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『平字二町目』(上)(令和5年10月11日市公式SNS投稿)

登録日:2023年10月11日

いわきの『今むがし』Vol.178-1

■地図1 一町目~五町目 〔元和8(1622)年 「岩城平城内外一覧図」の一部〕

1.■地図1 平一~五町目(岩城平城内外一覧図(元和8年・1622年8月 いわき市立図書館)

【江戸時代の二町目】

 一町目と二町目の間にも町木戸が備えられていました。町木戸の近くには、磐城平藩の藩役所からのさまざまなお触れを張り出して周知する制札場(せいさつば)が掲げられていました。また、自身番が設けられ、急変を知らせるホラ貝や犯罪人を捕らえるための突き棒、刺股(さすまた)などが備えられていました。元禄9(1690)年の二町目は家数36軒、男性214人、女性192人の計406人と、紺屋町の417人に次ぐ人口を有していました。
 馬8頭を運送用に持ち、毎月8日と22日には「市」が開催されていました。また、根本家(大一屋)には、町商人(あきんど)の神「市神様」が持ち宮として祀られており、後の「市神様のダルマ市」に引き継がれています。

【明治時代の二町目】

  江戸時代から明治時代へ、三町目とともに平城下の中心地として老舗の商家が立ち並びながらも、石炭が発見されて以降、大手炭鉱がいわき地方に進出して、新しい金融機関も進出してきます。

【西村屋】

二町目の薬舗(やくほ)「西村屋」は江戸時代初期以来、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許された商家で、酒、燃料、塗料などあらゆる品物を扱う“百貨店”でした。

 明治3(1870)年2月の平大火で焼失したことから、漆喰(しっくい)の土塀造りを基本として店と蔵が同居しているのが特徴で、間口は6間(約10.8m)、奥行きは30間(約54m)に及びます。材料としては一部に大浦村細谷のマツが使われました。建物は逐次改築・増築が行われ、完成したのは明治43(1910)年の台所の立て直しだったといいます。倉庫だけが、明治時代末期のレンガ造りでした。住居との境は分厚い扉で仕切られていて、火災の際も食い止めることができる造りが特徴となっていました。

 西村家の間口は本来7間(約12.6m)であったが、1間(約1.8m)を道路として提供したことから、この通りを「西村横丁」と呼んで、歩行者(通りの北側では自動車が通じた)にとっては得難い存在でした。(後の昭和56〔1981〕年に幅員16mの愛称「レンガ通り」へ)

 こうしたなか、西村屋の建物は昭和54 (1979)年に姿を消し、ビルに生まれ変わりました。

【大一屋商店】

 同じく字二町目の日用雑貨卸・小売店「大一屋商店」は江戸時代末期に創業しました。

 多くの建物が耐火建築に建て替えたように、きっかけとなったのは明治39年2月に起こった平大火でした。大一屋も被害に遭ったため、店舗の建屋側面には1、2階ともに耐火煉瓦造りで出入口や窓などの開口部は、金属の扉で密閉できる構造となっていました。

 店構えは総ケヤキ造りで間口4間、奥行き6間、ケヤキ材料は入遠野村の産、基礎土台造りに半年、店と住居の内部には1年をかけ、総じて建築期間は2年以上を要しました。

【市神様のダルマ市】

 二町目に位置していた大一屋のもう一つの特徴は、市神様(いちがみさま)を守っていたことでした。子鍬倉神社内に鎮座(ちんざ)していたものを江戸時代末期に大一屋に遷座(せんざ)。ダルマ市が開かれていました。ダルマ市の様子を、昭和9(1934)年2月13日付『磐城新聞』は、「今(昭和9年当時)では廃(すた)れましたが、火事(明治39年2月の大火災)まで、いや火事の少し前でせ(しょ)うな、磐城の達磨市(だるまいち)と言や大変なものでした。旧正月の十二日には商人は勿論(もちろん)、誰でも彼でもお参りに行ったものです。二町目に市神さまというのがあって、今の大一屋さんの氏神さまになってゐ(い)ますが、その頃は裏に通づる路(みち)でもっと広く七転八起の縁起を祝ふ(う)商人から養蚕家、磐城全域はなおさらのこと、随分遠方からも来ました」と、関係者の弁を報じています。

