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『いわき市【最終回】』(令和6年3月21日市公式SNS投稿) 

登録日:2024年3月21日

いわきの『今むがし』Vol.181

■1・平写真1-1 平市街中心部を南側から見る 国道6号(現国道399号)は大町までしか通じていない。駅前通りとの交差点にはロータリーが見える。 〔昭和20年代末 『平市勢要覧』〕

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 長い間、掲載してきました「いわき今むがし」は、今回をもって最終回となりました。以前100回記念の際に、いわきの今と昔を写真と文章で綴ることに意義について、縷々(るる)解説してきましたが、今回はいわき市の主要地域を空撮写真で比較しながら、その趣旨を敷衍(ふえん)しつつも、語彙(ごい)を変えながら綴っていきたいと思います。
 この作業を継続しているなかで、100回記念に際に紹介したように、フィルムカメラからデジタルカメラへの流れによって写真を撮る際の姿勢が大きく変わってきています。これに伴い写真データはおびただしく増え、写真画像の軽重を見極める労力も飛躍的に増え、どんなものを将来に遺すべきか、今後が危惧される状況になりつつあります。

 もっとも、その危惧は写真画像にとどまらず「情報」という括りでみていくと、これまでの文書からデジタル化に移行する流れが強くなるなかで、重要な課題として捉え直す必要性が浮かんできます。
 わかりやすいたとえで言えば、毎年冊子として残される統計情報について、ペーパーレスの一環として紙ベースに代えホームページ上に10年間を基本としてアップされるようになった場合、新たに1年間分が加えられるとき、10年前の情報は11年前となってしまいます。担当者は10年間を保存すればよいとして、11年前の統計情報はデジタル情報からこぼれるように消されてしまうという懸念はないでしょうか。背景にはデジタル社会のなかのおびただしい情報が駆け巡っている状況を浮かべることができます。このなかでは、過去の情報がどれほど意味を持つのか、見いだす必要性のない風潮が濃くなりがちです。というようよりいくら検索機能が発達しても、おびただしい“情報の森”に迷い込んでしまい、容易に原点にたどりつけない光景が浮かんできます。
 さて、航空写真。このシリーズ中においても、時折り新旧の空撮写真で地域の移り変わりを紹介してきましたが、イベントや行事などにおいては同じような構図が膨大に撮影されるのに比べ、空撮の場合、撮影できる機会は少なく、限られた範囲の紹介でした。
 それでも、こうして空撮写真だけを並べてみると、いわきの移り変わりを広範囲で読み取ることができます。難しいのは比較写真として同じ位置や高度から撮影することが極めて難しいということです。ですから、似たような空の位置から、という前提条件付きとなります。(ドローンの登場は、これらの課題解決に役立つことになるでしょう)
 ここで取り上げた地域に共通するのは、功罪は別として「地域開発」というキーワードで括れることでしょう。田畑や空地は宅地化され、海岸は埋め立てられ、その間を道路がつないでいきます。そのことが、「地域発展」に重なり合うということなのでしょう。

