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『田人町黒田』(令和5年4月26日市公式SNS投稿)

登録日:2023年4月26日

いわきの『今むがし』 Vol.167

田人村大字黒田および周辺 黒田では炭鉱の記号が見える。 〔1.50,000 小川(明治41年測図) 国土地理院発行〕

田人村大字黒田および周辺 黒田では炭鉱の記号が見える。 〔1.50,000 小川(明治41年測図) 国土地理院発行〕

 田人町黒田は市南部に位置する田人町の東域から北東域を占め、区域の大半は山に囲まれています。
 地元では上黒田と下黒田という地域区分の表現をしていますが、これは、元禄年間に「村切り」の措置で「上黒田村」と「下黒田村」に分かれたことに由来するのですが、明治8(1875)年3月、元に戻すカタチで合併し「黒田村」となりました。
 次いで、明治22(1889)年4月、黒田(くろだ)村、旅人(たびうと)村、南大平(みなみおおだいら)村が合併して田人村となり、同時に荷路夫村(にちぶ)、貝泊村(かいどまり)、石住村(いしずみ)が加わって、「田人村外三ケ村組合村」(「組合村」とは、構成する荷路夫村など3か村では人口が少なく、分野によっては単独では行政執行できないため、共同で行政執行を行う組織。昭和16〔1941〕年4月に組合村相互が合併して、新生・田人村が誕生)が誕生しました。
 田人村の村名は、合併対象で人口の多かった黒田と旅人の一字ずつを取ったもので、村内の重要施設となる村役場は旧旅人村、小学校は旧黒田村に設置されました。
 黒田地区においては、林業だけでなく、石炭産業やこんにゃく栽培、酪農が加わり、地区内産業は活発化していきました。
 黒田字別当周辺には中規模の品川黒田炭礦や三和炭礦が稼働していたこともあって、小規模ながら商店街が発達し、映画館も開設されました。
 品川黒田炭礦や三和炭礦はいずれも山間部にあり道路交通も十分でなかったことから、石炭運搬に際し、鮫川渓谷に架空索道を渡し、山田村から鉄道で植田駅まで石炭を運んでいました。ほかにも小・零細炭鉱がいくつも稼働していました。
 しかし、昭和30年代、石炭から石油へのエネルギー革命により、すべて姿を消しました。
 林産品や特産のこんにゃくも、安価な輸入品に圧されて衰退の一途をたどりました。酪農も経営環境が厳しくなりました。
 田人村は昭和41(1966)年10月、14市町村合併により、いわき市田人町となりましたが、このころ以降、これまで支えていた各産業が衰退をたどり、歩調を合わせるように人口減少が加速していきました。

田人町黒田 1.25,000地形図 下平石(平成18年更新)

地図2 田人町黒田 1.25,000地形図 下平石(平成18年更新)

