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『平北白土』(令和5年3月22日市公式SNS投稿) 

登録日:2023年3月22日

いわきの『今むがし』Vol.165

平市街の拡大はまだ顕著でなく、北白土は純農村 〔1.50,000地形図 平(昭和8年応急修正)  国土地理院発行〕

1.■地図1  平市街の拡大はまだ顕著でなく、北白土は純農村 〔1.50,000地形図 平(昭和8年応急修正)  国土地理院発行〕

 江戸時代、平城下の商業は一~五町目を中心として栄え、そこからいわき地方(現いわき市。便宜上表記)の各地域へ道路が分岐していました。

 小名浜や豊間へ通じる街道は、五町目から分岐して南下していました。町屋は五町目から新川(現新川緑地)あたりまで続いていて、ここから先、街道の平字三倉と同字倉前の東方に位置していたのが北白土村で、見渡す限りの水田が広がっていました。

 北白土村は、明治22(1889)年4月の「明治の大合併」では南白土村などと合併して飯野村大字北白土となりした。つまり平町では工場を含め若干の市街化傾向はありましたが、東隣りの北白土では農業がすべてであり、小幅員の農道が未整備の状態で農地を区切っていました。地名改称以前にはかつて、一区画の田を示す大木町や愛谷町など、「町」が付く字名が多くあり、また三反田、五反田、九反坪という条里制による耕作を連想させる地名もあり、条里型の土地割りが残っていたことがわかります。北白土の集落は夏井川後背地の微高地に集まっていました。

 平市街の南下が旧新川を越える契機となったのは、平字三倉と同字倉前に開設(昭和4〔1929〕年1月)された片倉磐城製糸工場でした。街道に沿っていくぶん宅地化されたものの、この区域以外には長い間、景観の変化はありませんでした。

 第二次世界大戦後の食糧増産の要請を背景に、飯野村では「飯野農談会」が発足、これを受け、地域住民は「北白土農事研究会」などを通じて、キュウリやネギの蔬菜(そさい)栽培・出荷などに好成績をみせるなど農業の近代化を図りました。また、昭和28(1953)年には北白土生活改善グループが発足、生活改善モデル地区として指定され、藁屋根の解消、台所の改善など、農家の生活改善の先駆的な取り組みを実践して効果を上げました。昭和31(1956)年には、自主的な新しい村づくりをめざした「新農山漁村建設事業」の施行に際し、北白土が地区指定を受けるほどでした。

 さらに農業生産を拡大するため、昭和37(1962)年から翌年にかけ、「白土区土地改良組合」(113人)が主体となって土地改良事業が施行されました。この区域は北白土を西部、中部、東部に分けてみたとき、中部区域を対象としたものでした。対象面積は約57ha、一区画の水田は20aといわき地方としては初めての大規模なもので、中央に幹線道路、用・排水路を整備しました。事業完成後の昭和39(1964)年2月には、事業区域の字名は字宮前と字愛谷町に集約されました。

 しかし、昭和30年代以降の高度経済成長が及ぼした都市化の波は平市街地に近い、この地域を急速に飲み込んでいきます。またたくまにサラリーマンと農業を兼務する兼業農家が急増し、農業労働の比重は低下の一途をたどりました。土地改良事業が施した土地区割りが皮肉にも住宅化の受け皿となり、農業環境の維持を阻害(そがい)することになったのです。

 昭和39年度から3か年で北白土作町市営住宅(136戸)が北白土の東部に建設されたのをはじめ、宅地化が進んでいきました。昭和44(1969)年に公布された「改正都市計画法」では、市街化すべき区域、農業を維持させる区域を区分する、いわゆる「線引き」が行われましたが、昭和45(1970)年10月の線引きでは、北白土地区はすべて市街化区域内に線引き(第二種住居地域)され、農用地は宅地に転換されることが可能となり、宅地化が一層進行することになりました。

 北白土のうち、住宅地として整備対象となったのは、東部、中部、西部のうち、中部と西部でした。このうち中部は前述したように土地改良事業を施行しましたが、西部は鹿島街道に近いだけに宅地化が無秩序に進行中であったにもかかわらず、古い時代の区割りが残されたままでした。このことから、宅地化を積極的に進める方向で、北白土の西部、中部を合わせた土地区画整理事業が計画されました。主体はいわき市。対象は平と平北白土にわたる59.5haの「平東部土地区画整理事業」で、昭和48 (1973)年8月に都市計画決定、昭和48(1973)年11月に事業認可を受けました。その後、工事が施行され、昭和59(1984)年4月までに換地処分が行われて、事業は完了しました。

