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『四倉港』(令和5年5月24日市公式SNS投稿) 

登録日:2023年5月24日

いわきの『今むがし』Vol.169

四倉港  岩礁と砂浜の境目が自然の港。 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

四倉港  岩礁と砂浜の境目が自然の港。 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図) 国土地理院発行〕

 四倉市街地と常磐線の間に横たわる小さな単独峰(標高40m弱)があります。文正(ぶんせい)年間(146667)から岩城家の重臣・四倉家の本拠地があったとされる四倉城跡で、麓には町場が設定され、これが四倉市街の始まりと推定されます。
 四倉市街は海岸部、磯浜と砂浜の境まで拡がり、この部分が漁船の溜まり場となりました。
 四倉海岸を概観すると、北の海岸から続く磯浜が尽きた四倉から南方は沼之内まで別称“三里ケ浜”と呼ばれる約12kmの砂浜海岸が続いており、四倉海岸まで北上すると、一転して磯浜になります。
 江戸時代になると浜街道の宿駅として指定され、漁業の活況と相まって発展しました。安政2(1855)年の村差出(むらさしだし)明細帳では、漁猟船20隻、船持ち12人と記されています。当時は小舟が大半で、磯浜では魚を積んだ舟を陸揚げできなかったことから砂浜に引き揚げられており、大型船は湾状になっていた北の江之網から出入りしていました。
 明治時代に入ると、宿場機能は停滞し、漁業に依存しなければならなりませんでした。しかし、動力船が開発される以前の大正時代まで、カツオの漁場は四倉浜の沖合8km内外の場所で、そこで釣った魚を沖の漁船から小舟で波打ち際まで寄せ、漁夫が海中に入り、魚を籠に入れて陸揚げしました。浜では魚は一山(ひとボッチと呼ばれた)ごとに重ねられ売られていました。
 大正時代後期、いわき地方において発動機付き漁船が普及すると、四倉では2030隻を保有。『福島県石城郡水産誌』では「本町ニ於()ケル漁夫ノ数ハ約壱(いっ)千名(統計的には1,025人)ニシテ其内(そのうち)三百名は、千葉、茨城方面ヨリ雇(やとい)入レ、其他(そのた)は土地着の漁夫トス」と、多くの人が交流しながら漁業を営んでいたことがわかります。
 同書では、ほかにも兼業の漁夫は200人、採藻業では兼業が57(専業0)、そのほかカツオ節など漁業関係の製造業では専業243人、同兼業が119人と、多くの人が漁業に従事していたことがわかります。
 昭和3(1928)8月刊の『磐城海岸海水浴場案内』のうち、四倉をみると、「自然に恵まれたる漁師等が、さながら男性的そのものの如(ごと)き真黒な赤銅(しゃくどう)色(いろ)の体を光らせつつ手綱片手に真裸の儘(まま)、掛声勇ましく小舟に打乗り漁に出かける等、将亦(はたまた)、夕に及んで此(こ)れらの漁夫が一日の獲物を舟に積み込み元気ある原始人の唄(うた)(うた)ふ歌の如きを声高らかに唄いつつ上陸し、ピカピカ光る勢(いきおい)のよき魚を数えるときなど、実に田舎の浜辺ならでは見能(みあた)はざる光景である」と、漁師が砂浜に魚を揚げる様子を伝えています。
 漁業が発展すると、カツオ釣り漁船の大型化対応、さらに漁業の沖合化、遠洋化の基礎づくりには港整備が不可欠な状況となり、町当局も受け皿となる早期の漁港整備を渇望しました。
 これが功を奏して、大正2(1913)年の四倉町魚市場建設を経て、海浜部分から北へ200mの岩礁を深さ2.5m浚渫(しゅんせつ)するとともに、防波堤185mを建設する計画で大正5(1916)年から県の補助金を得て、岩礁地帯を利用した四倉漁港第一港の船溜り建設に着手することができました。これが築港建設の第一歩となり、20トン級の漁船が入港可能な港が、大正15(1926)年に完成しました。

