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その14 『市章・市歌はこうして決まりました(3)』(平成27年11月25日市公式Facebook投稿)

登録日:2015年11月25日

「市章・市歌は、こうして決まりました(3)」編

市歌のソノシートと譜面

 「市章・市歌は、こうして決まりました(3)」

 いわき市制1周年を記念して制定された、市章と市歌の誕生について振り返るシリーズの3回目です。今回は、市歌が決定するまでの経過についてです。

 市歌は、まず歌詞を公募して選定し、決定した歌詞を公開して作曲を公募、選定するという手順で進められました。

 昭和42年3月1日から始まった歌詞の募集は、3か月後の昭和42年5月31日に締め切られ、それまでに全国から360点の作品が寄せられました。内訳は、県内からが232点(そのうち市内は210点)、県外からは128点でした。

市歌作曲募集要領

 左の写真は、当時の市歌作曲募集要領です。

 昭和42年6月6日、市は、市章・市歌制定委員会の第2回会議を開催します。制定委員会は、音楽・美術分野の市内専門家7名、市議会議員4名、市職員3名の14名で構成され、昭和42年2月6日の第1回会議で、委員長に当時の市文化団体連絡協議会長の渡辺久氏、副委員長に福島高専音楽講師の若松紀志子氏が選任されていました。

 第2回会議では、作詞の審査方法と、若松副委員長を含む作詞審査員4名の選出について話し合われました。

 会議の翌週の6月13日、審査委員4名全員が出席して作詞審査会が開かれます。審査会では、全応募作品360点を、第1次審査で111点に、第2次審査で60点に、第3次審査で32点に絞り込みました。

 審査会の3日後の6月16日には、制定委員会第3回会議を開催します。前回会議からたった10日後というハードスケジュール!以降に控える作曲募集のために、作詞選定は急ピッチで進められました。

 第3回会議では、作詞審査会の3次審査結果である32点中、評価点の高かった20点を補作者に提示することが決まりました。補作者には、そこからさらに5点を選出してもらい、そのうち1点を補作してもらうことになりました。当初より決定していた補作者は、市内出身の詩人 草野心平(くさのしんぺい)氏でした。

 程なく、市の担当職員が東京都東村山市の草野氏の自宅に候補作品を持参し、1日をかけて選定と補作作業が行われました。今回、当時の担当職員の話を聞くことができましたが「初めて見る詩人の生活は、お弟子さんたちが身の回りの世話をしていたり、とても興味深かった」とのこと。補作箇所はそれほど多くなく、スムーズな作業だったそうです。

 こうして完成したのが、現在のいわき市歌の歌詞です。作詞したのは、東京都練馬区の乗田(のりた)まさみさんでした。乗田さんは、当時、人形を使った広告や絵本を制作していた制作会社シバプロダクションに勤務するプロの作詞家でした。

 昭和42年6月30日、市は、制定委員会第4回会議を開きます。会議では、乗田さんの作品を含む5点の入選順位が決定し、いよいよ作曲募集の準備が始まりました。作曲の募集方法、審査方法、審査員2名、作曲補作者の案などがまとめて話し合われ、翌日の7月1日から早速募集開始となりました。

 このころの制定委員会では、作曲募集と同時に市章の選定が進んでいました。市章の入選作品が決定した昭和42年8月21日の第6回会議では、作曲の審査方法についても、くわしく話し合われています。また、作曲補作者について、作詞補作者の草野氏が推薦する6名の作曲家の中から、交響曲「野人」や、テレビアニメ「おそ松くん」第1作(昭和41年)の主題歌「おそ松くんのうた」の作曲者として知られる渡辺浦人(わたなべうらと)氏に決定しました。

広報いわき(昭和42年号外)

 右の写真は昭和42年広報いわきの号外です。

 昭和42年8月31日、作曲募集が締め切りを迎え、全国から427点の作品が寄せられました。早速、9月4日に第1回目の作曲審査会が開かれ、第1次審査(譜面審査)で130点に絞られます。さらに10日後、9月14日の第2回審査会では、第2次審査を行って56点に、第3次審査で19点に、さらに話し合いを重ねて10点が選ばれました。審査会場は、市立平第一小学校の音楽室でしたので、ピアノなどで演奏をしながらの審査だったようです。最終候補の10点の演奏は、その場でテープ収録されました。

 作曲審査会の結果を受けて、市は、昭和42年9月18日に第7回会議を開催し、10点の候補作品について委員の審議、投票が行われました。それにより選ばれた3点に、作曲審査員が推薦する2点を加えた5点を補作者の渡辺氏に持参することが決定し、その中から渡辺氏が1点を選んで補作を行うことになりました。

 最後の制定委員会の招集となる第8回会議は、昭和42年10月12日に11名の委員が参加して市長室で開きました。作曲入選作品5点が決定し、入選1席には、市内小名浜出身の小林研一郎(こばやしけんいちろう)さんの作品が選ばれました。小林さんは、「炎のマエストロ(巨匠)」と称される世界的指揮者として、その活躍をご存知の方も多いと思いますが、市歌作曲当時は、東京芸術大学作曲科を卒業後、同大学指揮科に再入学して2年生に在学中の学生さんでした。

 こうして完成した市歌は、レコードへの録音が行われました。歌唱は、市歌作曲補作者の渡辺氏の計らいで、「東京ラプソディ」(昭和11年)や「青い山脈」(昭和24年)のヒットで国民的歌手として、また、「ラジオ体操の歌」(昭和31年)などの作曲者としてとても有名だった藤山一郎(ふじやまいちろう)氏に依頼しました。録音後は、ソノシート(雑誌の付録などにも用いられたシート状のレコード盤)も制作され、発表の際の市民プレゼント用として用意されました。

 市歌が決定するまでの経過、いかがだったでしょうか?次回は、今シリーズ最終回。市章と市歌が、「市制施行1周年・市章市歌制定記念式典」で発表された様子を紹介します。どうぞお楽しみに!

 あらためて、市章と市歌の良さを味わいたい方は、下の関連リンクからご覧ください。

(市歌は、伴奏のみのバージョンもあります。パソコンの前でどうぞ熱唱されてください!)

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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