『いわき平競輪場』(令和元年9月11日市公式Facebook投稿)
登録日:2019年9月11日
いわきの『今むがし』Vol.126
写真1 南側から見る平競輪場 〔昭和27(1952)年6月、松本正平撮影・松本正夫氏提供〕
自転車競技には、タイムトライアルや、2~4人で競うスプリントなどのほか、日本で生まれて発展してきた「ケイリン」があります。
戦後の社会・経済が混乱しているなか、政府は財源確保のため、戦前からあった自転車競走に車券を付加する「報償制度併用による自転車競走」を企画し、法制化に向け政党間の調整を経て、連合国軍総司令部(GHQ)に届けました。しかし、GHQは政府を主権者とすることに反対し、各地方が行う性質のもの、と意見を付して承認しました。
昭和23(1948)年8月には「自転車競技法」が公布・施行されました。この法律は昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、荒廃、特に空襲により被災した都市の復興を図るため、また地方財源を確保するための収入源として競輪場の整備などを盛り込んだものでした。第1条には「自転車その他の機械の改良及び輸出の振興」に寄与することを目的に、「地方財政の健全化を図るため」、指定市町村は自転車競走を行うことができると定めています。
特に戦災に遭った都市の復興においては、国からの補助金が次第に削減されるなか、自主財源が大きな課題となりました。福島県では郡山市、平市が被害を被ったことから、いずれも国の補助金を受けながら戦災復興事業を手がけていましたが、財源には限りがありました。各戦災復興都市は、復興資金の一部を得るための方策を模索し、その方策の一つとして「自転車競技法」にたどりついたのです。
この法施行を前に、昭和23(1948)年には第3回国民体育大会が福岡県で開催されることになっていたため、小倉市は競技法案を研究し、いち早く競輪場誘致を働きかけていました。
小倉市は空襲で被災し、復興費を捻出する必要がありました。加えて当時は “黒ダイヤ”と呼ばれる石炭を掘る炭鉱が近くに所在しました。炭鉱で働く人々は裕福でしたが、当時は娯楽が少ない時代。賭博や酒に走る人が堂々と遊べる施設は、恰好の誘致要因となりました。
小倉市で第1回競輪のレースが行われたのは昭和23(1948)年11月のこと。国民体育大会終了の1か月後の時期でした。この成功により、全国の戦災復興都市は、開場に向けて条件整備を図りました。以後5年間に開場した競輪場は全国で62か所を数えました。
平市は小倉市と同様に炭鉱地域を控えているという都市環境が極似していたことから、関係者は競輪場の施設設置と開催権の確保を計画し、昭和24(1949)年末から積極的に誘致運動を展開。昭和25(1950)年5月、競輪場設置を市議会に上程して可決を得ました。さらに、同年9月には通商産業省の認可を得て、設置場所の検討に入りました。
候補地としては、中塩、九品寺前、谷川瀬の3か所が挙がりましたが、最終的に農地の壊地が少ない谷川瀬が選ばれました。公共団体の財源を競輪、すなわち賭博(とばく)に依存することには反対の声が上がりましたが、平市の戦災復興事業を成し遂げるには莫大な事業費が必要となったことから、これを容認する声の方が多い状況にありました。
開催準備が間に合わず、昭和25(1950)年12月、翌年1月と、2回の延期を経て、平競輪場は昭和26(1951)年2月に開場しました。日本初の競輪場となる小倉競輪場から遅れること2年3か月でした。
初年こそ475万円の赤字でしたが、翌年度から黒字に転換。補助金が削減された戦災復興事業にあって、事業の仕上げを迎えた昭和20年代後半の復興事業を財政面から支えることになりました。
写真2-1 いわき平競輪場の正面 〔昭和52(1977)年8月、いわき市撮影〕
写真2-2 いわき平競輪場の正面 〔令和元(2019)年9月、いわき市撮影〕
競輪事業は平市の直営を経て、昭和30(1955)年前後の「昭和の大合併」により5市が誕生したことにより、昭和32(1957)年から「石城4市競輪組合」(昭和34(1959)年に常磐市が脱退)による共同開催の2本立てとなり、この間施設改修を行いながら、活況を呈していきます。
昭和41(1966)年10月1日にいわき市が誕生したことにより、競輪事業はいわき市の直営事業へ。その後も全国の一流選手を集めたダービーやオールスターも開催し、景気の動向に左右されながらも、売り上げ、入場者数ともに増加の傾向を示しました。
入場者の推移をみると、高度経済成長のさなかの昭和42(1967)年には約12万人と初めて10万人の大台を超え、石油危機の昭和48年には約55万人、低成長となった昭和50年以降は“不況に強いギャンブル”を反映してか、入場者は増加していきます。
昭和52(1977)年にはメインスタンドを改築。昭和53年3月には、第31回日本選手権競輪を開催しました。
昭和55(1980)年度はオールスター競輪開催という特別要素もあって、売上額は約378億9,900万円、入場者数は92万9,400人と、ともに史上最高を記録。この年度、競輪事業の特別会計から市一般財源への繰り入れは42億円で、一般会計の6.6%を占めました。
しかし、昭和56(1981)年度の入場者数は約48万9,600人、売上額は約306億1,400万円と減少しました。それでも、競輪場から市一般会計への繰出金は、決算残額19億円と合わせて45億円とピークを記録しました。
以後、売上げ、入場者数ともに減少傾向に入っていきます。
こうした落ち込みは、いわき市に限らず全国的な流れとなりました。減少の大きな要因は長引く不況で消費が低迷しているためで、従来から言われている“ギャンブルは不況に強い”という神話は崩れつつありました。
長期の人気低下が続くなか、競輪関係者や開催市は競輪事業の公益還元のPRやイメージアップを図り、事業回復を図ろうと試みます。平成3(1991)年4月には、「いわき」の知名度を高めるため、「いわき平競輪場」と改称しました。平成5(1993)年には、大型映像装置の設置など魅力アップを図りました。
平成15(2003)年度は市への操出金は3億円でしたが、それでも全国61施行者全体でみれば、いわき市は6番目に位置していました。いわき平競輪場だけでなく、全国の競輪事業は“曲がり角”にさしかかっていました。
いわき平競輪場は、平成15(2003)年6月から5か年継続事業で、施設の全面改修を行いました。メインスタンドなどを整備した平成18(2006)年10月のリニューアルオープンに続いて、平成21(2009)年3月バックスタンド機能を有する地域開放型施設が完成し、グランドオープンしました。
施設整備に伴う費用約150億円は、これまでの競輪事業収益積立金でまかないました。
レース終了と同時に競輪場から出てくる人たち。さまざまな表情がそのときどきの季節にあぶられて帰路を彩るのが競輪場の光景につきものでしたが、近年はネット投票などの普及もあって、余韻の空気は薄いといえます。
(いわき地域学會 小宅幸一)
その他の写真
競輪場、公園遊園地「平市絵葉書」(昭和20年代、いわき市所蔵)
平競輪場開設2周年記念(昭和28年2月)
平競輪場・第31回日本選手権競輪(昭和53年3月、いわき市撮影)
いわき平競輪場・オールスターの疾走(昭和58年10月、いわき市撮影)
いわき平競輪と改称して記念フェスティバル(平成3年7月、いわき市撮影)
いわき平競輪場リニューアルオープンフェスティバル(平成18年10月、いわき市撮影)
空撮・いわき平競輪場を北東側から見る(平成21年2月、いわき市撮影)
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