『好間町北好間』(平成28年6月22日市公式Facebook投稿)
登録日:2016年6月22日
【いわきの『今むがし』 Vol.49】
上段:好間炭鉱の石炭積込場(山の裾野)や炭鉱住宅(山の中腹)(明治38年5月、真木隆四郎氏撮影)
下段:興隆期の好間炭鉱 炭鉱施設が増えているのがわかります(明治43年11月、真木隆四郎氏撮影)
現在の福島県南東部から茨城県北東部にかけての阿武隈高地東縁に沿って石炭層が露頭し、おおむね海に向かって10度前後の角度で傾斜し、深度を増していました。
したがって、高地の東縁は石炭が採掘しやすく、東に向かうほど採炭条件は難しくなっていました。
常磐炭田(「磐城国」と「常陸国」の1字ずつを採っています)の各炭鉱から採掘された石炭は北海道や筑豊に比べて熱カロリーが低かったのですが、それでも常磐、内郷、好間地区から採取される石炭は常磐炭田のなかではカロリーが高い方で、採掘の始まった明治時代中期から資本力のある炭鉱が進出しました。
好間地区のうちでも、北好間では地表近くに石炭が分布しており、地元の有力資産家である白井遠平(しらいえんぺい)氏が、明治38(1905)年に好間炭鉱(株)を興し、採炭を始めました。当時の記録によると、長屋棟数90、世帯数475、居住人口975人とあります。
最初は平(現いわき)駅まで馬車鉄道で石炭を運んでいたのですが、増産するにつれて輸送力不足となり、明治41(1908)年に常磐線に直接乗り入れできる専用鉄道を綴(現内郷)駅まで敷設し、大量輸送につなげました。
写真1、同2には、それぞれ草創期、興隆期を示す炭鉱施設群を見ることができます。
好間炭鉱の出現は、純農村であった地域に大きな変化をもたらしました。多くの人が仕事を求めて、同じ石城郡や県内、さらには東北地方各地域から流入してきました。また、好間炭鉱の周辺には、いくつもの小・零細炭鉱が生まれました。
写真の右から中央へ、高く細長い建物が見えます。これは選炭場(石炭と土砂を分ける場所)と石炭積込場(石炭を貯めておき、建物の下に敷かれた鉄道線路上の貨車の落とし込む場所)です。その右奥が坑口、手前には石炭事務所などの建物、写真右の山の斜面には炭鉱長屋が並んでいます。
カメラもフィルムも高価な時代、好間炭鉱の様子はさまざまな角度から撮影されています。絵はがきにも収められています。これらを基に立体画像が創れそうな気がするくらい画像が豊富です。
市立好間第三小学校から見る北好間 山の稜線の形でようやく古い写真と比較することができます(平成26年5月、いわき市撮影)
順調に推移していた好間炭鉱ですが、白井遠平は政治家をめざすようになり、炭鉱経営から退くと、ここに進出したのは、古河財閥でした。大正4(1915)年に「古河好間炭鉱」と命名して鉱区を引き継ぎ、元山坑として採炭をしていましたが、大正15(1926)年に東方の上好間に新しい坑口を求め、本拠地を移動。昭和2(1927)年10月にはこの鉱区は小田炭鉱に引き継がれます。
小田炭鉱は大正8(1919)年に創業し、当時は好間炭鉱の周辺に隅田川炭鉱や津川炭鉱を経営していました。古河好間炭鉱が行っていた跡には、メイン炭層を掘った後の炭層が残っていましたから、規模の小さい炭鉱会社にとって、この鉱区を採炭することは会社を大きくするチャンスだったのです。
その後、小田炭鉱は鳳城(ほうじょう)小田炭鉱へ名称を変えて採炭を継続しましたが、石炭から石油へのエネルギー革命が本格化する昭和30年代には経営不振となり、昭和36(1961)年6月には閉山となってしまいました。
その後、炭鉱住宅は残りましたが、石炭と土砂を分けた後の土砂を積み上げた「ずり山」は歳月を経て、土砂崩れの危険性が高まり、大雨などで実際に被害が発生しました。
このことから国の設けた「ボタ山(九州・筑豊炭田の呼称)災害防止工事費補助金交付要綱」の適用を要望。当初、この法の適用範囲は九州地方だけでしたが、本州(福島、茨城県)の実情を説明した結果、交付区域の拡大が認められました。旧小田炭鉱のずり山はその第1号となり、昭和54(1979)年度に、山の斜面に防砂堤のような擁壁が築かれるとともに、排水路を設ける工事が施工され、安全が保たれるようになりました。
歳月は流れ、今炭鉱施設やずり山があった場所の多くはすっかり変化し、目に映る風景から往時をうかがうことはできません。しかし、現在のいわき市の基礎を創った産業の一つであることを忘れてはならないでしょう。
写真撮影位置図
その他の写真
好間炭礦機汽かん場、炭鉱住宅(明治43年、真木隆四郎氏撮影)
好間炭礦第一斜坑(明治末期、絵はがき)
好間炭礦桟橋と積込場(明治末期、青木昭治氏撮影)
好間炭礦第一斜坑裏山から(明治44年12月、真木隆四郎氏撮影)
好間炭礦白井坂新納屋裏山から(明治41年4月、真木隆四郎氏撮影)
好間炭鉱石炭積込場(明治時代末期・絵はがき)
山神祭の相撲大会・北好間の小田炭礦(昭和11年、白岩龍峰氏撮影)
北好間・小田炭礦炭礦の住宅者(昭和17年、白石龍峰氏撮影)
好間村北好間の炭鉱住宅(昭和33年、二片英治氏撮影)
小田炭礦跡(北好間)のズリ山整地(昭和35年7月、二片英治氏撮影)
石炭を拾い集め、スコップを支えにズリ山を下りる女性(昭30代半ば、米川義克氏撮影)
好間第四小学校児童が小田炭礦跡(北好間)のズリ山でタコ揚げ(昭和44年1月、折原三郎氏撮影)
好間ずり山を北側から見る(昭和57年3月、いわき市撮影)
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