その過程からは日々の暮らしを営む住民の姿は見えにくいのですが、住民の意思の重なりが生み出してきた風景であり、景観である、と読み取ることは可能といえます。
 最初は平市街中心部を南側から見た空撮です。戦争が終わってまもない昭和20年代、当時は空撮する機会は極めて少なく、平や小名浜の一部にしか見つかっていません。空撮で、平駅前から南に延びる通りは、空襲で焼け出された区域を、当時としては破格の道幅30mへ改変した姿です。この道路は小名浜と結ぶ道路としては想定されていず、この写真枠外のところでストップしています。国道6号との交差部分はロータリーになっているのが見えますが、その先の道路は大町付近から先は建設中です。写真手前のあたりでは戦災復興土地区画整理事業に基づく道路が配置されていますが、宅地化はまだ途上にあります。現在に至る平市街は、このときの道路骨格上で“脱皮”を繰り返してきたことがわかります。
 小名浜港湾は比較的さまざまな角度から空撮が行われています。ここでは海側と陸側の写真を選んでみました。そのほか完成予想図も加えてみました。東港の将来図と現況、1・2号埠頭再開発構想と完成時の違い、後の小名浜ブリッジの架橋の位置など、背景には文章では容易に説明しきれないほどの社会情勢の変化、景気動向、地元要望などが関わっていることが類推できます。
 勿来地区では錦町の呉羽化学工業錦工場(現クレハいわき工場)周辺を写した写真を選んでみました。工場が拡張され、鉄道を挟んでその南側では宅地化が進んでいることがわかります。
 常磐地区では、常磐炭礦鹿島礦と閉山後に再開発された常磐鹿島工業団地を比較してみました。これが同じ場所か、と思うほど様変わりしています。いわきの変化を象徴する比較写真でしょう。
 内郷地区ではいわき貨物駅(内郷操車場。ある本には石炭輸送との関連性を説く内容があるのですが、まったく異なり、新産業都市指定との関連性が濃いものです)と廃止後の再開発されている「いわき市総合保健福祉センター」などの比較です。一時代を築いてきた鉄道貨物の終わりを告げるとともに、社会の要請で結実した保健と医療(近くにいわき医療センターや福島労災病院が立地)、福祉の機能が融合したあらわれとみえます。
 今回、写真のほかに小名浜港の将来図を取り上げてみましたが、そういえば将来図があまりみかけなくなったのは、いつの頃からでしょうか。もちろん、事業を行う場合の数年後における完成予想図を見ることはあるのですが、長期的な地域の姿を描けるでしょうか。

将来構想図は昭和30年代から始まる高度経済成長期や昭和時代末期から平成時代初期のバブル景気時を中心に、小名浜港をはじめとして、さまざまに見ることができました。
 しかし、バブル崩壊以降の「失われた20年」を経て、今将来図を描く雰囲気がなくなっていることに気づきます。人口減少が続くなか、“縮小社会”“経済縮小”が実感を伴ってひたひたとやってきているからでしょうか。
 今回取り上げた場所は変化の著しい、いわば日本経済の活況期にいわきという舞台で繰り広げられた地域開発の新旧比較という観点で並べたといっても過言ではないのですが、日本の将来を占うように、何十年かを経てふたたび比べたときに、開発という言葉と似合わない風景が広がっているかもしれません。
 あるいは、「いわき人」の知恵と努力によって新たな地平を切り拓かれ、開発とは別な次元による風景が広がっているかもしれません。

■1・平写真1-4 平市街中心部を南側から見る 丘陵地に囲まれ市街の拡大は限定的な代わりに、高層ビルが目立つようになった。〔平成26(2014)年12月 いわき市撮影〕

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 歴史は記録と記憶から成る、といわれています。もちろん、両者は別個に存在するのではなく、常に“対話”されており、それぞれ記録であると同時に記憶の部分も担っています。
 ところが、これら記録と記憶を整理・保存するということになると、どうでしょうか。歴史を踏まえた観点に立つと、これまで以上に収集・保存・整理機能へのアプローチが問われることになります。
 写真も同様な側面を持っています。記憶は写真を撮るという行為によっては、記録に転換されますが、近年デジタルカメラや写真機能のスマホで撮られ、その量は膨大に増えています。
 写真の場合、歴史的な観点で探るには、「いつ・どこで・誰が・何を撮ったのか」ということを併せて記録(デジタルカメラでは撮影日がデータ認識でき、また近い将来には位置情報も可能となり得る)することです。
 家族写真の整理を想定したソフトはあるのですが、将来これを歴史的という観点で管理・保管にまで包含できる機能を得ることは可能になることになるのでしょうか。デジタルの利便性が際立つだけに、歴史的に位置づける面倒さはアナログ的な取り組みにならざるを得ないからです。
 ともあれ、都市、海、山など多様な歴史と風土を持ついわきでは、まだまだ掘り起こせる地域はあるのですが、このシリーズでは、新旧の写真を同じ場所で比較できるかどうか、という視座にこだわって紹介してきました。つまり、過去と現在の自由な比較という考え方を排除して、「定点撮影」という枠をはめることによって新旧の写真比較から立ち上がる時代や社会のにおいみたいな感情を濾(こ)し取ることを期待したのです。
 これが功を奏したかどうかは、読み手に委ねるしかありません。いずれにしても、たくさんの写真を紹介できたのは、広報広聴課で撮影してきた写真だけでなく、いわき民報社、いわきジャーナル、アマチュアカメラマンの皆さんが撮影した写真、さらには家庭に保存してあったアルバムの中の時代性のある写真など、さまざまな方々からの提供があったからにほかなりません。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。
 もちろん、その数約3万点に及ぶ写真データはここに発表するだけでなく、「未来への贈り物」として保存するとともに、さらに発掘に努めたいところです。さらには、これらを公的に収集・保管・整理などのできる機能整備についても、尽力したいと思います。

