傾向にあります。
 

(いわき地域学會 小宅幸一)

 

その他の写真

湯本駅、品川白煉瓦工場、常磐炭鉱台ノ山、八仙炭鉱住宅を台ノ山の高みから見る(昭和30年代初め、野木茂氏撮影)

3 湯本駅、品川白煉瓦工場、常磐炭鉱台ノ山、八仙炭鉱住宅を台ノ山の高みから見る(昭和30年代初め、野木茂氏撮影)

 

八仙炭鉱住宅(昭和46年3月、いわき市撮影)

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八仙炭鉱住宅(昭和47年5月、いわき市撮影)

5 八仙炭鉱住宅(昭和47年5月、いわき市撮影)

 

閉山後の八仙住宅(昭和47年5月、いわき市撮影)

6 閉山後の八仙住宅(昭和47年5月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅の取り壊し(1)(昭和47年6月、いわき市撮影)

7 八仙炭鉱住宅の取り壊し(1)(昭和47年6月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅の取り壊し(2)(昭和47年6月、いわき市撮影)

8 八仙炭鉱住宅の取り壊し(2)(昭和47年6月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅の取り壊しを見守る人々(1)(昭和47年6月、いわき市撮影)

9 八仙炭鉱住宅の取り壊しを見守る人々(1)(昭和47年6月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅の取り壊しを見守る人々(2)(昭和47年6月、いわき市撮影)

10 八仙炭鉱住宅の取り壊しを見守る人々(2)(昭和47年6月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅のアパート化(昭和47年10月、いわき市撮影)

11 八仙炭鉱住宅のアパート化(昭和47年10月、いわき市撮影)

 

八仙炭鉱住宅と八仙アパート(昭和48年1月、いわき市撮影)

12 八仙炭鉱住宅と八仙アパート(昭和48年1月、いわき市撮影)

 

旧炭鉱住宅跡に建設された市営の八仙アパート(手前は湯本中央病院)(昭和50年頃、いわき市撮影)

13 旧炭鉱住宅跡に建設された市営の八仙アパート(手前は湯本中央病院)(昭和50年頃、いわき市撮影)

 

八仙アパート(昭和51年4月、いわき市撮影)

14 八仙アパート(昭和51年4月、いわき市撮影)

 

湯本駅、八仙住宅を西側高みから見る(昭和52年4月、いわき市撮影)

15 湯本駅、八仙住宅を西側高みから見る(昭和52年4月、いわき市撮影)

 

 

八仙アパート(昭和56年12月、いわき市撮影)

16 八仙アパート(昭和56年12月、いわき市撮影)

 

湯本市街地を御幸山から見る(平成18年8月、いわき市撮影)

17 湯本市街地を御幸山から見る(平成18年8月、いわき市撮影)

 

八仙アパート(令和2年4月、いわき市撮影)

18 八仙アパート(令和2年4月、いわき市撮影)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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