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『金山町』(令和4年4月6日市公式SNS投稿)

登録日:2022年1月31日

いわきの『今むがし』Vol.150

舗装工事が完成した、通称・金山の国道6号〔昭和29(1954)年、磐城国道事務所撮影〕

金山の国道6号 金山町は勿来地区北部の丘陵地に位置しており、この町名が正式に認証されたのはいわき市合併以降のことで、それ以前には通称として存在していました。
 明治時代初期の地籍図では、小浜村および岩間村に属し、地名はおろか、その周辺にも「金山」の地名はありません。その後、明治41(1908)年測図の地形図には金山の地名が登場しており、正式ではないものの、通称地名としては浸透していたものと考えられます。
 金山町が開発の地として着目されたきっかけは、戦後の帰農開拓でした。一帯は水はけの悪い丘陵地とその間の深い谷で構成され、終戦前は4世帯しかなかったといわれています。昭和20(1945)年8月の終戦直後、戦災者、引揚者、復員者などが農地を確保し、開拓農家17戸による開墾が始まりました。
 金山の大きな変化は、昭和26(1951)年、新しい一級国道6号線が植田市街から金山まで通じたことによります。
 当時の国道改修は、既設道路の拡幅を基本とするのが通例でしたが、浜街道から転じた植田-湯本の道路は屈曲が多く、常磐線を二度も交差しなければなりませんでした。また、湯本市街内の既設道路も細い道がほとんどでした。
 このため、既成の路線を大きく外れるルートが採られることになったのです。
国道整備の順番として、浜街道の改良工事は湯本町の常磐線踏み切りから内郷を経て平へ向かう改修が優先され、昭和10年代に完成しました。この後、植田-湯本は後回しになり、戦前・戦後の混乱期を経た時代まで待たなければならなかったのです。
 国道工事は昭和23(1948)年8月、茨城県多賀郡大津町-湯本町大字関船(17.83km)から開始されました。
 福島県側の国道新設区間(植田-泉-湯本)13.6kmのうち、まず植田-泉村大字滝尻(7.48km)で着手されました。植田-金山(2.8km)は昭和26(1951)年3月までに完成、植田-泉は昭和27(1952)年5月に完成しました。
 

