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『平字三町目』(上)(令和5年11月22日市公式SNS投稿)  

登録日:2023年11月22日

いわきの『今むがし』Vol.179-1

■地図1 一町目~五町目 〔元和8(1622)年 「岩城平城内外一覧図」の一部〕

■図 平市街の地籍図から見る土地利用図(明治18年) 〔『福島の歴史地理研究』から引用〕

【江戸時代の三町目】

 二町目と三町目の間にも町木戸が備えられていました。三町目角には北へ向けて城郭入口門の一つである不開門がありました。この門は緊急時や火災以外には閉ざされた「不明(あかずの)門」とも言われました。この門の役割は大名に下賜(かし・身分の高い人が低い人に与えること)する「勅宣」(ちょくせん・天皇などの命令を伝える公文書)を持参した勅使下向役(ちょくしげこうやく・朝廷などの使者を接待するための役職)などの特別な登城(とじょう)以外は開門されませんでした。つまり、開門はめったになかったのです。

 元禄9(1690)年の三町目は家数44軒、男性174人、女性182人の計356人でした。

 馬11頭を運送用に持ち、毎月「市」が開催されていました。道幅は7間4尺と平城下では最も広く、にぎわいを象徴していました。

【七夕まつり】

 いわき七夕まつりの起源は巷間(こうかん)諸説唱えられていますが、各種新聞などの記事や回顧録などを見る限り、明らかです。仙台から移り住み、平字大町に開業した難波医院の家人が昭和5、6(1930、31)年、家の前に仙台の七夕飾り付けを行い、これが街の評判になったものです。

 本来七夕の年中行事とは素朴な祭りでしたが、これとは別に、江戸時代の仙台藩では伊達模様の派手な七夕飾りが観賞用として行われていました。しかし明治時代以降、新暦採用と行事の廃止措置で衰微する一方でした。この状態を憂(うれ)い、仙台商店街などの関係者が往年のにぎわいを取り戻そうと、昭和2(1927)年から3(1928)年にかけて復活させたのです。

 昭和11(1936)年8月9日付の『磐城新聞』には「山田支店長時代の七十七銀行と町内切っての尖端人(せんたんじん)・大谷時計組合長となかや洋服店との名トリオによって平町の七夕が本格的にはじめられて五年目…」と報じられています。つまり発祥時期を昭和7(1932)年としています。

 七十七銀行平支店は大正8(1919)年に平町字三町目に出店し、隣には大谷時計店が店を構えていました。このように事項をつないでみるとき、難波医院の取り組みを三町目の人々が表舞台、言い換えると「飾り」として仕立てたのが、昭和7年と考えられます。

 昭和9(1934)年は舗装工事という、新たな課題が生じており、事態は急を要しました。関係者は視察地の仙台から平町へ戻ると、さっそく8月16日(新暦7月7日)「新興七夕祭り」を立ち上げ、笹竹を共同購入して、三町目全体のイベントとして実施。電気照明もあでやかに装飾と光の絵巻を繰り広げたのです。

 昭和7、8年では、まだ「まつり」ではなく「飾り」の段階であり、「点」の連なりでしかありませんでした。昭和9年、これを「線」、「まつり」に押し上げたのは、国道6号、つまり本町通りの道路舗装に伴う伝統盆行事「松焚き」の消滅という事態から芽生えた危機感であったといえます。

 道路舗装という近代化の流れを契機に二つのイベントが交錯して、新しい機運が急速に広がりつつありました。

新聞などに取り上げられ好評を得ると、祭りは平町全体(昭和12年6月には平町と平窪村が合併して平市)の祭りとして一気に広がっていきます。伝統行事の松焚きに代わる新しい行事を、平町民が渇望していたことも、広がりを後押ししたことはいうまでもありません。

 戦争前に開催されたのは昭和12(1937)年までで、以後戦時下のイベント自粛(じしゅく)となって開催されませんでしたが、戦争を挟んで戦後は昭和23(1948)年から再開され、今日まで継続されています。