 市神様のダルマ市では、平地区のダルマ職人15人以上が店を並べ、活気にあふれていましたが、減少傾向が続き、昭和9(1934)年に出店したのは10店弱。昭和10年代から20年代にかけて姿を消し、以来中断されました。

【紅小路に接する二町目北側】

 一町目~五町目の本町通りの北側と南側には水路が敷かれていました。特に北側は武家屋敷との境を成しており、江戸時代には商人町と武家屋敷を隔絶する存在でした。明治時代以降北側の広い堀は狭められ狭い通りが通じていました。

 この水路は、明治3(1870)年と明治39(1906)年に発生した二つの「平大火」の教訓として水確保の重要性を問われることになったため、防火用水確保として最低限度に残したものでした。平町は五町目東側を南流していた愛谷江筋の水利権を確保、引水して防火用水として東の五町目から西の一町目に向け流したのです。一方、松ケ岡公園築造の際に防火兼用の池を構築して、ここから東方の紺屋町、材木町方面に引水するための水路としていました。

 しかし、大正10(1921)年に上水道が平市街に通水するようになると、特に本町通りの背割町にそれぞれ残っていた水路は次第に邪魔な存在になっていきます。

 『ひまわり七〇年』(市井茂氏著)では、「道路沿いには大小様々な幅員のドブがあった。一町目と才槌小路の間、二町目と田町の間(紅小路裏)、三町目と田町の間(三田小路)、一、二、三、四、五町目と鍛冶町、南町との間には大きなドブがあって、酔客(すいきゃく)が落ちたり、橋架けして、夜のダルマ屋の姉さん達がネズミ啼(な)きをして客を摑(つか)まえた」と回顧しています。

 回顧されたのは、武家屋敷から歓楽街に変貌した田町を活写したものでした。

 また、夏季になると汚水流入で臭気を放つため、町役場では掃除や防臭剤を投じて臭いの軽減を図らざるを得ず、このような事態が続きました。

 これら水路の暗渠化は昭和9年から始まりました。田町の通称「紅小路」は昭和10(1935)年、通称「三田小路」(暗渠化の完成は昭和13年)は昭和12(1937)年、道路舗装と水路暗渠化に併せてそれぞれ命名されました。暗渠化工事により、昭和13(1938)年頃までに一町目から五町目の周囲を囲むように巡らされていた水路は視界から姿を消しました。

 この暗渠化で新たに生まれた紅小路では、それまでは北隣りの新田町通りに向いていた店構えが、通りができたことにより南側にも向けるようになったのです。さらに紅小路の南側となる、これまでの町屋の領域にも歓楽街が成立するようになりました。つまり、本町通り二町目では同じ番地ながら、本町通りに面した区域では従来の小売商を中心とした通り、一方北側の紅小路通りは歓楽街というように、明確に機能分けがされるようになったのです。

【本店銀行の行方】

 老舗の店とは対照的に、明治時代、新たに威容を誇った建物が銀行でした。明治26(1893)年には銀行条例と貯蓄銀行条例が改正され、全国で都市部を中心に銀行設立が相次ぎ、地元関係者による本格的な銀行としては、磐城銀行が明治29(1896)年3月に平字三町目で、平銀行が同11月に二町目で、それぞれ創設されてしのぎを競いました。

 これら銀行に関し、いわき地方の特徴として挙げられるのが、炭鉱会社との結びつきでした。

 銀行は炭鉱会社との関係を深め、資金投入の元手としての役割を果たしました。磐城銀行は入山採炭(株)と、平銀行は磐城炭礦(株)と、それぞれのつながりを強めました。磐城炭礦(株)と入山採炭(株)はともに湯本村、内郷村の両方に鉱区を保有し、競い合う構図(昭和19年〔1944〕に戦時統合で企業合併したが、“気質の違い”で、合併後の融合には時間を要した)となったことから、銀行も同様な構図とならざるを得ませんでした。

