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『平字鎌田町、下川原、五色町』(令和5年8月23日市公式SNS投稿)

登録日:2023年8月23日

いわきの『今むがし』Vol.175

建設成ったばかりの“鎌田遊郭”が見える 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

1建設成ったばかりの“鎌田遊郭”が見える 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

 平城下の五町目、立町と行くとまもなく城下町特有の鍵型の道筋でたどる鎌田町にさしかかります。江戸時代の元禄10(1697)年には、家数38軒、男性84人、女性79人の計163人の街並みでした。江戸に送るための蔵や通行人や物資往来のチェックするための鎌田口留番所(くちとめばんしょ)があり、その先に平城下の出入口となる「惣木戸(そうきど)」が控え、明け六つ(午前6時頃)に開け、暮れ六つ(午後6時頃)に閉めるのが定めでした。さらに東方に折れると鎌田川(現夏井川)にさしかかりますが、左側には御仕置場(おしおきば)がありました。
 鎌田橋の近くには「首切り地蔵」とも呼ばれる「河原子地蔵堂」があります。元文3(1738)年9月、過酷な徴税に耐えかねて発生した百姓一揆(元文一揆)の代表者8人が鎌田河原で斬首(ざんしゅ)されたのを偲(しの)んで祀(まつ)ったものです。
 鎌田川には川水が少ない時に簡易な木橋がありましたが、ふだんは船渡場(ふなわたしば)があり、2艘を6人の船頭が交代でこぎ出していました。向こう岸は鎌田村でしたから「向鎌田(むかいかまた)」と呼び、鎌田町を「町鎌田」と呼んで区別していました。
 大雨になると船を出せないことから、鎌田町には木賃宿(きちんやど)や旅籠(はたご)が集まっていました。
 明治時代に入ると、明治10年代に鎌田橋が架橋されましたが、大雨などで何度か流失したことから、明治24(1891)年7月にはこれまでよりも頑丈な木橋が造られ、往来の機能を果たせるようになりました。しかし、木橋では大正時代末期から増え続ける自動車に対応しきれず、昭和6(1931)年には平土木監督署がコンクリート化の計画を立てますが、鍵型の道筋は自動車交通には不適であったことから、本町通りから一直線で夏井川を渡り、鎌田山を掘割して塩へ抜ける道路として計画され、昭和12(1937)年11月に完成しました。
 鎌田町は幹線道路から外れてしまいましたが、鎌田橋は残りました。

【鎌田遊郭】

 “鎌田遊郭”という言葉は正式な呼び名ではありません。“平遊郭”とも呼ばれましたが、これらも正式ではありません。江戸時代の“悪所”のイメージを払拭するとともに諸外国の非難をかわすため、女性に座敷を貸すという体裁の「貸座敷」という言葉を編み出したのですが、苦し紛れの法的用語でした。
 それまで、県内の郡山、福島、若松など、いわき地方でも湯本や植田、中之作にはこの種の施設は設置されていたのですが、平には設置されていませんでした。
 平町が公営で設置する契機となったのは、明治39(1906)年2月、新田町から発生した火事が、市街面積の3分2が焼け出された「平大火」となり、大きな被害を被ったことにありました。この際、平町は復興を図るため、平町所有財産として買収した土地を貸座敷業者に賃貸し、その収入をもって町歳入の増加を図ろうとしました。具体的には、小学校基本金を借り入れして貸座敷に当たる土地を買収したのです。当時の平町の年間予算は3万5,000円。賃貸料や営業税など年間1,500円近くの安定収入は欠くべからざるものでした。平町としては、貸座敷の誘致は必須ともいえる政策とみなされていました。
 場所の選定については議論百出しましたが、明治40(1907)年6月開会の平町議会において、“遊郭設置”の具体となる「土地賃貸規程ノ件」(字鎌田町の南域に位置する平町字五色町〔ごしきちょう〕・下川原の8区画うち1区画は治療院)の議案が提出され、可決されました。
 当時、設置場所は五色町や下川原にまたがる一角だったのですが、ほとんど人家がなく認知度が低かったことから“鎌田遊郭”の名が付けられたのです。
 “鎌田遊郭”(6軒)における娼妓の数は当初41人からスタートし、ピークの大正8(1919)年には56人の女性が働いていました。
昭和31(1956)年5月に「売春防止法」が公布され、昭和32(1957)年4月施行、さらに罰則規定は翌年4月施行となり、平遊郭では法施行を前に、最後の貸座敷が昭和32年12月に廃業して、“鎌田遊郭”は50年余におよぶ歴史を閉じました。