 長い間、ありがとうございました。

(いわき地域學学會 小宅幸一)

その他の写真

■2・平写真1-2 平市街中心部を南側から見る 競輪場周辺の内郷小島町や平谷川瀬には、まだ空地があって駐車場が確保できた。〔昭和50年代半ば いわき市撮影〕

■2・平写真1-2 平市街中心部を南側から見る 競輪場周辺の内郷小島町や平谷川瀬には、まだ空地があって駐車場が確保できた。〔昭和50年代半ば いわき市撮影〕

■3・平写真1-3 平市街中心部を南側から見る〔平成8(1996)年10月 いわき市撮影〕

■3・平写真1-3 平市街中心部を南側から見る〔平成8(1996)年10月 いわき市撮影〕

■4・小名浜写真2-1  小名浜港の1号埠頭に接して、西側に建設した石炭埠頭を南側から見る 〔昭和36(1961)年 日本製紙(株)提供〕

■4・小名浜写真2-1  小名浜港の1号埠頭に接して、西側に建設した石炭埠頭を南側から見る 〔昭和36(1961)年 日本製紙(株)提供〕

■5・小名浜写真2-2  小名浜港の1号~3号埠頭を南側から見る 後のアクアマリンパークには倉庫群が見える。 〔昭和55(1960)年 いわき市撮影〕

5・小名浜写真2-2

■6・小名浜写真2-3  東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に起因する大津波に襲われる小名浜港湾を南側から見る 大津波が押し寄せ、埠頭では「いわきら・ら・ミュウ」と「アクアマリンふくしま」の屋根部分が見えるだけ。 〔平成23(2011)年3月11日午後3時50分 福島県消防防災航空隊撮影〕

■6・小名浜写真2-3  東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に起因する大津波に襲われる小名浜港湾を南側から見る 大津波が押し寄せ、埠頭では「いわきら・ら・ミュウ」と「アクアマリンふくしま」の屋根部分が見えるだけ。 〔平成23(2011)年3月11日午後3時50分 福島県消防防災航空隊撮影

■7・小名浜写真3-1  小名浜港湾を北側から見る 現在のイオンモール小名浜には福島臨海鉄道小名浜駅が配置されていた。 〔昭和55(1960)年 いわき市撮影〕

■7・小名浜写真3-1  小名浜港湾を北側から見る 現在のイオンモール小名浜には福島臨海鉄道小名浜駅が配置されていた。 〔昭和55(1960)年 いわき市撮影〕

■8・小名浜図3-2  小名浜港の将来像 人工港は1号埠頭から渡されることになっていた。 〔昭和58(1963)年 いわき市撮影〕

■8・小名浜図3-2  小名浜港の将来像 人工港は1号埠頭から渡されることになっていた。 〔昭和58(1963)年 いわき市撮影〕

■9・小名浜図3-3  小名浜港1、2号埠頭再開発構想図 〔昭和58(1963)年 いわき市撮影〕

■9・小名浜図3-3  小名浜港1、2号埠頭再開発構想図 〔昭和58(1963)年 いわき市撮影

■10・勿来写真4-1  錦町の呉羽化学工業錦工場および周辺を南側から見る 写真中央に通じる常磐線を境に北側は工場地帯、南側は社員住宅や厚生施設が配置され、その外周に一般住宅が集まっていた。 〔昭和30年代 長谷川達雄氏提供〕

