『南レンガ通り』(平成28年2月10日市公式Facebook投稿)
登録日:2016年2月10日
いわきの『今むがし』 Vol.40
国道から見た谷口通り (上段:平成元年6月・中段:平成2年10月・下段:平成28年1月、いわき市撮影)
平本町通りを横軸とすると、前回に紹介した“西村横丁”は北へ伸びる路地、これに対し南へ伸びる路地としては“二町目横丁”がありました。
同じ横丁でも、成立理由も道路幅も異なりました。前者が江戸時代には存在しなかった部分を明治時代になって路地として設けたのに対し、後者は江戸時代から存在していた通りでした。前回説明したように北側は武家屋敷でしたが、南側は本町通りを抜けると、菩提院(ぼだいいん)町(現南町)の裏通りしかなかったのです。
本町通り側から見る谷口楼(昭和62年8月、いわき市撮影)
その一角に、明治15(1882)年、天ぷら・うなぎの店として開業したのが「谷口」で、明治24(1891)年には3階建ての料亭「谷口楼」として改築しました。当時、地方都市では珍しい高さでした。
この珍しさも手伝って、俗謡には「谷口3階から釣竿さげて通るお客を釣り上げる」と、もてはやされました。
参考図~西村横丁と谷口通りの成り立ち~(江戸時代⇒昭和時代初期)
3階建てとなった理由を『写真 磐城百年史』は「そのころ谷口と向かい合って商売仇(がたき)の〔じんぼう(神保)〕が新築しはじめたため、大工棟梁(とうりょう)同士で、どっちが早く建つか、どっちが立派に出来上がるかと、7日7晩も競り合う勇ましさだった。そこで谷口の棟梁は、目にもの見せてやろうと、設計は2階だったものを当主に無断で2階から3階までを枝つけたままの櫓(やぐら)の丸通し柱を立て、その枝を造作に使い、見事な3階建てを建築し相手の棟梁をアッと言わせたという」と記述しています。
谷口楼旧建物最後の日(昭和63年2月、いわき市撮影)
明治時代から昭和19(1944)年まで谷口楼は芸妓を置き、自ら絵はがきを発行してPRするほど、隆盛を極めました。
その後、二町目横丁付近では大きな建物として谷口だけが残り、いつのころからか「谷口通り」と呼ばれるようになりました。
谷口通りの谷口楼付近(上段:昭和62年8月・中段:平成2年7月・下段:平成28年1月、いわき市撮影)
この通りが西村横丁の拡幅とともに、国道6号に抜ける都市計画道路三崎・下平窪線として決定されたのは、昭和36(1961)年のことでした。
谷口通りは本町通りから国道6号までの道路延長は、216.4m。幅員は5~7mでしたが、西村横丁が昭和57(1982)年にレンガ通りとして生まれ変わって開通すると、それに続く谷口通りの拡幅機運は一気に高まりました。
谷口通りでは、西村横丁とは異なり、本町通りから見て左、東側が移転することになりました。
元々二つの通りは食い違いに本町通りと交わっていたことから、東側に位置していた老舗の「谷口楼」はこの道路形態を是正するためにも移転または改築は避けられない状況でした。
谷口通りの萩原歯科医院付近(上段:昭和56年12月・中段:昭和63年8月・下段:平成28年1月、いわき市撮影)
本町角に位置していた「エンドー帽子店」(創業=明治17年・1884)や通り中央の真木医院(平で最古の西洋館といわれた)も移転の対象となりました。
特に、谷口楼は建築技術の粋を集めた和洋折衷の建物だけに、解体を惜しむ声は多く、検討の結果、10mほどセットバックして、新しい鉄筋コンクリート造りの料亭とする際に、大黒柱や「亀甲の間」(八角の間)などの明治時代の面影を盛り込んだ建物として、平成元(1989)年3月に改築されました。
道路拡幅中の谷口通り(平成3年3月、いわき市撮影)
道路の拡幅工事施工(レンガ通りと同じ、幅員16m、うち歩道部分が両側とも3.5m)に当たっては、「レンガ通り」と合せて、キャブ化(電線類地中化)が施され、街路樹としてハナミズキが植栽されました。
南レンガ通り開通式(平成3年6月、いわき市撮影)
“谷口通り”が幅員16mとして完成したのは平成3(1991)年6月のことで、地元・平シンボルタウン商店街により愛称・「南レンガ通り」と名付けられました。
長年の願いだった、並木通りから国道6号に抜ける「レンガ通り」と「南レンガ通り」の開通は、平(現いわき)駅の交通混雑の解消に大きく寄与することになりました。
その他の写真
平本町通りと谷口通りの交差点を西側から見る。北側の西村横丁は建物に隠れて判別つかないほど(昭和34年10月、長谷川達雄氏撮影)
平市街、レンガ通り、国道6号を南側の市文化センター屋上から見る(平成27年7月、いわき市撮影)
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