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『平谷川瀬字明治町(⇒一丁目)』(令和5年7月26日市公式SNS投稿)  

登録日:2023年7月26日

いわきの『今むがし』Vol.173

飯野村大字谷川瀬および周辺 新川(現新川緑地)沿岸を含め、水田が広がる。 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

1.■地図1 飯野村大字谷川瀬および周辺 新川(現新川緑地)沿岸を含め、水田が広がる。 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

 現在の新川は、かつて古川と呼称されていました。昭和9(1934)年1月に新川と川名を改め、二級河川に指定されましたが、川幅は1間半(約2.7m)と狭く、大雨の際は川水が飲み込まれず、集中豪雨ごとに洪水となって内郷や平への災害が相次ぎました。
 平の昔の様子を描いた『ひまわり七〇年』(市井茂著)には、「川(旧新川)の南はすべて田圃(たんぼ)で、瓦斯(ガス)会社のタンク以外の建物の外は何も無く、雷雨のときは直(ただ)ちに冠水して小島、谷川瀬、北白土、南白土一帯は忽(たちま)ち水浸しとなった。(中略)現在市役所裏の現在の新川と称するものは、私共子供(筆者は明治42年生まれ)の頃は古川と称して2間(けん)位の小川であって、小鮒 (こぶな)や泥鰌掬(どじょうすく)いの場所であった」と書かれています。
 この弊害を解消するため、昭和17(1932)年度から6年の歳月をかけて旧新川から現河川への付け替え工事が行われました。
 新川南区域の低地は、谷川瀬、南白土の両地区です。谷川瀬は、すでに文和(ぶんな)2 (1353)年には矢河子村、延文2(1357)年には矢河瀬村と記述されていました。その後、江戸時代中期の文書には谷川瀬村と記述されてしいます。
 飯野村(明治22〔1889〕年に谷川瀬村などが合併して成立)大字谷川瀬においては、明治39(1906)年5月に耕地整理事業施行のために谷川瀬組合が設立、これに先立ち同年3月に起工式が行われました。明治42 (1909)年12月に41町歩余(約41ha)に及ぶ事業が施行認可され、その後、工事が施行され、翌年3月までに換地処分が行われて、事業は完了しました。
 この耕地整理事業に合わせて、字名改称が行われました。字名として取り上げられた由来は、他に例がないものでした。すなわち事業施行後、字名は、耕地整理事業が行われた明治の年号にちなみ「字明治町」、事業が終了した明治39年にちなみ「字三十九町(さんぞくちょう)」、耕地整理組合役員の仲田氏と山崎氏の一字ずつ取って「字仲山町(なかやまちょう)」、同じく役員の須藤氏と遠藤氏の藤を合わせて「字双藤町(ふたふじまち)」、同じく同組合長の永山泉七郎氏の一字を取って「字泉町(いずみまち)」と、それぞれ付されました。                          
 同様の例として平第一耕地整理事業(現在の市役所庁舎付近)では、福島県はこれまでの地域名に縁のない変更字名は認めなかったのですが、谷川瀬の場合は地域と無縁な字名だけに、比較すると納得できない側面が多いといえます。
 昭和9(1934)年12月、都市計画福島地方委員会より、飯野村の一部である大字谷川瀬の区域を平都市計画区域として組み入れることの是非について諮問(しもん)されたことから、昭和10(1935)年1月開会の飯野村議会がこれを協議しました。この結果、「諮問ニ反対ナリ、本村一円ヲ区域ニ編入スル時ハ異議ナシ」と答申しました。このことは、平市街地の範囲が谷川瀬にも及びつつあることを示したものでした。しかし、飯野村は村内の統一を考慮して全村単位で区域決定を条件として反対の意向を示しました。背景には、平町と飯野村の関係がありました。両者の行政境界となっていて、氾濫を繰り返す古川の改修に対する負担金の割合をめぐって、一致点を見出せない状況にあったのです。
 このときに同じく諮問された、平窪村の一部(下平窪、中塩、四ツ波、幕ノ内、鯨岡、大室)の計画区域内指定について、平窪村議会が全会一致で採択したのとは対照的でした。平窪村と平町は昭和12(1937)年に合併しましたが、飯野村と平町が合併を果たすのは戦後の昭和25年(1950)を待たなければなりませんでした。
 昭和26(1951)年2月、旧飯野村地内の谷川瀬に「平競輪場(現いわき平競輪場)」が開設されると状況は一変しました。各地から競輪ファンが集まり、これを目当てにした飲食店などが乱立しました。さらにこれまで新川町・月見町を経由していた鹿島街道が、平駅から真っ直ぐ線引きされた道路として近くを通過することになって、交通の利便性が増しました。
 当時、平競輪場の背後にあった、通称・谷川瀬山を貫通する、平駅から真っ直ぐの道路工事は遅々として容易に進まなかったのですが、周辺は商店や一般住宅などが無秩序に混在する区域と化していきました。昭和41(1966)年4月、待望の平と小名浜を一直線に結ぶ「主要地方道小名浜・平線」(開通当時は磐城・平線。通称・鹿島街道)が開通すると、市街化が一気に進むことになりました。               
 このため、平地区に接する内郷小島町において施行された「平南部第一土地区画整理事業」に次いで、その東域、鹿島街道の両側域である「平南部第二土地区画整理事業」が進められました。面積は39.0ha、昭和46(1971)年3月に都市計画決定され、昭和56(1981)年9月に事業認可を受け、工事に取り掛かりました。
 この間にも、クルマ社会の進行が顕著となり、これをにらんだ郊外への商活動が活発化し、先取りするように、昭和56(1981)年10月には駐車スペースを広く確保した大型ショッピングセンターが谷川瀬地内に進出しました。一方で、「平南部第二土地区画整理事業」の区域内には既設の家屋が多くあったことに加え、この中を東西に通じる「都市計画道路内郷駅-平線」の延伸部分として4車線で確保しなければならなかったこと、さらに事業区域内を南北に通る「県道下高久・谷川瀬線」(昭和63年3月にこの区域を含む全線が開通して主要地方道小名浜・平線へ)の4車線化、という大きな整備事業が伴っていたため、土地区画整理事業の遅れとならざるを得ませんでした。