【駅前通り】

 鉄道が敷設されて以降、平市街の中心部に向かう駅前通りとしては銀座通りと中央通りが江戸時代の名残の道路として通じていましたが、利便性を高めるため駅前から真っ直ぐ南方に通じる道路開削が課題となっていました。

 しかし、本町通りの字三町目を横断するには、人家が立錐(りっすい)していて除去するのは至難の業でした。また、その土地の価値に見合うだけの代替地を充てるのも難しい状況でした。

 ところが、昭和16(1941)年12月から世界を相手に本格参戦していた日本の戦局は次第に悪化。昭和20(1945)年7月28日の夜、午後11時前後に新川(現新川緑地)から北へ、アメリカ軍によって約200~300発(諸説あり)の焼夷弾が落とされたのです。平市街にとって3度目の空襲で、平駅前から南方に幅10~20mにわたり細長く、大町、三町目、田町などが焼け出されました。

■図 駅前を南北に焼け出された区域

時代は皮肉なもので、この空襲が復興計画を一挙に進めることになったのです。

 平市街地の戦災復興は、「戦災地復興計画基本方針」に沿って、「平戦災復興土地区画整理事業」の手法による市街地の整備をめざして行われました。

 計画のうち最大の目玉は、既設平駅から鉄道移転で新たな平駅となる小太郎町(「小太郎町」の項目を参照。後の小太郎公園は新駅前広場として設定)まで、延長680m、幅員36mの幹線道路でした。この幅広道路は、復興院の方針を踏まえたもので、空爆で焼かれた田町、三町目、南町を経て、新川(現新川緑地)先に至る計画でした。

 この平戦災復興都市計画事業は昭和21(1946)年4月、福島県が主体となって昭和21年度から5か年事業(後に延長)として認可。戦災復興院告示で決定されて、同年5月に公表、同年9月に起工式が行われました。

 計画のなかの駅前通り36mの幅員が、土地区画整理事業に対する疑念の象徴として取り上げられ、反対運動が表立っていくなか、昭和22(1947)年6月開会の市議会において最終的に30m案を採択し、平市長から県知事に陳情する案件を可決しました。

 その後も反対運動は継続されましたが、昭和24(1949)年12月、平戦災復興事務所は30m幅員のなかにあった家屋について、一部立ち退き・取り壊しの強制執行を発動して事業を進めました。

 「平戦災復興土地区画整理事業」は昭和30(1955)年3月に終了し、未整備分は後の事業に引き継がれました。
 この道路確保によって、字三町目は駅前通りで東西に分けられることになりました。以来、本町通りにおけるまちづくりの方向について、東側、西側のそれぞれが別個に考えられるようになっていったのです。

■地図5  平字三町目付近 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

■地図4  平字一町目~五町目 〔1.8,000地形図 昭和7(1932)年頃〕

【近代化を図る商店街】

 昭和29(1954)年12月から始まる高度経済成長は昭和48(1973)年秋まで約20年近く、年経済成長率10に%平均で継続し、この間、日本人の生活環境はもちろん、考え方まで大きく変えることになりました。

 平市街では、戦災復旧から復興へ向かう昭和26(1951)年6月、三町目角に「三幸」が建ち、本町通りの三町目と新たに直交する交差点は、繁華街の要所となりました。

 昭和30年に入ると、平市街の各商店は改増築を図るとともに、木造から鉄筋コンクリート造りへの転換を進めていきます。本町通りにおいても軒並み店舗改装が行われます。この背景を、昭和32(1957)年12月8日付『福島民報』は「このように商店の近代化が図られているのは、最近炭鉱が好況を呈し、また今年は漁業も景気が良く、この影響が商店街にも及んでいることもあるが、最近は商店の売らんかなの競争が激しいため、店をきれいにして客を引く必要があること、それに今まで同市の一流商店は小売よりも卸しに重点を置いていたが、やはり店舗自体が立派でなければ店自体の財政を推測して卸しにも影響があるようになったことから、津波のように商店街の近代化が進められているものとみられている」と分析しています。

【高層化を図る商業施設】

 この頃から、“平市にデパートを建設しよう”という計画が、関係者の間で進められました。しかし、青写真ができないうちに、昭和34(1959)年には中央資本の導入をめぐって平市議会の市勢振興委員会と市商店連合会が激しく対立する状況でした。

