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『平字小太郎町』(令和5年9月6日市公式SNS投稿) 

登録日:2023年9月6日

いわきの『今むがし』Vol.176

■図 昭和20年7月の空襲で焼け出された区域(3度目)

■図 昭和20年7月の空襲で焼け出された区域(3度目)

 以前、平(→いわき)駅前通りについて記述しましたが、今回は通りのなかで、ある計画をもって区画された一帯の平字小太郎町について紹介します。

 明治時代まで、小太郎町一帯を含む新川(現新川緑地)と古川(現新川)の間は見渡す限りの入り組んだ水田でした。用水を区画して収穫率を高めるためには、耕地整理が適しており、この区域も明治39(1906)年から翌年にかけて事業が施工されました。

 これに即して、字名変更が立案され、明治42(1909)年12月開会の平町議会で提案・可決されました。元の字小太郎町、字佃、字稗売町(はかりうりまち)は字祝町(いわい)となったのです。しかし、この議決は福島県から「縁故ヲ有セザル改称ハ詮議(せんぎ)シ難キ」、つまりこれまでの地名と縁のない地名は認められないとされ、同様に他の区域にあてはめた旭町や錦町などの名称も却下されたのです。

 このため、明治44(1911)年1月開会の町議会で、祝町を小太郎町とすることで、県の了承を得ました。

 この地域が大きく変わる契機となったのは、昭和20(1945)年7月28日、平市街の3度目となるアメリカ軍の空襲で、駅前から南方へ、三町目、大町、南町などが焼け出されたことによるものでした。

図 平戦災復興都市計画図

図 平戦災復興都市計画図

 昭和20年8月、実質的に敗戦が確実となって以降、焼け出された日本全国の各都市は、政府が昭和20年12月に閣議決定した「戦災地復興計画基本方針」、昭和21(1946)年4月に公布した「特別都市計画法」に基づき、復旧・復興を図ります。

 平市街では、これまでの懸案であった駅前通りが焼け出された部分と合致するため、そのまま駅前通りとして計画されました。

 平戦災復興事業では、国鉄平駅を南方へ移転改良するという大幅な見直しと連動して街路計画を見直し、特に駅前通りは36mへ拡幅するなどの「平戦災復興土地区画整理事業」として、計画面積は25万坪(約82万㎡)に及びました。このうち7.6万坪(約25万㎡)が新しい駅の敷地に当てられました。

 計画立案に際しては、復興院の関係者が昭和21(1946)年2月に来市して実地調査し、周囲10km、人口10万人程度のまちを想定した「平戦災復興土地区画整理事業」として計画しました。

 具体的には、当時の平駅から鉄道移転で新たな平駅となる小太郎町(後の小太郎公園は新駅前広場として設定)まで、延長680m、幅員36mの幹線道路(都市計画道路田町-小太郎町線)が計画の目玉となりました。

地図3 駅前通りの南側に位置し、新しい駅を予定していた小太郎町と小太郎町公園 〔1.5,000日本業種別明細図「平市」 昭和29年〕

2.■地図3 戦災復興土地区画整理事業の計画では小太郎町に平駅を移設し、小太郎町に駅前広場を設定。空襲区域はそのまま駅前通りへ 〔1.5,000 (日本業種別明細図「平市」) 昭和29年(1954)〕.jpg

 昭和24(1949)年になると、国では急激なインフレを抑制するとともに、緊縮財政による財政の健全化策を骨子とする財政改革が必須事項となります。

政府は国有鉄道の定員削減をはじめとする公務員などの削減や補助金の削減など、あらゆる面で行財政を見直す方向に舵を切って各種事業の緊縮化に切り込んでいきます。

 その一環として、過大な都市計画の実施による財政負担を懸念し、昭和24年6月、「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」を閣議決定し、復興都市計画法に基づく事業規模を大幅に削減しました。

 こうして、地方都市・平市においても、平駅の移転は実現困難となっていきますが、鉄道移転計画は改造区域の端に位置したことから、他の計画への影響は少ないものでした。

 事業終了が近くなった昭和28(1953)年12月の時点で、小太郎町の南域となる駅その他付属施設予定地約6万2,000坪(字梅本、字三崎、字菱川町などの区域)が除外(改めて、昭和29年〔1954〕度から始まった新川北第一土地区画整理事業(14.3ha、昭和29~33年〔1958〕度)として施行)されました。