 現に、磐城銀行、平銀行ともに、開設時がともに明治29年、創業の資本金がともに5万円と同規模で、また財界と政界は密接な関係にあったことから、政党・政治家は両銀行のどちらかに深く関わることになりました。

 当時大所帯の立憲政友会内では元からの旧・政友会員と旧憲政本党から合流した新・政友会員の勢力が競っていました。このような状況下、(株)磐城銀行は新政友会系の政財界のバックアップを得ました。一方、(株)平銀行は旧政友会支持の政財界に支えられていました。したがって経営陣の顔ぶれが重なることはありませんでした。

 平銀行は大正3(1914)年12月には、字二町目に洋風レンガ造りの新店舗を建設。大正7(1918)年には、代耕(だいこう)銀行平支店を買収した地元資本の磐越銀行が南町に本店を構えました。大正8(1919)年には字三町目に七十七銀行、大正10(1921)年には字四町目に第百七銀行(大正12年、二町目に移転)が、それぞれ本町通りおよび周辺に平支店に設置しました。

 大正12(1923)年時における営業税を年額50円以上納めている企業・商店を網羅した『福島県営業別銀行・会社・商店要覧』(大正13年〔1924〕)をみると、銀行部門では、(株)磐城銀行(4,057円余)、(株)平銀行(3,061円余)、(株)磐越銀行(1,060円余)と続き、平5行、植田1行、四倉1行の7銀行が該当していました。資本金でみても、磐城銀行は県下4位、平銀行が同5位でした。

 平字二町目のにぎわいぶりを、昭和2(1927)年1月29日付『磐城時報』は「平町二町目では、昨年旧年末に全町が連合して福引景品付き大売出しを開催して非常な人気を博し、売り出し期間中は、石城郡内は勿論(もちろん)、遠く双葉、小野新町方面からも買い出しに来て、二町目に集まる者引きも切らず、二町目付近はさながら祭り騒ぎを演じ、『平の名物』の観を呈した」と報じています。

 第一次世界大戦の好景気を経て、未曾有(みぞう)の需要は止まり、水膨れした好景気の反動は各産業にダメージを与え不景気に入りました。大正12年9月の関東大震災による世情不安も加味されて経済沈滞は続き、昭和時代に入ると金融恐慌の引き金となりました。

 弱小資本の銀行は“将棋倒(しょうぎだお)し”のように休業、あるいは倒産に追い込まれました。昭和3年(1928)3月から同11月までに休業した銀行は全国で10行を数えました。

 いわき地方においては平町に本店を置いていた磐城銀行(資本金75万円)、平銀行(資本金150万円)、磐越銀行(資本金100万円)で、かねてから預金減少が進んでいました。好景気に行った過大な貸し出しは景気低迷により資金繰りの悪化を招き、経営を危うくしていました。

 昭和3年5月、磐城銀行が突然休業。昭和3年11月には平銀行も休業し、いわき地方全体における金融界や住民の動揺をあおりました。

 磐城、平の両銀行は県の調停により合併してこの難局を乗り切ろうとしましたが、かねてから各々の銀行を支援する立憲政友会の内部的な政治的対立がここでも確執となってあらわれ、各々が特定銀行と結び相手銀行を攻撃し合い成立が妨げられ、かえって泥沼化を深め、合併は成りませんでした。

 この時期の銀行整理によって、全国では明治時代後期に日本に設立されていた1,527行のうち、昭和8(1933)年には678店へ、3分の1以下にまで減少しました。

 こうして、磐城銀行は昭和6(1931)年4月に破産、平銀行は昭和4年2月に常磐(ときわ)銀行(水戸市に本店所在。現常陽銀行の前身)へ吸収合併、磐越銀行は昭和6年5月に破産などと、それぞれいわき地方に本拠地を持った銀行は軒並み姿を消してしまいました。

