『平字四町目、字五町目』(令和6年1月16日市公式SNS投稿)
登録日:2024年1月16日
いわきの『今むがし』Vol.180
■地図1 一町目~五町目 〔元和8(1622)年 「岩城平城内外一覧図」の一部〕
【江戸時代の四町目、五町目】
三町目と四町目の間にも町木戸が備えられていました。町の中心からは北への道路が分岐し、白銀侍屋敷に通じていました。通りの道幅は6間1尺(約11.2m)と三町目に比べ、幾分狭まっていました。
江戸時代、一~五町目には、さまざまな商家が軒を連ねていましたが、このうち四町目は他とは異なった機能を有していました。
それは、江戸時代初めの慶安3(1650)年、魚を扱う五十集(いさば)問屋が四町目に集められたことです。小名浜や四倉などの浜から平城下までは十数km。魚問屋は朝、浜から馬で鮮魚が運ばれると、集まった魚屋との取り引きに立ち会った。城下の様子を記述した『磐城枕友(まくらのとも)』には、「魚は東海の美を尽くし、小名・四ツ倉の浜より日毎(ひごと)に馬にて転輸す(運び入れ)、価安くして味美なり…魚は鯛、鰹、方頭魚(ほうぼう)、鮃(ひらめ)、鮟鱇(あんこう)、鰯の類、甚(はなは)だ多くして積むこと山のごとし」とあります。
鮮魚の売買は四町目に限られ、仕入れ先から売り値まで細かく定められていました。安藤家時代の文政10(1827)年と万延元(1860)年には町奉行所からお触れを出して徹底させています。
元禄9(1690)年の四町目は家数66軒、男性223人、女性157人の計380人、同じく五町目の家数は62軒、男性163人、女性161人の計324人でした。
四町目と五町目、五町目と立町の間には町木戸が備えられ、それぞれ堀に架かる橋を渡らなければなりませんでした。
五町目は城下への出入口に当たり、北へたどると武家屋敷を通って平窪、さらには三春に至ります。南にたどれば、新川町(にいかわまち)から谷川瀬村に通じ、さらに小名浜や豊間などにつながっています。
【四町目の魚問屋】
明治7(1874)年11月、「魚問屋届出書」(『福島県史8』)によれは、松崎家、大平家は慶安3年から藩の五十集問屋として許されておりとあり、江戸時代末期から明治時代初期の動乱期をくぐり抜けて商売を続けてきたことがうかがえます。
明治時代から大正時代にかけて、四町目の魚市場近隣には魚問屋や関連商店、さらに青果の卸売商がひしめき合っていました。特に、丸市屋、宍戸屋、吉伝などの魚卸商が問屋機能を果たしていました。
『ひまわり七十年』では「大きな丸市屋、宍戸屋、三国屋などの鮮魚介や塩干物の卸、小売の店舗が建ち並び、狭い国道は毎朝いわき七海から荷馬車で持ち込まれた魚介類の朝市でごった返し、四町目の住民は皆な生臭いを嗅(か)がされ通しであった」と、昭和時代初期を回想しています。
平町の人口が増え、取り引きが盛んになるにつれて、(株)平魚市場では本町通り往来に支障が出たうえに手狭となったことから移転が検討され、昭和3(1928)年12月に大工町へ移転開業しました。
戦後において、卸売市場の自由開設措置によって、四町目はふたたびにぎわいをみせるようになります。
魚や青果の卸売機能は、昭和52(1977)年8月に、鹿島町に中央卸売市場が完成して、移行していきました。
【伝統的建造物・釜屋】
五町目に所在する「釜屋」の建物は、重厚なたたずまいを今に伝えています。
元禄13(1700)年に創業したもので、金物・建築資材商(後に土木建設資材卸会社「諸橋」)として江戸時代に財を成して、価値観の変化した江戸から明治への激動期においても適宜対応して事業を拡張してきました。
建物は、木羽葺(こばぶ)きで荘厳な造りであったといわれますが、明治39(1906)年2月に発生した平大火で、大きな損壊を受けました。
このため、大火の教訓として耐火造りを基本として、店舗兼事務所となった建物は当時流行った2階建ての切妻土蔵造(きりづまどぞうづく)りで、正面外壁には銅板が使われ、扉や窓、補強材などには金物が多用され、明治41(1908)年に完成しました。内装で特に目立つのは、間口6間、奥行き5間の蔵造り店舗の中央部に施された、樹齢1,000年以上といわれるケヤキの太材の梁(はり)です。見る者の度胆を抜き、一方で施主にとっては繁栄の象徴を誇示することでもありました。次いで、明治44 (1911)年に耐火煉瓦が使われた袖蔵(そでぐら)が建てられました。壁にはともにセメント・モルタルが施されています。店蔵と袖蔵をつなぐ石張り建築による洋館は、大正時代から昭和時代初期に建てられました。