「平東部土地区画整理事業」が完了し、北白土はほぼ宅地化 〔1.50,000地形図 平(平成19年修正)  国土地理院発行〕

「平東部土地区画整理事業」が完了し、北白土はほぼ宅地化 〔1.50,000地形図 平(平成19年修正)  国土地理院発行〕

 このような地域の急速な変貌を、『心不変-北白土第一共有社百年史』は「昭和三十七年に実施した耕地整理(土地改良のこと)の時点では四七.五ヘクタールであったが、平東部土地区画整理事業が施行された昭和五十六年度の水稲作付可能面積は九.九ヘクタールと激減し、農地は加速度をもって宅地化」と記録しています。

 作町、愛谷町のいずれも北白土を構成する字名の一つでしたが、字名改称の措置に伴い、この二つの字は大きな区域面積(字作町は一~三丁目、字愛谷町は一~四丁目)を持つこととなりました。また、北白土の大字から離れ、平に組み替えられ、急速に市街化されました。

 特に事業区域内の西域では南北道路が通じて、沿道には商業化が著しく進み、昭和61(1986)年には「東大通り」の愛称が付けられ、また新しい鹿島街道(主要地方道小名浜-平線)のルートともなったため、一層のにぎわいが創出されることになりました。

 あらためて、歴史的に平と北白土を比較してみると、行政の方針が大きく異なっていたことがわかります。平町と飯野村大字北白土に属する新川(現新川緑地)と古川(現新川)の間に広がる水田は、いずれも耕地整理事業によって碁盤(ごばん)の目に区切られていることは共通していましたが、その後の対応が異なりました。すなわち、平町では将来の市街化を想定して、大正時代には畔道(あぜみち)を広げて、現在の市役所庁舎、県合同庁舎などを区画する道路づくりに道を拓きました。一方、平町に接する飯野村ではあくまでも北白土を農村と位置づけ、豊かな村づくりを推進しました。

 昭和25(1950)年4月に平市と飯野村が合併してからも、北白土の農村としての位置づけは変わりませんでしたが、昭和30年代から始まる高度経済成長とこれに伴う都市化の波に洗われ、都市のかたちを大きく変えていくことになります。

 昭和41(1966)年にいわき市が誕生して以降は、北白土は市の主導によって住宅地として整備され、急速に宅地化が進み、今日を迎えています。

(いわき地域學学會 小宅幸一)

  その他の写真

北白土を中心に「平東部土地区画整理事業」(昭和48~59年)が施行 〔1.50,000地形図 平(昭和51年測量)  国土地理院発行〕

3.■地図2  北白土を中心に「平東部土地区画整理事業」(昭和48~59年)が施行 〔1.50,000地形図 平(昭和51年測量)  国土地理院発行〕

平北白土の市営宮田団地入口 写真右方では夏井川後背の微高地に位置し、昔からの家々が散在していた。写真左側は、水田を埋めて建設された市営宮田団地に通じる。 〔昭和53(1978)年4月 いわき民報社撮影〕

4.■写真1-1 平北白土の市営宮田団地入口 写真右方では夏井川後背の微高地に位置し、昔からの家々が散在していた。写真左側は、水田を埋めて建設された市営宮田団地に通じる。 〔昭和53(1978)年4月 いわき民報社撮影〕

写真2-1「平東部土地区画整理事業」が進行中 写真左の遠方にはいわき短期大学の建物、写真右側には三島神社の鳥居が見える。 〔昭和56(1981)年12月 いわき市撮影〕

5.■写真2-1 「平東部土地区画整理事業」が進行中 写真左の遠方にはいわき短期大学の建物、写真右側には三島神社の鳥居が見える。 〔昭和56(1981)年12月 いわき市撮影〕

北白土に押し寄せる都市化の波 写真右に松尾病院の建物、左遠方にNTTの鉄塔が見える。 〔昭和52(1977)年11月 いわき市撮影〕

6.■写真3-1 北白土に押し寄せる都市化の波 写真右に松尾病院の建物、左遠方にNTTの鉄塔が見える。 〔昭和52(1977)年11月 いわき市撮影〕

県道を挟んで、写真左側では市営宮田団地が先導して宅地化が進ちょく 写真1-1左側は新しい市街となったが、右側の集落は昔の面影を伝えている。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

7.■写真1-2 県道を挟んで、写真左側では市営宮田団地が先導して宅地化が進ちょく 写真1-1左側は新しい市街となったが、右側の集落は昔の面影を伝えている。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

写真2-1と同じ場所 写真2-1の左側に見えていた建設中の住宅が見える。遠方にはいわき短期大学の建物や三島神社の樹林も見える。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

8.■写真2-2 写真2-1と同じ場所 写真2-1の左側に見えていた建設中の住宅が見える。遠方にはいわき短期大学の建物や三島神社の樹林も見える。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

平東部土地区画整理事業区域内に配置された「白土公園」 松尾病院の建物、NTTの鉄塔が、それぞれ同じ角度で見える。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

9.■写真3-2 平東部土地区画整理事業区域内に配置された「白土公園」 写真3-1に見える松尾病院の建物、NTTの鉄塔が、それぞれ同じ角度で見える。 〔令和3(2021)年8月 小宅幸一撮影〕

 

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