四倉港 南方に港と防潮堤が新たに建設。海岸部には新しい国道6号が通じた。 〔1.25,000いわき都市計画図 昭和42年測量 いわき市発行〕

四倉港 南方に港と防潮堤が新たに建設。海岸部には新しい国道6号が通じた。 〔1.25,000いわき都市計画図 昭和42年測量 いわき市発行〕

 四倉港は昭和5(1930)5月に県支弁港湾に編入され、昭和7(1932)年度から国庫補助により断続的に整備されました。第二港の船溜り、沖防波堤、航路の水深増加、魚市場や加工場などを建設するための埋立地造成などの施設整備が進む一方、激浪ために流砂で埋もれた第一港湾内の浚渫(しゅんせつ)と港口を南側から東側へ付け替える工事が進められ、昭和17(1942)度に完了をみました。
 しかし、昭和20年代からは遠洋漁業のため漁船の大型化が進み、遠洋の北洋サケ・マス漁業基地の一つとして栄えるにつれて、これら漁船が出入りできる築港が必要とされます。四倉港は昭和26(1951)7月に「漁港漁場整備法」に基づいて、第三種漁港(利用範囲が全国的なもの)に指定され、整備が始まります。
 また、四倉港は長い間、道路が行き止まりの場所に位置していたのですが、昭和31(1956)5月に四倉港から江之網隧道までの海岸道路が開通、さらに昭和38(1963)年には波立海岸先まで舗装開通(昭和54年に4車線化)し、国道6号として整備されると、交通の利便性が高まり、港の利用価値も上がっていきます。
 このような漁業環境を背景に、四倉港の増強が検討されました。種々の調査の結果、国道に面し、これまでの第二船溜まり漁港の南に隣接した個所を埋め立てて、港湾道路を入れて漁業関係施設を配置するとともにその東側に物揚場、それに沖防波堤と南防波堤を建設し、その間を浚渫して300トン級の漁船が出入りできる築港を、国補助を得て県事業により昭和38(1963)年度から着工するに至りました。(築港により、四倉海水浴場は南防波堤の南方、境川右岸河口域南へ移動)
 この基本工事は、昭和47(1962)年度に完成。埋立地には、昭和49(1974)年に魚市場を建設したのを皮切りに製氷冷蔵施設、油基地、加工場、網倉(後に「道の駅よつくら港」へ発展)などが順次整備されていきました。
 この時期、遠洋漁業の北洋サケ・マス漁業やサンマ、イワシ漁などの漁船基地として四倉港は最盛期を迎えます。
 しかし、四倉港は南側の海流が強く、湾内への砂の流入が著しく堆砂の除去という絶えざる課題と直面しなければなりませんでした。整備では深水5mとしましたが、たちまちこれ以下になり、大型船の入港を妨げる弊害が生じたのです。
 また、昭和51(1976)年暮、世界各国が200海里(カイリ)漁業専管水域を設定するという「200海里時代」へ突入して以降、次第に漁船は北洋から締め出されて遠洋の北洋漁業は撤退していきます。
 以後、遠洋・沖合漁業は衰退し、沿岸漁業へ転換していかざるを得なくなります。
 漁業衰退を打開するため、地元住民は近接する物産館「四倉ふれあい館」(→道の駅「よつくら港」)の整備。この住民活動と歩調を合わせて、平成9(1997)年度から18(2006)年度にかけては、県施行により「四倉漁港環境整備事業」が進められ、植栽を含む公園、多目的広場(海浜ふれあい広場)、駐車場、あづま屋、道路などが整備されました。
 こうしたなか、漁港の位置づけも平成14(2002)3月に第三種漁港から第二種漁港(利用範囲が第一種より広く、第三種に属さないもの)へ変更されています。
 四倉港の特徴としてホッキ貝採取があります。四倉漁港や大浦浜では、明治時代から昭和時代にかけて、ホッキ貝採取の漁業権を持ち、稼働していました。しかし、昭和27(1952)年を最後に水揚げは途絶えてしまいました。これを復活させようと四倉の漁業関係者は尽力。昭和63(1988)年には漁ができるまでに採取、四倉漁業協同組合ホッキ組合が発足しました。現在毎年、道の駅「よつくら港」で「ホッキまつり」を開催しています。
 四倉港の機能は遠洋漁業から沿岸漁業へ縮小しその取り巻く環境も大きく変化しましたが、独自の沿岸資源の保護や「四倉ふれあい館」から「道の駅よつくら港」への機能アップ、さらにはこれら機能の融合など、漁業の荒波に対応した関係者の努力が続きます。

(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

四倉港  砂浜海岸の沖に防潮堤が築かれる。 〔1.50,000地形図 平(昭和8年要部修正測図) 国土地理院発行〕

四倉港  砂浜海岸の沖に防潮堤が築かれる。 〔1.50,000地形図 平(昭和8年要部修正測図) 国土地理院発行〕

四倉名所の千鳥ケ公園から見る四倉港 〔大正時代 郵便絵はがき〕

四倉名所の千鳥ケ公園から見る四倉港 〔大正時代 郵便絵はがき〕

四倉港 堆積を防ぐため、防潮堤が延長された。〔1.25,000地形図 四倉(平成18年更新) 国土地理院発行〕

四倉港 堆積を防ぐため、防潮堤が延長された。〔1.25,000地形図 四倉(平成18年更新) 国土地理院発行〕

四倉港を西側の高台から見る〔昭和30年代 小泉屋文庫提供〕

四倉港を西側の高台から見る〔昭和30年代 小泉屋文庫提供〕

四倉港を西方上空から見る〔昭和50年代初期 いわき市撮影〕

四倉港を西方上空から見る〔昭和50年代初期 いわき市撮影〕

四倉港を西方上空から見る〔平成31(2019)年3月 いわき市撮影〕

四倉港を西方上空から見る〔平成26(2014)年12月 いわき市撮影〕

四倉港を東方上空から見る〔昭和30年代 四倉漁業協同組合提供〕

四倉港を東方上空から見る〔昭和30年代 四倉漁業協同組合提供〕

四倉港を西方上空から見る〔平成26(2014)年12月 いわき市撮影〕

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四倉漁港の豊漁祭(平成4年7月、いわき市撮影)

四倉漁港の豊漁祭(平成4年7月、いわき市撮影)

四倉魚市場(昭和42年 いわき民報社撮影)

四倉魚市場(昭和42年 いわき民報社撮影)

四倉港(昭和42年、いわき民報社撮影)

四倉港(昭和42年、いわき民報社撮影)

四倉港・タライ乗り競争(昭和43年7月、いわき市撮影)

四倉港・タライ乗り競争(昭和43年7月、いわき市撮影)

四倉港・北洋サケマス船団の出航(昭和43年4月、いわき市撮影)

四倉港・北洋サケマス船団の出航(昭和43年4月、いわき市撮影)

四倉港のホッキ貝水揚げが好調(平成10年6月、いわき民報社撮影)

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四倉朝市(平成8年6月、いわき市撮影)

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道の駅よつくら港ホッキ貝まつり(令和3年6月 いわきジャーナル撮影)

道の駅よつくら港ホッキ貝まつり(令和3年6月 いわきジャーナル撮影)

万漁に入れられた、水揚げされたサンマ・四倉港(昭和30年代、志賀親氏撮影)

万漁に入れられた、水揚げされたサンマ・四倉港(昭和30年代、志賀親氏撮影)

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