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『泉玉露』(平成29年12月13日市公式Facebook投稿)

更新日:2017年12月13日

いわきの『今むがし』Vol.84

(上)玉露から北側の丘陵地を見る〔昭和54(1979)年2月、佐藤茂喜氏撮影〕
(下)泉跨線橋から玉露方向を見る〔昭和59(1984)年8月、いわき市撮影〕

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泉駅北側一帯は条里制を基にした水田が広がる区域で、かつては東から西へ甘露寺(かんろじ)村、玉崎村(たまさき)、洞(ぼら)村と小さな村が連なっていました。江戸時代には泉藩の秣場(まぐさば)として利用されており、マツの木の多い野原が広がっていました。用水の便が悪く、水田開発は容易でありませんでした。
 明治3(1870)年12月に甘露寺村と玉崎村が合併し、その1字ずつを取って「玉露村」となりました。明治時代になって合併した村は数多く存在しましたが、最も早いこの時期、いわき地方において合併を果たした7か村はいずれも泉藩内であり、ここに泉藩の強い意向が働いたものと推測されますが、経過は明らかではありません。
 次いで、合併と成った玉露村は明治11(1878)年4月、隣接する洞村との合併を県へ申請しました。その際の理由としては、小さい村であるため「道路堤防等之(の)修繕モ自然不行届勝(ふゆきとどきがち)」になっている、としています。「殊(こと)ニ戸数人員等モ僅少(きんしょう)ニ候(そうろう)」で、「村費割合モ不鮮」であるため、合併すれば「諸費モ多分ニ可相減(そうげんか)」と挙げています。しかも「和親(わしん)モ厚ク固テ両村小前一同衆議ヲ尽シ」村名を「宝田村」としました。しかし、これは同年8月、「詮議(せんぎ)及び難(がた)し」と県に却下されました。
 玉露村に広がる低地の西側の玉露字大町、宮田、花輪、江添、原および泉字扇田、沖の区域では大正9、10(1920、21)年に、泉玉露総合耕地整理組合により耕地整理事業(この事業で玉露字六反田が消失)が行われ、さらに昭和14(1939)年に鮫川堰が完成してから、美田が広がることになりました。その一方、泉駅のすぐ北側に位置していた区域においては、住宅と畑、田畑の混在する状況が長い間、続いていました。

(上)泉玉露西方の市街を泉跨線橋から見る〔平成29(2017)年11月、いわき市撮影〕
(下)泉玉露北方の市街を泉跨線橋から見る〔平成29(2017)年11月、いわき市撮影〕

20171213-2 昭和30年代から40年代にかけて、泉市街を中心とした泉第一、第二の土地区画整理事業が進ちょくし、住環境が改善されることが認知されるようになると、泉駅の北側、いわゆる駅裏的な存在であった玉露地区の住宅開発が着目されました。
 戦後、泉陣屋跡に開校した泉中学校が、泉第一土地区画整理事業の施行に伴い、昭和38(1963)年4月に、泉町玉露字吉野作(よしのさく)に移転したことも起爆剤の一つとなりました。
 昭和52(1977)年4月の玉露地区総会では土地区画整理事業が提案されましたが、反応は鈍いものでした。その後、台風などによる大雨で水害が絶えず、土地区画整理事業による解決が有効であることについて、地区有力者は区域民に理解を求めた結果、機運は次第に盛り上がっていきました。
 こうして土地区画整理事業は、組合施行による「泉玉露土地区画整理事業」(82.7ha)として、昭和57(1982)年1月に事業認可を受けました。その後、工事が施行され、平成2(1990)年11月に事業は完了しました。土地区画整理事業区域内に存在した旧来の字名は、泉玉露一~七丁目に改称されました。
 泉駅北側の低地が泉玉露として土地区画整理事業が始まると、次いで、以前から民間開発の対象として調整が行われていた、玉露の北側に位置する丘陵地の宅地開発が前進しました。
 『永代綴にみる本谷の歴史』によれば、泉玉露の北方、泉町本谷(ほんや)にかかる住宅開発の緒は昭和47(1972)年までさかのぼると記されています。その後、石油危機などの経済変化を経て転売され、開発企業と地元が「泉団地宅地造成に関する協定書」を締結したのは昭和53(1978)年のことでした。その後、ふたたび開発企業が変更、昭和58(1983)年から「泉ケ丘ハイタウン」と銘打って宅地造成に入りました。
 さらに、昭和61(1986)年には「泉ケ丘第二ハイタウン」、昭和63(1988)年には「泉ケ丘第三ハイタウン」について、それぞれ地元との協議が整い、宅地化が進みました。
  こうして、泉駅の裏側とみられていた玉露やその背後の丘陵地では、経済動向の変化があったにもかかわらず、宅地化が進み、人口増が続きました。平成11(1999)年3月には、橋上化に伴う新しい改札口が完成。さらに同年7月には南北をつなぐ自由通路が完成し、玉露側からも容易に駅を利用することができるようになりました。
 都市の発達する条件として、都市機能、住環境の充実が必須とされていますが、交通アクセスの中継点となることも重要な要素といわれます。泉玉露の発展は土地区画整理事業を経て、周辺の商業施設が充実してきたこと、さらには、小名浜を控えすべての特急列車が泉駅に停車するという交通の利便性が挙げられます。
(いわき地域学會 小宅幸一)
 

その他の写真

泉町玉露付近 〔1.25,000地形図 磐城泉(昭和55年修正測量)〕

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泉玉露 〔1.25,000地形図 磐城泉(昭和63年修正測量)〕

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泉玉露 〔1.25,000地形図 磐城泉(平成18年更新)〕

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