金山自治会による花壇づくり〔昭和53 (1978)年4月、いわき市撮影〕

金山自治会による花壇づくり〔昭和53 (1978)年4月、いわき市撮影〕 昭和26(1951)年3月に植田-金山の国道が開通すると、沿線開発が始まります。まず同年、国道の大字岩間字上山(かみやま)に4戸の町営住宅が建設され、その後も公営住宅が相次いで建設されます。
 国道西側では、植田町営林署が昭和27(1952)年にスギやヒノキ、クロマツ、クヌギの生育・研究する「金山苗圃(なえほ)」を設置します。
 昭和30年代に入ると高度経済成長に伴うレジャーが拡大し、金山の地はゴルフ場として注目されました。当時、いわき地方には水石山ゴルフ場が開設されていましたが、金山はより利便性があると考えられました。
 しかし、建設予定地が一早く不動産会社に買収される事態となり、また住宅地を目当てに地代の高騰が進んだことから、昭和38(1963)年に計画は流れました。
 その一方、買収された土地は住宅開発がいくつも進んでいきます。国道の交通量が増え、人口が増えるにつれて、住民のまとまりを図ることが必要とされたことから、昭和40(1965)年10月に、金山自治会が創設されました。
 この年、いわき南警察署金山派出所が開所(昭和43年に統合廃止)。昭和42 (1967)年には金山郵便局、翌年には金山公民館がそれぞれ設置され、住環境整備が進みました。
国道の西側には、昭和44(1969)年に金山運動公園が開設、さらに金山苗圃が山田町に移転した跡地の払い下げを受けて、昭和48(1973)年には勿来勤労青少年ホーム(平成31年4月に「金山公民館」へ転用)が設置されました。
 こうした地域開発が進むなか、通称地名と法的地名が異なることで混乱が増えていきました。
当時、地域内の公共・私設の機関や施設はすべて金山の名で呼ばれ、一般的にも金山で通用していました。郵便局もバス停も金山でした。昔からの岩間、小浜の中心からは離れていて行政上の正式地名は岩間町上山と小浜町中ノ作などから成っていたうえに、地番も入り組んでおり、また実際には「金山」の地名がないため、郵便の誤配や商店などの集金・物品配達が不便でした。
 このため、昭和41(1966)年には金山自治会が小浜、岩間、両大字区長の同意を得て、「勿来市金山町設定に関して」の陳情書を勿来市議会に提出しましたが、市当局からは権利関係が複雑で、かつ土地境があいまいな場所があることから、国土調査に基づく改正が妥当と説かれました。このことから、区長会などは昭和45(1970)年度から国土調査事業に着手。昭和48(1973)年3月、地域の一部で金山町の大字が設定され、汐見台や朝日台などの字名改称が行われましたが、要望の全域で行われることにはなりませんでした。
 また、古くから地域に伝わる「安寿と厨子王」をまちづくり活動につなげようと、昭和49(1974)年に「安寿と厨子王遺蹟顕彰会」が発足しました。
 平成11(1999)年からは金山自治会がこれを引き継ぎ「金山の昔を伝える会」を立ち上げ、平成14(2002)年からは「安寿と厨子王祭」が毎年5月に催され、安寿姫や厨子王丸に扮した地区住民が神輿とともに地区内を練り歩き、母子の物語を通じた家族愛を語り継いでいます。その他にも、安寿と厨子王像の建設、同様な伝説が残る他地域との交流、案内板の設置、関係冊子の発刊など、さまざまな活動を展開しています。
 なお、金山自治会に対しては「現在わが国のコミュニティとして注目を集めるほどの施設と体制をもって、地域社会がつくり上げられたが、これは住民自らの英知とたゆまぬ努力で築かれた住民手づくりの町」であることが認められ、昭和47(1972)年に福島県知事表彰、昭和52(1977)年にいわき市長表彰、自治大臣表彰などが贈られています。
(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

金山地内の国道6号で道路査察(昭和44年5月、いわき市撮影)

3 金山地内の国道6号で道路査察(昭和44年5月、いわき市撮影)

 

建設中の市勤労青少年ホーム(昭和48年1月、いわき市撮影)

4 建設中の市勤労青少年ホーム(昭和48年1月、いわき市撮影)

 

完成した市勤労青少年ホーム(昭和48年4月、いわき市撮影)

5 完成した市勤労青少年ホーム(昭和48年4月、いわき市撮影)

 

市勤労青少年ホーム(昭和53年、いわき市撮影)

6 市勤労青少年ホーム(昭和53年、いわき市撮影)

 

勿来勤労青少年ホーム(昭和59年5月、いわき市撮影)

7 勿来勤労青少年ホーム(昭和59年5月、いわき市撮影)

 

「安寿と厨子王」祭り(平成22年頃、横山英司氏提供)

8 「安寿と厨子王」祭り(平成22年頃、横山英司氏提供)

 

安寿と厨子王像と祭り(令和元年5月、いわきジャーナル撮影)

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金山町の主要地方道いわき-上三坂-小野線(令和2年9月、小宅幸一撮影)

10 金山町の主要地方道いわき-上三坂-小野線(令和2年9月、小宅幸一撮影)

 

金山町の主要地方道いわき-上三坂-小野線(令和2月11月、小宅幸一撮影)

 

11 金山町の主要地方道いわき-上三坂-小野線(令和2月11月、小宅幸一撮影) 

市勤労青少年ホームは金山公民館に転用(1)(平成31年2月、いわき市撮影)

平成31年2月 金山公民館 いわき市撮影

 

市勤労青少年ホームは金山公民館へ転用(2)(令和2年9月、小宅幸一撮影)

13 市勤労青少年ホームは金山公民館へ転用(2)(令和2年9月、小宅幸一撮影)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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