 この時期、三町目の大黒屋(明治34年に衣料品を扱う店として出発)が4階建てのビル建設を発表しており、関係者は新しい波が来ていることを認識せずにはいられませんでした。

こうしたなか、昭和34年9月、銀座通りの「藤越」は地下1階、地上5階、鉄筋コンクリートによるデパート形式のビル工事に着工した。また、一町目の坂本紙店が4階建てのビルを建てました。

 昭和35(1960)年5月には藤越、同年12月には大黒屋がそれぞれオープン。三町目の鈴藤も同12月にオープン(建築中の地下1階、8階建てのうち、1、2階部分。翌年3月に全面オープン)にこぎつけました。

 この年の歳末時を、昭和35年12月12日付『福島民報』は「三町目と銀座通りの四ツ角は時ならぬ人の波をさばくため平署から交通整理班が出動する混み合いようだった。また、同12月10日付『いわき民報』は「3デパート進出の谷間にある商店街も、これに対抗して10日、13日とそれぞれに新趣向を凝らしての年末年始大売出しに突入、『高原景気』『所得倍増』と黄金の年末の商都平はシノギを削る激しい商戦のチマタとなった」と、それぞれ報じました。

 高度経済成長が持続する昭和30年代後半になると、中央の大資本によるデパート進出が計画されるようになり、地元の大黒屋もこれに対抗するため、「百貨店法」に基づくデパート建設を模索。昭和45(1970)年に国道6号に面する元平公会堂跡に移転(移転跡には、昭和58年12月に「三町目館」がグランドオープン)しました。

 この時期、ビル建設ラッシュは本町通りにとどまらず、駅前、新しい国道6号など市街の拡大や交通網の充実とともに、本町通りの絶対視は次第に薄らいでいきます。大型ショッピングセンターの郊外化が始まっていくのです。

【自動車急増と駐車場対策】

 昭和40年代以降、急激に日常生活に浸透していったモータリゼーション到来で、道路は自動車に占領されていきます。道路が混雑するだけでなく、その保管場所にも苦慮するようになります。

 駐車場不足は市街だけでなく、全国的に及ぶ気配があったことから、政府は昭和32(1957)年5月に「駐車場法」を公布(同年12月施行)しました。

 もはや、自動車の急増によって引き起こされる弊害は多分野に及び、複雑化する交通事情のなかで総合的な対策が迫られ、政府は抜本的対策を盛り込んだ「道路交通法」を昭和35(1960)年6月に公布しましたが、事業所や商業施設が集まる市街地における駐車場問題まで解決できたわけではありませんでした。

 昭和35年、国道6号と国道49号の交差点に位置する内郷市御台境町に大丸ガレージが設置されました。昭和38(1963)年当時、同駐車場には長距離トラックを含めて1日平均40台に達し、これ以上入りきれず、断ることもあるほどでした。

 このように絶対的に駐車スペースは少なく、路上や空地への“青空駐車”(現不法駐車)が増え、事故につながるケースも増えていきました。

 特に、平市街地では、一部駐車禁止区域が設けられていたにもかかわらず、路上への青空駐車が公然化していたことから、影響は大きいものとなりました。貸ガレージは空地や大きな庭を有効活用したもので、不特定多数の顧客を対象としていたが、商店が密集し、ガレージを設けるスペースのない商店会などにおいては、その確保に苦慮しました。

 駐車禁止や一方通行、追い越し禁止などの制限区域は自動車の増加とともに広がり、昭和39年には、平市街において本町通りや駅前通り以外のほとんどの通りは駐車禁止区域に指定されました。これに対し、幹線道路に面している商店からは営業面で支障が出る、として反対の意見が根強く残りました。

 平本町通りにおいて全面的に駐車禁止となったのは、昭和40(1965)年6月でした。

 平商店街では、自動車で来る客への対応が急務となりました。

 買い物客のための専用駐車場を確保するため、昭和41(1966)年5月、まず三町目商店会は南町有料駐車場の400㎡(30台分)を借り切り、浜通りで初めて無料駐車場を開設し、車で買い物に来たお客に対して無料駐車サービス券を配布しました。

