『錦町堰下』(平成27年6月24日市公式Facebook投稿)
登録日:2015年6月24日
【いわきの『今むがし』 Vol.25】
【堰下集落とその向こう、呉羽化学株式会社錦工場 一帯は工場に囲まれ、住環境が悪化していった。〔昭和30年代 渡辺政信氏撮影〕】
現在、東日本大震災の被害に遭った海岸部において防災集団移転促進事業が進んでいますが、それ以前、いわき市において集団移転を実施した集落があったことをご存じですか。
その一つとして、集落1戸残らず移転した例があります。この場所はいわき市南部の錦町堰下。鮫川と蛭田川に挟まれた錦町は平野を成していますが、その中央、株式会社クレハいわき工場がある一帯は、楕円形状になった砂地の微かに高い地形(微高地)になっています。
この微高地の南端に位置した集落が堰下でした。近くには金冠塚(ぎんかんづか)古墳があります。南側には蛭田川が流れていて水利が良く、古くから居住地となっていました。(地図1.)
【錦町堰下の現在 集落移転後、駐車場と公園に整備された。〔平成25年(2013年)2月〕】
堰下集落には勿来町大高に抜ける細い道があり、西方に目を向けると、田の中をうねうねと延びていて、通る人はめったにいませんでした。
のどかな農村風景だった一帯が大きく変わったのは、微高地の中央を南北に鉄道(現常磐線)が敷設されてからでした。ちょうど堰下集落に接して東側を通ることになり、日夜定期的に列車の“音”が生活のなかに入ってきました。
【地図1.】
次いで、株式会社クレハいわき工場の前身、昭和人絹(じんけん)株式会社が昭和9年(1934年)7月、微高地の中央に設立され、翌年に操業を開始しました。操業と同時に勿来駅との間に材料・製品運搬のための専用線が敷設され、鉄道の“音”の回数が増えました。(地図2.)
昭和28年(1953年)、呉羽化成株式会社が集落の西側に工場を建設し、これまでの細い道に工場の出入口を設けたことから、交通量が急増。道路が拡張・整備されて集落の南側に付け替えられます。これで鉄道に加えて自動車の“音”が加わりました。
昭和37年(1962年)、呉羽油化株式会社の工場が進出すると、さらに交通量が増え、鉄道との平面交差となる常磐線の踏切では事故が多発しました。
【地図2.】
このため、昭和36年(1961年)11月に公布された「踏切道改良促進法」に基づき、踏切の立体化が検討されるようになりました。 昭和36年(1961年)には、十条製紙株式会社(現日本製紙株式会社)の進出が決まり、錦町堰下の南側に位置していた市道馬場-土取線は、将来には重要産業道路となることが決定的となり、福島県は昭和39年(1964年)3月に指定となった「常磐郡山地区」の新産業都市計画に盛り込んで、踏切の立体化事業を進めました。
これに伴って、立体橋建設に必要な用地の確保により堰下集落の一部が移転。立体橋「錦大橋」は昭和44年(1969年)11月に完成。取り付け道路も翌年5月に完成しました。
【地図3.】
すでに十条製紙株式会社(現日本製紙株式会社)勿来工場は稼働しており、産業道路(後の国道289号)は自動車の往来が激しく、ちょうど立体橋の真下にある集落には“音”がふるい落とされるようでした。(地図3.)
昭和41年(1966年)11月の建設省告示によって都市計画法上の「工業専用地域」に組み入れられおり、実質的にも計画的にも住環境を維持できない状況となっていきました。
このため住民は、行政や呉羽化学工業株式会社との話し合いを進め、最終的に集団移転することを決めました。
移転対象面積は3.2ha。移転直前には市営住宅13世帯、民家32世帯の合わせて45世帯が住んでいました。
【地図4.】
呉羽化学工業株式会社に土地を明け渡した後、一般住民は錦町鷺内地内の呉羽化学工業株式会社社宅跡などに新天地を求めて移転し、昭和56年(1981年)6月に転居が完了しました。(地図4.)
移転終了後、跡地は主に緑地や従業員用駐車場に活用されています。
立体橋の一番高いところの歩道部分からは、かつての集落のあったあたりが一望できます。日中は人影がなく、広い駐車場に数台の自動車が点在しその奥には樹木、左方には公園…。
ひるがえって、東日本大震災の集団移転後の跡地は、将来どのような歴史を刻んでいくのでしょうか。
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