【夏井川改修】

 平市街に、特に鎌田市街に近接して流れる夏井川は、大雨の場合は被害にさらされることが常でした。特に大正11(1922)月2月の大雨時には夏井川沿岸に大きな被害をもたらしました。
 鎌田町においても川幅を広げ、護岸を築くことは長年の課題でした。たびたび改修の要望や請願が行政当局に提出されましたが、大きな課題が立ちはだかっていました。それは、拡幅するには人家の移転を伴うからです。このため、拡幅部分は東側の平鎌田に限り、昭和時代に入り買収が始まります。
 折から金融恐慌(昭和2年)、世界恐慌(昭和4年)を経て、日本経済は低迷し、農山村では身売りをするような状況を背景に、国は時局匡救(きょうきゅう)事業(失業対策事業)を打ち出し、昭和7(1932)年度、夏井川改修がその対象として決定しました。
  鎌田町河岸もその対象となり、鎌田町内の河川工事には、鎌田町住民も労役に就き進ちょくに大きな力となりました。護岸を高くするため、夏井川に接する鎌田町民も土地提供に協力しました。同時期、鎌田町の鍵型道路を避け、本町通りからの延長として一直線で架橋して鎌田山を貫く工事も始まり、一帯は大きな変貌を遂げる時期となりました。竣工は昭和9(1934)年度のこと。昭和10(1935)年7月、鎌田町地内の夏井川沿岸には、夏井川全体の時局匡救事業完成を記念して石碑が建てられました。
 なお、昭和61(1986)年に発生した「8.5集中豪雨」は夏井川左岸の平鎌田に大きな被害をもたらし、それまでなかった堤防が築かれる契機となりました。新しい鎌田橋もこの架け替えられました。(「鎌田橋」を参照) 

現在の鎌田町および周辺 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

2.現在の鎌田町および周辺 〔1.25,000地形図 平(平成18年更新) 国土地理院発行〕

 明治時代、旧新川と古川(現新川)の間は耕地整理事業により、農地区分が再編され、字名改称が行われました。平町(旧長橋村・旧拾五町目村)第一耕地整理事業および平町(旧町分村)第二耕地整理事業に伴う字名の改称は、明治41(1908)年12月開会の平町議会で提案・可決され、福島県へ申請しました。
 このうち、人家の密集した鎌田町以外の田んぼが広がっていた区域の、五反田の全部、堤ノ内、鎌田町、下川原のそれぞれの一部を「栄町」とする案としました
 しかし、提出した字名の変更申請は福島県当局から、「縁故(えんこ)ヲ有(ゆう)セザル改称ハ詮議(せんぎ)シ難(がた)キ」、つまりこれまでの地名と縁のない地名は認められないとされたのです。このため関係者と協議して、明治44 (1911)年1月の開会の町議会において、旧字名を一部生かして再度改称しました。このとき、「栄町」は「五色町(ごしきちょう)」へ変更しました。
 大正時代に入ると、第一次世界大戦(1914-17)前後の未曾有(みぞう)の経済活況、磐越東線の全通(大正6年)と平への追い風が続きました。
 これらを背景に、江戸時代に商業の中心であった一町目から五町目は一層にぎわいを見せました。五町目の東方、夏井川河畔の鎌田町の間まばらな人家でしかなかったのですが、大正時代になると市街化が進み、商店の連なるようになりました。このことから、大正8(1919)年8月開会の平町議会において、禰宜町と正月町にまたがる立町の一部を字六町目、正月町にまたがる禰宜町の一部を字七町目へ改称することを決めました。しかし、これは県の承認を得られず、以降は長い間、通称として使われざるを得ませんでした。古い地図をみると、六町(丁)目、七町(丁)目の地名が見えます。
 歳月を経て、土地区画整理事業によって平成10(1998)年、正式字名として「六町目」が成立しました。このほかにも「鎌田町」が成立しました。新たな地名には「字」は付けられませんでした。土地区画整理事業区域以外の「字鎌田町」はそのまま残りました。したがって、「鎌田町」と「字鎌田町」が併存することになったのです。