 なお、大正4(1915)年に平銀行として建てられた建物は、好景気や銀行身売りの盛衰を経て、常陽銀行平支店として歳月を刻みました。塔屋の造りや一部煉瓦の壁、丸みを帯びた上屋の窓飾りなど明治時代末期の面影を残していましたが、改築により昭和49(1974)年に解体されました。

【買い物公園(歩行者天国)の開催】

 昭和30年代、社会全体で自動車が中心の役割を担うようになるモータリゼーションが浸透していくと、駐車場が確保できない市街では、新たな手法で買い物客を呼び込み、魅力アップにつなげようとしました。

 昭和37(1962)年8月に施行された「商店街振興組合法」に基づき、平地区商店街では初めての法人組合となる「平市二町目商店街振興組合」が設立されました。

 組合員に必要な共同事業や地区内の環境整備改善事業の推進により魅力ある商店街づくりに資することが目的で、具体的には街路灯のリニューアル、アーケードや駐車場設置などが課題となりました。

 街路灯の整備後の昭和43(1968)年9月には、国道6号の新ルートが完成したことから、本町通りを含む2,677m区間がいわき市へ移管されました。このことにより、市独自の計画によって道路形状の改変や歩道設置、道路を歩行者に開放する「買い物公園」(歩行者天国)の実施、アーケード設置が可能となりました。

 平本町通り(一町目~三町目)では、昭和45、46 (1970、71)年、昭和51(1976)年、52(1977)年、同54(1979)年に、それぞれ「買い物公園」を実施しました。

 歩道開設については、車道確保の観点から両側2.5mは1.5mへ削減されて完成しましたが、アーケード建設については、防災上の観点から実現できませんでした。

 駐車場対策については、単に本町通りだけにとどまらない、多くの交通分野の課題と関わっていました。昭和46年4月に平字禰宜町(ねぎまち)に進出したイトーヨーカドー平支店は、広い駐車場を備えており、既成市街地には大きな危機感をもって迎えられました。

■地図5  平字三町目付近 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

【課題山積の本町通り】

 自動車の増加と駐車場不足は、バイパス道路などの整備が進むにつれて、商店進出に対して別の展開を促すことになります。すなわち、未開の新しい道路沿いに多くの自動車が駐車できるスペースを確保したうえで、商業形態も無理に高層化せずに低層ながら広いフロアを備えた商業施設を建設していきます。マイカーを媒介すると、郊外への進出は密集した市街に進出するよりも税制や建築基準法、集客と、あらゆる面ではるかに有利となったのです。

 昭和62(1987)年に行った二町目と三町目の商業診断調査では、商業核の不足、乏しい遊びやレジャーの要素、駐車場の不足、将来へのビジョン欠如、カラー歩道などが指摘されています。

 昭和61(1986)年6月の平日1日とショッピングモール化直前の平成3(1991)年6月の平日1日の本町通りの歩行者通行量調査を比較すると、二町目では5,003人から4,054人へ減少し、危機感は増していました。

【ショッピングモールの選択】

 こうした過程を踏んで、道路をさまざまな角度から検討して人と自動車が共存できるように整備し、市街地の活性化をめざす「市平地区シンボルロード等整備計画策定協議会」が昭和63(1988)年11月に発足。平成元(1989)年5月には同会から平本町通りのうち駅前通りから西側420m区間を対象に車の一方通行として植栽やベンチなどを配し、電線類の地下埋設化(キャブシステム)を導入したショッピングモール(遊歩道を兼ねた商店街)化案が示されました。

 すでに、昭和63年から平駅前・国道399号(旧「平大通り」→「いわきサンパルク」)409m区間では、通りにあった緑地帯を撤去し、道路両側の歩道を従来の5mから7.5mに拡幅すると同時に電線類の地下埋設化して、ゆとりのある景観を得ており、このことが、本町通りへのモール化導入に弾みをつけることになりました。