 しかし、“焼石の水”の状態でした。自動車の急増で平市街の繁華街は車のラッシュに襲われます。駐車場代わりに路上が使われ、歩道のない本町通りや裏通りは歩行者が自動車の間を縫って通り抜け、交通事故を誘発しました。

 いわき中央署は先進事例を研究して、昭和47(1972)年4月から平市街中心部の交通規制に入る。全面的に24時間駐車禁止にするとともに幹線道路などの以外を一方通行とする「メーン規制」を施行することに踏み切りました。

 この措置に対し、卸売業や青果市場などの車が荷物を積み下ろしするための一時駐車まで規制されると、商売上に支障が出ることから、平商店会連合会から最低限の規制緩和措置を要望が出されました。

【空き店舗の出現と駐車場不足の解消】

 皮肉なことに、駐車場問題は商業施設の郊外化、すなわち商店街の空洞化によって解消に向かっていきました。

 いわき商工会議所は平成13(2001)年9月、中心市街地の空き地・空き店舗(メイン通りの1階部分のみ)調査を実施しています。この結果をみると、一町目8.0%、二町目19.4%、三町目13.0%、四町目13.1%、五町目14.2%でした。

 空き地・空き店舗とは別に、この調査では、月極め貸し・時間貸し駐車場の調査も行っています。駐車場として利用されているのは、一町目6、二町目4、三町目2、四町目8、五町目7となっていました。

 これらの数字から浮かんでくるのは、本町通りは空き店舗が目立ち、しかも商売が成り立たなくなった店舗は駐車場に転用されていて、この傾向が進行していることがうかがえます。

【平市街における中心市街地としての活性化策】

 平成7(1995)年から同8(1996)年にかけて、鹿島町にダイエー(鹿島ショッピングセンター)、いわきニュータウンに長崎屋(ラパークいわき)、平市街東部に東北ニチイ(いわきサティ)など、大手資本をキーテナントとした郊外型の大型店進出が相次ぎ、この反動は大きなうねりとなって既成市街地に返ってきました。

 これに対し、中心市街地はどうあるべきかという問いかけを踏まえ、回帰や再生のためのプログラムが策定されるようになっていきます。

 空洞化が進行する中心市街地の再生を図るため、地域の創意工夫を活かしながら、都市基盤の施策や居住機能などの整備、商業の活性化を総合的・一体的に推進することを目的とする「中心市街地整備改善活性化法(現中心市街地活性化法)」(平成10年6月公布・施行)が成立したのも、このような背景があったからでした。これを効果的に推進させるため、関連の「大規模小売店舗立地法」、「改正・都市計画法」も整備され、いわゆる「まちづくり三法」を弾力的に運用することにより、中心市街地の活性化を図ることとされました。

 法のなかでは、中心市街地の整備改善と商業の活性化を一体的に推進するため、市民や商業者、行政などが一丸となってまちを管理運営していく「タウンマネジメント」を柱として、まちづくり機関(TMO)の設立による市民主体のまちづくりをめざそうとするもので、いわき市においては、平成11(1999)年4月、市中心市街地まちづくり基本計画策定委員会」は平市街の空洞化に歯止めをかけるため、商業・サービスだけでなく、住居や公的機関の機能なども容易に導入できるよう「いわき市中心市街地まちづくり基本計画」を策定しました。このうち本町通りには一~三町目ではポケットパークやイベント広場、ベンチの整備、三~五町目では職住一体型の整備、さらには本町通り全体では市街地内への共同駐車場を整備が位置づけられました。

 これを具現化するため、平成11年12月には商工会議所、各機関・団体、商業者、一般市民などで構成された「いわき中心市街地まちづくり協議会」が設立され、以降いわき市の中心市街地としての機能アップをめざしています。

(いわき地域學学會 小宅幸一)

 

※今回は『その他の写真』が掲載しきれなかった為、「いわきの『今むがし』Vol.179-2」に残りの写真を掲載いたしますので、ぜひご覧ください。

「いわきの『今むがし』Vol.179-2」▶『その他の写真』へ

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