コンテンツにジャンプ

『尼子橋』(平成27年9月16日市公式Facebook投稿)

登録日:2015年9月16日

いわきの『今むがし』 Vol.31

新川と尼子橋 当時、橋は延長140メートル、幅員5メートルほどであった。「大正時代 佐々木商店」

大正時代の尼子橋

 内郷から平へ入る時、新川を渡りますが、ここには徳尼御前が平安時代に橋を創設したという伝説が、「尼子橋」の由来とまつわって伝えられています。
 時は平安時代末期の12世紀中ごろ、重なる大雨と洪水で往来ができないと地元の人たちからの願いを聴き、橋建設に資金を出したのが「徳姫」でした。夫の死後、尼になり「徳尼御前」と呼ばれたことから「尼御橋」や「尼子橋」が付いたともいわれています。
 伝説では、徳姫の橋建設の願いに応じて、白髪の老人が橋の築造に際して資材を調達し、村人とともに短期間で完成させましたが、橋の完成後、姿を見せなくなったのを不思議に思った徳尼は、「お稲荷様が老人に化身して、橋を造った」と合点し、橋の守り神として平字薬王寺(松ケ岡公園下)に末崎稲荷神社を建てた、と伝えられています。
 

老朽化した尼子橋「昭和28年(1953年)9月 松本正平氏撮影・松本正夫氏提供」

昭和28年9月の尼子橋

 洪水・氾濫しても被害を少なくするために川幅を広く確保してあり、ふだんは細い川とヤナギの木、稲田の織り成す光景を一跨(ひとまた)ぎする、延長約250メートルの木橋は名所の趣きを醸(かも)し出していました。橋が長かったのは、河原や湿田(現在の平側)をまたいで架橋されたからでした。
 江戸時代、一般的に大きな河川である夏井川や鮫川には架橋されませんでしたが、小さな新川には架橋されていた時期があるようです。
 昭和31年(1956年)に新川緑地公園の入口に建てられた「みちのくの尼子の橋や いね(稲)のうへ」(詠み人知らず)碑は、橋から見える情景をうまく表現しています。
 

現在の尼子橋 堤防が築かれ、橋は川幅の長さとなりました。「平成27年(2015年)9月 いわき市撮影」

現在の尼子橋

 また、江戸時代の宝暦11年(1761年)、吉田定顕(ていけん)によって記述された『磐城枕友(まくらのとも)』には「夏の日には夕暮れの納涼に人多く集まり小水下流れて橋下多くは田なり、霖雨(りんう)(長雨)には四方の山方よりおちくるしずくにて、たちまち湖のごとく、ほたる多し、雪の朝こそさすがにすてがたき所なり」と四季折々の風情を紹介しています。
 これら長い歴史と文化を持つ名所に鑑み、新川と尼子橋の組み合わせは、さまざまな角度から絵はがきに収められています。 木橋の尼子橋は明治時代に続いて、大正9年度(1920年度)に改築されました。
 改築当時、通ったのは、人や馬車、荷馬車、人力車で、橋には大きな負担がかかりませんでしたが、大正時代末期になると、自動車が登場して、橋の破損が何度も生じ、そのたびに鉄筋混凝土で橋面を補強するなどにより、しのいできました。
 

「磐城」内郷小島から見た尼子橋、平市街(明治39年1月、郵便絵はがき、平活版所発行)

明治39年の尼子橋 その状況を昭和7年(1932年)8月6日付の『常磐毎日新聞』は大正9年当時と比較して、「十五分間毎(ごと)に発する平、湯本間の乗合自動車と、さらに1日数十回の貸切及び炭礦方面への多量の貨物満載せるトラック疾走し居るを以(もっ)て、当時の状態とは交通の頻繁なる程度、直に隔世の感あるを以て其(そ)の橋梁の危険なる到底看過(かんか)し難き実状」と表現しており、何度か平、内郷、湯本の各町長が土木監督署などに陳情しています。当時、自動車の交通量は1日約700台でした。
 昭和11年(1936年)に平神橋が夏井川に新設架橋されたのと対象的に、同じ国道でも尼子橋の整備は戦後を待たなければなりませんでした。
 

「平名所絵葉書」尼子橋ヨリ尼子亭ヲ望む(大正14年、郵便絵はがき 八巻写真部発行)

大正14年頃の尼子橋 昭和20年代、ふたたび本格的な国道の整備に取り掛かりましたが、新川への架橋は既設より上流250メートルに位置する場所でした。新しい架橋は昭和24年(1949年)に着工、昭和26年(1951年)年3月に新しい国道6号とコンクリート製の「尼子橋」(延長48メートル、幅員11メートル)が完成すると、旧尼子橋の取り扱いが問題となりました。
 解体か再建かで揺れ動きましたが、由緒ある橋であることから、川面に架かる部分だけに短縮して、一部再建し、他の部分は埋め立てすることとしました。
 短縮された尼子橋の延長は42メートルの木橋で、昭和29年(1954年)3月に完成しました。
 

水害後の尼子橋(昭和46年8月、いわき市撮影)

昭和46年の尼子橋 以来、市道に架かる「尼子橋」は、両岸の地区民が利用するだけの生活橋となりました。 新川に架かる木橋の「尼子橋」はたびたび大雨・洪水で流失し、そのたびに補修されました。県は昭和41年度(1966年度)から中小河川改修事業により河川改修や橋の架け替えなどを実施し、対応してきました。
 しかし、昭和52年(1977年)9月の台風11号では堤防越水が発生、沿岸の広い範囲にわたって大きな災害を受けました。
 このため、翌年度に新川が国の河川激甚災害特別緊急事業に採択されると、新川全体(内郷・鶴巻橋から下流、夏井川合流付近の古川橋まで)を考えた治水工事が検討され、川幅の拡張、河床の掘り下げ、護岸堤防の強化、橋梁新設などを盛り込んだ5か年計画が策定されました。
 

工事中の尼子橋(昭和57年11月、いわき市撮影)

昭和57年の尼子橋  その一環として尼子橋の永久橋への改築も計画され、当初は人道橋の予定でしたが、地元民の強い要望により、延長57メートル、幅員4.5メートルの車道橋へ変更されました。また、平側では堤防と市道の高低差が大きいため、取り付け道路が真っ直ぐつながることができないことから、橋端からほぼ直角に折れ、斜めに市道に下るという変則な形態とならざるを得ませんでした。このため、さまざまな交通規制をかけて交通安全を図ることとなりました。
 さまざまな困難を乗り越えて、改築された尼子橋。架橋は昭和58年(1983年)2月に完成したのですが、交通上の安全を考えた通行規制などの問題を解決して渡り初めを迎えたのは、昭和61年(1986年)7月のことでした。
 

尼子橋(昭和61年12月、いわき市撮影)

昭和61年の尼子橋 この尼子橋の特徴は、何といっても国宝・白水阿弥陀堂の浄土式庭園に架けられた朱塗りの橋と同じ形状であることです。鋳物でできた赤い欄干(らんかん)に加えて、柱には金色の擬宝珠(ぎぼし)も飾られ、古式ゆかしいたたずまいを見せています。
 “文化は、新しい文化を創る”とまでは言えないかもしれませんが、さまざまな人々の思いは、形として創られることによって、後世の人々に伝えられていく一つの例ではないでしょうか。

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?