『湯本駅周辺1』(平成27年5月13日市公式Facebook投稿)
登録日:2015年5月13日
【いわきの『今むがし』 Vol.22】
【御幸山から見る湯本駅および周辺 現在の常磐関船町方向。写真手前には、明治20年(1887)に開通した磐城炭鉱軌道が見えます。〔明治30年代、真木隆四郎氏撮影〕】
明治30年(1897年)2月、日本鉄道磐城線水戸-平(現いわき)が開通しました。日本鉄道は資金を豊富に保有していた江戸時代の旧藩主が中心となって設立した会社でしたが、建設技術者や経理担当者などは不在だったため、実務の大半は政府が担い、建設ルートの決定、線路敷設、駅設置などを行いました。
鉄道敷設の大きな目的は富国強兵の日本をめざすことであり、それを支えるため、熱エネルギーとなる石炭の調達は大きな課題でした。そのため、政府にとって石炭が採取できる磐城線は重要路線の一つでした。つまり、湯本や内郷で採取できる石炭を、いかに円滑に東京方面へ運ぶかが鍵となりました。
加えて、当時の鉄道敷設における一般的な基本方針は、数キロメートル間隔で駅を設置し、線路敷設の土木工事はできるだけ容易にするというものでした。また、市街の真ん中に駅を設ければ、買収や家屋移転に手間がかかるため、市街地内の通過を避けました。
これを湯本駅にあてはめれば、泉と綴(現内郷)の間で駅を設置する場所が限られてくることがわかります。また、石炭を輸送するため多くの貨車を留置しなければならないため、駅構内に幾本もの側線を設ける空間も必要となります。
これらのことを念頭に置けば、湯本市街の南側が駅設置の場所として“適地”と判断されることになります。
こうして、湯本駅は磐城線開通と同時に開設されました。また、開通と併せて平(現いわき)と湯本の間の複線化が行われ、磐城線が開通した年の8月に完成しています。東北本線でさえ、単線開通だった状況のなか、いわき地方から産出する石炭輸送が重要視されていたことがわかります。
駅の玄関口は、陸前浜街道から国道15号線(現国道6号の前身)が通じていた西側に設けられました。
【市街化した湯本駅前〔平成27年(2015年)4月 いわき市撮影〕】
湯本駅は湯本市街南側に開設されましたが、開設当時には、駅前集落はできたものの、空地の広がる一帯でした。小野田(現・常磐上湯長谷町小野田湯本三中の西方)から小名浜までは磐城炭鉱が敷設した馬車軌道が設置され、その線路が最初の写真で見ることができます。
この軌道区間のうち、小野田-湯本駅前は炭鉱専用の軌道でしたが、湯本駅前-小名浜は一般旅客も取り扱っており、商売の往来や海水浴客などがこの軌道を利用。軌道会社は馬車からガソリンカーにスタイルを変えながら昭和19年(1944年)まで走っていました。
また、最初の写真には、国道15号線(現国道6号の前身)も見えます。国道は江戸時代の浜街道を活用したものです。後に駅の東側を通ることになる現在の国道が新設されるのは、この写真からすると、遠い未来のことです。遠くには、鉄道を横切って小名浜に通じる道路も見えます。
駅前周辺が大きく変わったのは、品川白煉瓦株式会社湯本工場が明治39年(1906年)に駅前に進出してからでした。駅前には商店街が、駅南方には従業員住宅が、それぞれできあがり、市街化していきました。
温泉の町、鉱工業の町としてのにぎわいが増し、乗降客の増加に結びついていくようになると、駅前が次第に窮屈になっていきました。このため、昭和32年(1957年)から駅前広場の拡張と駅前道路の拡張を含む、土地区画整理事業が行われました。
次いで、品川白煉瓦湯本工場の移転が課題となっていきました。かつては周辺に何もなかった駅前に進出した工場でしたが、次第に商店や住宅地に囲まれるようになり、その存在の是非が問われるようになっていきます。このような状況下、産炭地域振興策の一つである工業団地整備が、郊外の西郷地区で行われたことから、昭和44年(1969年)に工場は団地へ移転。跡地には一番町商店街を中心とした区画ができあがりました。
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