 人口減少が続くなか、田人町では空き家などを活かした二地域居住者や市外からの移住者の受け入れを積極的に取り組んできました。しかし、思わぬ災難が黒田地区に降りかかってきます。
 平成23(2011)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以降、東北地方の地殻バランスが崩れていったのです。
 大地震からちょうど1か月後の4月11日、地殻変動に揺り動かされて内陸部の田人町でも M7.0、震度6弱の誘発性の大地震が発生しました。
 場所は、井戸沢断層に沿って西側に出現した断層(塩ノ(しおの)平(ひら)断層(だんそう))付近でした。断層が地割れや亀裂として地表に現れ、同時に湯ノ岳断層が動いたのです。
 被害の表出個所は井戸沢断層に平行して西へ約1kmずれており、地震は西側が落ちる正断層でした。その落差は70~80cm、最大では2m近くの落差が生じた個所もありました。表出した断層は北側の田人町石住字綱木から南側の同黒田字大久保まで約11kmに及びました。
 翌日の12日も湯ノ岳断層西側を震源とするM6.4(当初M 6.3)震度6弱の地震が発生しました。
 大きなこの二つの地震が起こった場所は、いずれもプレート内の浅い場所で起こった直下型地震でしたが、これまで断層活動度が低いとされてきた区域でした。
 原因としては東北地方太平洋沖地震が起こった後、陸側のプレートが本震によって押される力から解放されたことが発端となりました。反作用として東西方向に引っ張られる力が働くようになり、東側に動いた硬い地盤の移動に軟らかい地盤がついていけず、地盤の境目となったいわき市西部の断層付近に隙間ができて地殻活動を起こしたことによって、正断層型の地震となったものでした。
 塩ノ平断層に沿って、数戸の家屋や県道、市道、林道、山野などが被災しましたが、その後復興が進むなか、断層面の傾斜角約80度、最大で約2mの落差で西側が落ち込んだ現場(黒田字塩ノ平)では、地震遺構として学術的に大変貴重であることから、市は昭和28(2016)年5月に市天然記念物に指定しました。
 また、地区民はこの誘発地震を後世まで伝えようと、平成25(2013)年から毎年断層に沿ってイチョウの植栽をしています。
 人口減少が続くなか、長い間、町民と市は学校の統廃合を視野に協議してきましたが、平成26(2014)年3月には田人第一、第二小学校、貝泊小学校、石住小学校、田人中学校が統廃合、同年4月に黒田の田人第一小学校跡地に田人小中学校が開校しました。
 その一方で、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故で、二地域居住者や移住者のほとんどの人が田人町から市外へ避難してしまいました。
 その後、働き方改革や新型コロナウイルス感染症を機に普及したテレワークの推進に伴い、日本全体が新しいライフスタイルを求めるなか、県は令和4(2022)年、移住者の受け入れを推進するため、「お試し移住村」のモデル地域として、浜通りでは田人町の入旅人(いりたびうと)エリア(田人町を中心とした浜通り)を設定しました。
 かつて移住者を積極的に受け入れてきた田人地区。以前とは異なった移住者の「田舎暮らし」がどのように展開されていくのか、田人町においても自らの暮らし方を関わって模索が続きます。

(いわき地域学會 小宅幸一) 

その他の写真

田人町黒田字別当の家並みを北側の熊野神社から見る(平成7年4月、高萩純一氏撮影)

田人町黒田字別当の家並みを北側の熊野神社から見る(平成7年4月、高萩純一氏撮影) 

田人町黒田字別当の現在 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕 

田人町黒田字別当の現在 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕 

田人村大字黒田の品川黒田炭礦全景を西側から見る〔昭和30年(1955)頃 板津弥吉氏撮影〕

4.■写真2-1  田人村大字黒田の品川黒田炭礦全景を西側から見る〔昭和30年(1955)頃 板津弥吉氏撮影〕 

黒田品川黒田炭礦の跡地 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕

黒田品川黒田炭礦の跡地 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕 

田人第一小学校を校門付近から見る〔昭和51(1976)年2月 いわき市撮影〕

田人第一小学校〔昭和51年(1976)2月  いわき市撮影〕 

田人第一小学校跡に建てられた田人小中学校 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕

田人第一小学校跡に建てられた田人小中学校 〔令和3年11月 小宅幸一撮影〕 

図  内陸直下型の誘発地震

図  内陸直下型の誘発地震 

図 逆断層と正断層

図 逆断層と正断層 

田人町黒田字塩ノ平の林道(平成23年4月18日 市田人支所提供)

田人町黒田字塩ノ平の林道(平成23年4月18日 市田人支所提供) 

田人町黒田字塩ノ平地内の林道・改修完了後(平成24年6月  いわきジャーナル撮影)

田人町黒田字塩ノ平地内の林道・改修完了後(平成24年6月  いわきジャーナル撮影) 

田人町の井戸沢断層の「活断層に学ぶ」・ふくしま震災遺産保全プロジェクトのアウトリーチ事業(平成27年3月、いわき民報社撮影)

田人町の井戸沢断層の「活断層に学ぶ」・ふくしま震災遺産保全プロジェクトのアウトリーチ事業(平成27年3月、いわき民報社撮影) 

田人町の井戸沢断層地ラインにイチョウを植樹(2018年4月、いわき市撮影)

田人町の井戸沢断層地ラインにイチョウを植樹(2018年4月、いわき市撮影)

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