平谷川瀬および周辺 道路が整備され、宅地化が進んだ。 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

2.■地図4 平谷川瀬および周辺 道路が整備され、宅地化が進んだ。 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

 昭和時代から平成時代にかけて、谷川瀬地内では道路体系が大きく変化しました。谷川瀬地内を通じていた主要地方道平-小名浜線の新しいルートは昭和63(1988)年3月、南白土を通る4車線道路に付け替えられ、次いで都市計画道路内郷駅平線(現市道内郷-平線)の399m部分(平谷川瀬字明治町-旧鹿島街道)が平成5(1993)年5月に、それぞれ開通しました。
 都市計画道路内郷駅-平線の工事は暫時東へ向かって進められ、新しい鹿島街道にも接続、平成7(1995)年には内郷駅から南白土の三倉橋付け根までの道路5.4kmが開通しました。
 都市計画道路内郷駅-平線の道路が延伸するにつれて、平市街地のバイパス的役割を果たすようになり、ファミリーレストラン、ガソリンスタンド、コンビニエンスストアなどが相次いで進出し、沿道型商業の集積が高まりました。いずれの店も広い駐車場スペースを確保しているのが特徴でした。他店との駐車場の共有するなどにより、回遊性を持たせ集客をアップさせようとしているケースもあります。
 南白土地区においても、「平南部第三土地区画整理事業」が施行(平成8〔1996〕年に完成)されました。こうして、小島、谷川瀬、南白土は完全に平市街地の一部と化しただけでなく、本町通り、国道6号に続く市街地を東西に貫く道路が幹線道路として整備されたことにより、利便性が飛躍的に向上した区域となりました。しかも本町通りや国道6号では沿道商業としては駐車スペースに苦慮するなか、これらニーズに合った商店づくりができたため、沿道商業の発達につながったといえます。
 なお、「平南部第二土地区画整理事業」の区域は換地処分が未了であるため、いわき市議会の議決を得たものの、長い間告示は実施されていませんでしたが、平成30(2018)年2月にすべて谷川瀬一~三丁目と告示され、かつて耕地整理の際に付けられた、他地域とは異なるユニークな字名は消失しました。  