当時のいわき地方は、セメントや耐火煉瓦の製造が行われており、建設資材の卸・販売を手掛けていた釜屋が、耐火という大きな課題に対して、地元の製造品と伝統工法を組み合わせた近代建築に仕立てた建築文化をうかがうことができます。
■地図5 平字四町目、五町目 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕
【四、五町目におけるショッピングモール化の回避】
昭和30年代から40年代の高度経済成長期を経て、自動車の増加と街中の駐車場不足に連動したバイパス道路の整備は、必然的に広い駐車場を備えた店舗展開と大型化を誘導して郊外への進出を促していきます。「二町目」で紹介したように、この間、関係者は手をこまねいていたわけではなく、昭和55(1980)年には、商業近代化委員会いわき地域部会が商業近代化実施計画を発表しています。このなかでは、本町通りの活性化に重点が置かれ、二町目から四町目までをモール街(プロムナード風商店街)として自動車を排除する案が示されます。
しかし、代替の自動車ルート確保は難しく、平成2(1990)年11月には、計画を具体化するための「平本町通りショッピングモール基本計画策定協議会」が発足。歩道を拡幅して一方通行とする案を採用して、第一期工事として平成7(1995)年4月に国道399号西側の本町通りで完成させました。
これに対し、第二期工事の計画であった国道399号より東側の、本町通り三町目の途中から五町目までの実施の可否について検討しようと、平成8 (1996)年4月に「平東部本町まちづくり研究会」が発足。関係者協議の結果、モール化を避け、歩道と車道の段差解消、歩道のカラー化など、対面交通のまま改良工事を行うという道路建設案をつくり、市と協議しました。提案を受けた市では、ほぼこれら案に沿った形で道路づくりを行いました。
一町目から三町目までは小売業が大半でしたが、四町目、五町目は卸売り、事務所が混在し、また小売りが少ないこともあって、車だけを締め出すことの難しさがあるなど、さまざまな要素を飲み込んだうえでの選択でした。
同じ本町通りでありなから、まったく異なった道路形態を取った東部と西部の通り。ここに、商店街づくりに決定的な有効策を打ち出せない中心市街地のジレンマが見え隠れします。脱クルマを志向しながら、クルマなしでは街の発展が見出せない現状がそこにはあります。
【伝統的建造物(旧釜屋)の再生】
社会変化は、老舗の店にも深い影を落としていきます。財を成した「諸橋」(←「釜屋」)は平成14(2002)年2月、自己破産というカタチで幕を閉じました。破産に伴い、建物の処分が不動産屋や歴史家など幅広い観点で着目されましたが、平の不動産賃貸業者が「由緒ある建物を後世に残す」目的で、平成16(2004)年に土地と建物を取得し、利活用を呼びかけました。
公共的な活用と併せて、老舗という流れを受け継ぐため商業施設として再生を模索し、多目的空間やカフェの入った「サロン・ド・蔵」が平成18(2006)年4月にオープンしました。
【五町目における住居地としての機能】
本町通りにおける商業の空洞化は人口減少に連動し、商業の近代化策を地元民が図っていくという活力も失われていくという衰退の道をたどりましたが、近年、「一町目」でも紹介したように、商業地が元々有していた利便性という観点を見直し、中高齢者の居住地としてマンションや高齢者賃貸住宅など、自動車移動に頼らない住機能が新たに付加されることになっています。
本町通りの居住者人口は長年減少し続けていましたが、一町目や四町目、五町目で近年急増している時期があります。これは居住用高層ビルが建ったからでした。
【時代変化をくぐり抜けてきた本町通りの長い道のり】
平本町通りは江戸時代以来、いわき地方最大の商店街として機能してきました。本町通りには卸、仲卸、小売の店が立錐(りっすい)し、繁栄を極めました。しかし、明治時代以降の社会変化は絶対的に揺るぎのなかった商店街を変容させていきます。