■10・勿来写真4-1  錦町の呉羽化学工業錦工場および周辺を南側から見る 写真中央に通じる常磐線を境に北側は工場地帯、南側は社員住宅や厚生施設が配置され、その外周に一般住宅が集まっていた。 〔昭和30年代 長谷川達雄氏提供

■11・常磐写真5-1  常磐炭礦鹿島礦を西側から見る 昭和13(1938)年に開削し、昭和46(1971)年まで稼働していた。 〔昭和43(1968)年3月 いわき市撮影〕

■11・常磐写真5-1  常磐炭礦鹿島礦を西側から見る 昭和13(1938)年に開削し、昭和46(1971)年まで稼働していた。 〔昭和43(1968)年3月 いわき市撮影

■12・内郷写真6-1  いわき貨物駅(内郷操車場)を北西側から見る 平(現いわき)駅において貨客取り扱いが飽和状態になったため、内郷と平駅の中間に貨物駅を開設した。 〔昭和43(1968)年3月 いわき市撮影〕

■12・内郷写真6-1  いわき貨物駅(内郷操車場)を北西側から見る 平(現いわき)駅において貨客取り扱いが飽和状態になったため、内郷と平駅の中間に貨物駅を開設した。 〔昭和43(1968)年3月 いわき市撮影

■2・小名浜写真2-4 小名浜湾岸域を南側から見る 1号埠頭には「いわき・ら・ら・ミュウ」、2号埠頭には「アクアマリンふくしま」、福島臨海鉄道小名浜駅跡には「イオンモール小名浜」が整備された。〔平成31(2019)年3月 いわき市撮影〕

■2・小名浜写真2-4 小名浜湾岸域を南側から見る 1号埠頭には「いわき・ら・ら・ミュウ」、2号埠頭には「アクアマリンふくしま」、福島臨海鉄道小名浜駅跡には「イオンモール小名浜」が整備された。〔平成31(2019)年3月 いわき市撮影〕

■3・小名浜写真3-4 小名浜湾岸域を北側から見る 小名浜港東港は令和4(2022)年に全面供用開始となり、3号埠頭からは「小名浜ブリッジ」が渡されている。 〔平成31(2019)年3月 いわき市撮影〕

■3・小名浜写真3-4 小名浜湾岸域を北側から見る 小名浜港東港は令和4(2022)年に全面供用開始となり、3号埠頭からは「小名浜ブリッジ」が渡されている。 〔平成31(2019)年3月 いわき市撮影〕

■4・勿来写真4-2  錦町のクレハいわき工場および周辺を南側から見る 写真下部には、昭和47(1972)年に開通した国道6号常磐バイパス(現国道6号)が見える。 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

■4・勿来写真4-2  錦町のクレハいわき工場および周辺を南側から見る 写真下部には、昭和47(1972)年に開通した国道6号常磐バイパス(現国道6号)が見える。 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

■5・常磐写真5-2  常磐鹿島工業団地を西側から見る 産炭地域の振興策として工業団地が整備された。 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

■5・常磐写真5-2  常磐鹿島工業団地を西側から見る 産炭地域の振興策として工業団地が整備された。 〔平成27(2015)年12月 いわき市撮影〕

■6・内郷写真6-2  貨物駅跡地を再開発して建てられた雇用促進住宅(現災害公営住宅)や市総合保健福祉センターなどを西側から見る  〔平成26(2014)年3月 いわき市撮影〕

■6・内郷写真6-2  貨物駅跡地を再開発して建てられた雇用促進住宅(現災害公営住宅)や市総合保健福祉センターなどを西側から見る  〔平成26(2014)年3月 いわき市撮影〕

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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