 この間、36m幅員の駅前通りは幅員30mへ縮小されましたが、当時としてはそれでもなお過大な計画として反対運動は根強く残りました。平市は防火の関係からも30mの確保は必要として、昭和24(1947)年には、一部立ち退き・取り壊しの強制執行を発動して事業を進めました。駅前から新川橋(現在の新川緑地公園)先の小太郎町までの舗装工事が完了したのは、昭和28(1953)年初頭のことでした。

 その後、駅前通りは小名浜へ通じる道路に計画変更されていきますが、昭和30年代初めまでの間、道路の両側に残った小太郎公園を含む一帯は、平和博覧会や臨時動物園、サーカスなどのイベント地として活用されます。

 こうした臨時的なイベントは別にして平市は遊具を備えた児童公園を経て、昭和32(1957)年5月には、ステージを備えた野外音楽堂を完成させました。その後、施設の老朽化、倒木の危険性により、国の中心市街地活性化広場公園整備事業」を活用してリニューアル、西公園にはイベントなどに使えるデッキステージ、ベンチなどの休憩施設、東公園には休憩施設を、それぞれ整備し、東西公園では一部樹木を植え替え、平成17(2005)年度に完成させました。

 公園には、筝曲(そうきょく)家・八橋検校(やつはしけんぎょう)の顕彰碑、衆議院議員・関内正一氏、常磐交通自動車創始者・野崎万蔵氏、好間炭礦設立者で衆議院議員の白井遠平氏の胸像が置かれています。(いずれも昭和30年代から40年代の建立で、現在は著名人などの像を建てることはできない)

 公園の広さは東西の公園を合わせても0.5ha。他の多くの都市公園と比べてもさほど大きくはありません。それはかつての計画だった「駅前広場にしては」という条件を付しての印象です。さて、この区画が駅前広場になるはずだった、という歴史を知る人はどの程度いるのでしょうか。

(いわき地域學学會 小宅幸一)

  その他の写真

■地図1  平市街周辺 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図)〕

3.	■地図1  平市街周辺 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図)〕

■地図2  江戸時代から引き継がれた平市街は東西の通りを基本として、南北、特に駅前からの道路網は乏しく 〔8,000分の1/昭和7年(1932)頃・原寸×0.87)

■地図2  江戸時代から引き継がれた平市街は東西の通りを基本として、南北、特に駅前からの道路網は乏しく 〔8,000分の1/昭和7年(1932)頃・原寸×0.87)

■地図4  戦争の空襲で焼け出された後に開設された30mの道幅は開設当時、「広すぎる」と評されたが、現在は自動車の往来が絶え間なく流れる道路へ 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

■地図4  戦争の空襲で焼け出された後に開設された30mの道幅は開設当時、「広すぎる」と評されたが、現在は自動車の往来が絶え間なく流れる道路へ 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

 ■写真1-1 駅移転計画は中止となり、道路延長で小名浜とを結ぶ道路へ変更 〔昭和36年(1961)4月 鈴木良治氏提供〕

 ■写真1-1 駅移転計画は中止となり、道路延長で小名浜とを結ぶ道路へ変更 〔昭和36年(1961)4月 鈴木良治氏提供〕

■写真1-2 駅前広場となる予定だった空地は小太郎公園(写真中央の樹木地)として整備 〔昭和63年(1988)8月 いわき市撮影〕

■写真1-2 駅前広場となる予定だった空地は小太郎公園(写真中央の樹木地)として整備 〔昭和63年(1988)8月 いわき市撮影〕

■写真1-3 写真中央に見えるのが「小太郎公園」 〔平成8年(1996) いわき市撮影〕

■写真1-3 写真中央に見えるのが「小太郎公園」 〔平成8年(1996) いわき市撮影〕

写真1-4  小太郎町付近の駅前通りに並ぶ高層ビル 〔令和3年(2021)8月 小宅幸一撮影〕

■写真1-4  小太郎町付近の駅前通りに並ぶ高層ビル 〔令和3年(2021)8月 小宅幸一撮影〕

写真2-1 小太郎公園を東側のいわき駅前大通りから見る(平成15年4月 いわき未来づくりセンター撮影)

■写真2-1 小太郎公園を東側のいわき駅前大通りから見る(平成15年4月 いわき未来づくりセンター撮影)

 ■写真2-2  小太郎町公園を西方に向かって見る(令和4年10月 小宅幸一撮影)

 ■写真2-2  小太郎町公園を西方に向かって見る(令和4年10月 小宅幸一撮影)

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