生活の改善や効率化など、たゆまぬ努力と富への欲求が商品取り扱いの内容を変え、商店の入れ替わりが絶えず行われてきました。昭和30年代まで、質の変化こそあれ、商店街そのものの変容を強いられることはありませんでした。
しかし、昭和30年代以降の高度経済成長は、これまでとは格段の勢いで国民全体の質の向上を可能にさせ、高価な自動車が入手できるようになり、「クルマ社会」、さらには「マイカー」がそれまでの歩行や公共交通を駆逐して、駐車場の必要性を商店街に求めるようになっていきます。
既成商店街のなかに容易に駐車場確保ができない状況を尻目に、広い駐車場を持った郊外型の商業が伸長していくと、平本町通りの疲弊が進行していきます。
平成時代に入ると、商店街の空洞化は一方で郊外への拡大を加速させ、とめどなく都市計画をなし崩しにさせていく気配がありました。このようななかで、国はこれまでの中心市街地活性化の施策を講じていきます。それは、それまで商店街に投資してきた社会インフラを有効に活かすことでもありました。
個別の駐車場を連携させて買い物をしやすくするという商業関係者の結束や、集合住宅誘導に当たっての税制優遇策、公共施設機能の導入などの行財政措置などが展開され、本町通りもこれまでの空き家が櫛欠けのように出現する一方で、駐車場の有効配置や集合住宅の建設が進められました。
これまでの歴史をみてわかるように、街、それも商店街は絶えず新たなステージを模索しています。その点で、完成形はないといえます。少子高齢社会、カード社会、ネットショッピングなどが進行するなか、本町通りはどこへ向かうのでしょうか。
(いわき地域學学會 小宅幸一)
その他の写真
■写真1-1 平字四町目角のマルトモ書店 〔昭和10年代初期 猪狩信子氏提供〕
■写真1-2 平字四町目角に位置した「マルトモ書店」 書店としては昭和40年代に閉じる。 〔平成18(2006)年10月 いわき未来づくりセンター撮影〕
■写真1-3 平字四町目角は駐車場へ転用 〔令和4(2022)年10月 小宅幸一撮影〕
■写真2-1 平字四町目(写真左の建物は茨城相互銀行平支店)を東方に向かって見る 新しい交通ルール「人は右、車は左」の横断幕が見える。 〔昭和29(1954)年頃 稲葉廣巳氏撮影〕
■写真2-2 平字四町目を東方に向かって見る 銀行の隣にあった「伊勢屋」の場所は現在「ホテル ルートイン」が立つ。写真右の「丸市屋」はかつての魚卸問屋で、小売部門が現在に継がれている。 〔令和4年11月 小宅幸一撮影〕
■写真3-1 平字四町目を西方に向かって見る 〔昭和51(1976)年4月 いわき市撮影〕
■写真3-2 ショッピングモール化を断念し、従来の通りとして維持する四町目 〔平成9(1997)年9月 いわき民報社撮影〕
■写真3-3 変わらないようで、刻々と変わっていく街が新旧写真で見える 〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕
■写真4-1 釜屋 〔大正14(1925)年4月 斎藤写真館撮影〕
■写真4-2 「釜屋」付近の五町目を西方に向かって見る 〔平成9(1997)年9月 いわき民報社撮影〕
■写真4-3 「釜屋(→諸橋)」は平成14(2002)年に自己破産し、まちづくり団体が内装をリニューアルして再生 〔平成15(2003)年4月 いわき未来づくりセンター撮影〕
■写真4-4 「釜屋(→諸橋)」周辺では住環境の利便性が高いことから、高層住宅が建設 〔令和3(2021)年11月 小宅幸一撮影〕
■地図1 一町目~五町目 〔元和8(1622)年 「岩城平城内外一覧図」の一部〕
■地図2 平町市街全図 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕
■地図3 平町全図の一部(平字一町目~五町目) 〔大正5(1916)年4月 清光堂発行〕
■地図4 平字一町目~五町目 〔1.8,000 昭和7(1932)年頃〕
■地図5 平字四町目、五町目 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕
四町目の魚問屋「吉伝」。看板の「問ヤ」は荷造り箱の廃物利用。店頭には塩サケ、スルメがせぶらさがっている。(大正時代 『いわき商業風土記』)
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