■図 平駅前第二土地区画整理事業に伴う字名変更

■図 平駅前第二土地区画整理事業に伴う字名変更

 景観的に見ていくと、本町通りの延長上にある通りは新しい建物が多いのですが、鎌田橋のある字鎌田町では、新旧の家屋が混在しているのがわかります。
 字鎌田町の南域である字下川原と字五色町にまたがっていた“鎌田遊郭”。廃止されてから半世紀以上を過ぎ、跡地を含め一帯は一般宅地あるいは国道6号と化して、その面影は皆無(かいむ)です。


(いわき地域學学會 小宅幸一)

  その他の写真

■地図2  “鎌田遊郭”と鎌田町市街は少し離れていたが、この間の市街化が成った 〔1.8,000 平市市街図 昭和7年頃〕

3.■地図2  平町全図(8,000分の1・原寸(8千分の1×0.87、昭和7年頃、いわき総合図書館所蔵)

■写真1-1   平遊郭の大門 〔大正時代 郵便絵はがき「平名所」 林宏樹氏提供〕

4.■写真1-1  平・鎌田遊郭(大正時代、郵便絵はがき、林宏樹氏所蔵)

■写真3-1  平字鎌田町の夏井川護岸建設 〔昭和7(1932)年頃 酒井貢氏提供〕

5.■写真3-1  平夏井川・平鎌田町の堤防建設(昭和7年頃、酒井貢氏提供)

■写真3-2  平字鎌田町の夏井川護岸が完成 〔昭和10(1935)年頃 酒井貢氏提供〕

6.■写真3-2  夏井川の護岸工事が完成(昭和10年頃 酒井貢氏提供)

■写真1-2  “鎌田遊郭”のあったあたり 国道399号(旧国道6号)が横切り、周辺に住宅が林立して、面影はまったくない。 〔令和4(2022)年10月 小宅幸一撮影〕

7.■写真1-2  国道399号の五色町交差点(令和4年10月 小宅幸一撮影)

■写真2-1  懐かしい景観を見せる鎌田橋手前 〔昭和63(1988)年9月 いわき民報社撮影〕

8.■写真2-1  平字鎌田町(昭和63年9月、いわき民報社撮影)

■写真2-2 建物は新しくなったが、失われたかつての通りの面影 通りの先に人道橋の鎌田橋が見える。 〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

9.■写真2-2  平字鎌田町を鎌田橋に向かって見る(令和4年10月 小宅幸一撮影)

■写真3-3  昭和61年の「8.5集中豪雨」時、大きな災害からかろうじて守った鎌田町の夏井川護岸 〔昭和61(1986)年8月 酒井貢氏提供〕

10.■写真3-3  平夏井川(昭和61年8月5日、酒井貢氏提供)

■写真3-4 鎌田人道橋から見る夏井川と鎌田町 〔令和4年10月 小宅幸一撮影〕

11.■写真3-4  夏井川と右岸堤防を鎌田人道橋から上流に向かって見る(令和4年10月 小宅幸一撮影)

夏井川から見る平鎌田町(平成8年、いわき市撮影)

12.夏井川から見る平鎌田町(平成8年、いわき市撮影)

平字鎌田町(昭和63年9月、いわき民報社撮影)

13.平字鎌田町(昭和63年9月、いわき民報社撮影)

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電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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