 平成2(1990)年11月には、計画を具体化するための「平本町通りショッピングモール基本計画策定協議会」が発足。さまざまな検討が練られ、公道12mのうち車道は8.6mから4mへ縮小、一方歩道は両サイド各4m、東から西への一方通行、車の速度を下げるための蛇行ライン、建て替えるときはセットバック、などを決めました。 

 工事は平成4(1992)年7月からスタートし、平成7(1995)年4月に開通式を行いました。この通りには同年7月、「スウィングロード」の愛称が付けられました。

【市神様ダルマ市】

 長年途絶えていた「市神様ダルマ市」は、本町通りにおけるショッピングモール化を機に活性化につなげようと、再開の機運が高まりました。再開の主体となったのは、「平二町目商店街振興組合」。平成9(1997)年1月12日に「招福市神様のダルマ市」を開きました。

 以後直近の日曜日に開催していましたが、平成14(2002)年に「大一屋」が閉店したことから、継続が懸念されました。関係者は、平成15(2003)年に「市神様」を大一屋から表通りに遷座してダルマ市はつながり、現在も毎年1月の第2日曜日に開催されています。

【変わる街の景観】

 街の空洞化・郊外化に伴って、駐車場が目立つようになりましたが、平成時代初期まで曲がりなりにも、本町通りは基本的に卸・小売を中心とした街並み景観が続いていました。

 しかし、平成10年代を迎え、異なった様相を見せるようになったことが、二町目において特徴的に挙げられます。これまで歓楽街は長い間、本町通りの北側に位置する新田町通り、紅小路を中心としていましたが、この機能が本町通りにも流れ込む傾向を示しています。

 ただし、従来のスナックやバー、キャバレーの類ではなく、居酒屋、カラオケなど、比較的新しい業種でした。老舗の商店街にあっては、容易に機能転換は図られませんでしたが、平成10年代以降、進出が目立つようになりました。

 『いわきのコミュニティづくり』(平成13年 いわき未来づくりセンター刊)では、二町目の商業について、昔と今を比較して、住民から次のような感想を聴取しています。

・あらゆる品物があった。卸商、小売商、商社などの店が並ぶ。店の戸を開く前から客がいた。黙っていても売れた。

・商売よりも代々跡を継ぐという使命(役割)観がある。土地(地主)から離れずに住む。守りの商法になっている。(旧家)

・昔は、炭鉱の発展、平の活気、街中ににぎやかさがあった。

・正月二日市では、家族・親戚総出で、真夜中から戸板を並べて、品物を並べて売った。近隣、遠方から列車、バスで人、人、人…で売り尽くした。

・七夕では、昔は家族と丁稚(6~7人)で、何日も準備して飾った。今は少ない家族の手だけでは、竹竿も上げ下げできなくなり、商店会(青年)にやってもらう。

・“平にしかないもの、ここにしかないもの”がかつての平のステータスであったが、次第になくなった。

・大型商店にはできない感性の商業空間(街)との思いを持っていたが、今はこだわり、ユニークなものを売るという気質が少なくなった。

・商業不振で人が次々と去っていく。隣人関係、付き合いが減ってきた。

・昔は生業(商業)と同居、町内全域がすべて商業・文化だった。

【景観を変えた東日本大震災】

 平成23(2011)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は、現代の耐震性基準に合っていない歴史的建造物に大きな損壊をもたらしました。

 復元を伴った復旧には多額な費用がかかり、また個人資産であったことから、支援は十分に得られないまま、本町通りの堀薬局(大正時代に建築)、ナカノ洋品店(大正6年に建築)だけでなく、平市街に点在していた歴史的建造物は姿を消しました。

(いわき地域學学會 小宅幸一)

 

※今回は『その他の写真』が掲載しきれなかった為、「いわきの『今むがし』Vol.178-2」に残りの写真を掲載いたしますので、ぜひご覧ください。

「いわきの『今むがし』Vol.178-2」▶『その他の写真』へ

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