(いわき地域學学會 小宅幸一)

  その他の写真

■地図2 飯野村大字谷川瀬および周辺 新川(現新川緑地)まで市街地が拡大。河川ルートを南方の古川に付け替える計画が検討される。 〔1.50,000地形図 平(昭和8年要部修正測図) 国土地理院発行〕

3.■地図2 飯野村大字谷川瀬および周辺 新川(現新川緑地)まで市街地が拡大。河川ルートを南方の古川に付け替える計画が検討される。 〔1.50,000地形図 平(昭和8年要部修正測図) 国土地理院発行〕

■地図3 いわき市平飯野および周辺 新川(旧古川)を越えて、宅地化が無秩序に進むため、谷川瀬地区の土地区画整理事業施行が検討される。 〔1.50,000いわき都市計画図 平(昭和42年測図) いわき市発行〕

4.■地図3 いわき市平飯野および周辺 新川(旧古川)を越えて、宅地化が無秩序に進むため、谷川瀬地区の土地区画整理事業施行が検討される。 〔1.50,000いわき都市計画図 平(昭和42年測図) いわき市発行〕

■写真1-1 平谷川瀬字明治町地内の都市計画道路内郷駅-平線を西方に向かって見る 〔平成5(1993)年3月 いわき民報社撮影〕

5.■写真1-1 平谷川瀬字明治町地内の都市計画道路内郷駅-平線を西方に向かって見る 〔平成5(1993)年3月 いわき民報社撮影〕

■写真2-1 平谷川瀬字明治町地内の都市計画道路内郷駅-平線を東方に向かって見る 〔平成5(1993)年5月 いわき民報社撮影〕

6.■写真2-1 平谷川瀬字明治町地内の都市計画道路内郷駅-平線を東方に向かって見る 〔平成5(1993)年5月 いわき民報社撮影〕

■写真3-1 平谷川瀬字明治町地内の洪水を南方に向かって見る 〔昭和54(1979)年5月 いわき市撮影〕

7.■写真3-1 平谷川瀬字明治町地内の洪水を南方に向かって見る 〔昭和54(1979)年5月 いわき市撮影〕

■写真4-1 平谷川瀬字明治町地内(競輪場前)の市道中町-谷川瀬線を北方に向かって見る 〔昭和52(1977)12月 いわき市撮影〕

8.■写真4-1 平谷川瀬字明治町地内(競輪場前)の市道中町-谷川瀬線を北方に向かって見る 〔昭和52(1977)12月 いわき市撮影〕

■写真1-2 平谷川瀬一丁目の市道内郷-平線を西方に向かって見る 緑屋牛肉店の看板が同じである。 〔令和4(2022)年10月 小宅幸一撮影〕

9.■写真1-2 平谷川瀬一丁目の市道内郷-平線を西方に向かって見る 緑屋牛肉店の看板が同じである。 〔令和4(2022)年10月 小宅幸一撮影〕

■写真2-2 平谷川瀬一丁目の市道内郷-平線を東方に向かって見る 〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

10.■写真2-2 平谷川瀬一丁目の市道内郷-平線を東方に向かって見る 〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

■写真3-2 平谷川瀬一丁目を南方に向かって見る  〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

11.■写真3-2 平谷川瀬一丁目を南方に向かって見る  〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

■写真4-2 平谷川瀬一丁目の市道中町-谷川瀬線を北方に向かって見る  〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

12.■写真4-2 平谷川瀬一丁目の市道中町-谷川瀬線を北方に向かって見る  〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

都市計画道路内郷駅-平線の谷川瀬地内から東方を見る(平成5年3月、いわき市撮影)

13.都市計画道路内郷駅-平線の谷川瀬地内から東方を見る(平成5年3月、いわき市撮影)

平谷川瀬の洪水(2)(昭和54年5月、いわき市撮影)

14.平谷川瀬の洪水(2)(昭和54年5月、いわき市撮影)

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