コンテンツにジャンプ

『四倉海岸』(平成26年9月17日市公式Facebook投稿)

登録日:2014年9月17日

【いわきの『今むがし』 Vol.6】

【四倉海岸〔大正時代 郵便絵はがき 清光堂支店発行〕】

大正時代の四倉海岸

 波立海岸から四倉・蟹洗海岸、それに続く四倉漁港までは磯浜になっていましたが、ここから南方は砂浜海岸が広がっています。この磯浜から砂浜に転じるあたりは、古くから海水浴場として知られていました。
 海水浴は、明治時代初期には「塩湯治」と呼ばれ、脚気治療に効果があると推奨され、また外国では身心を鍛えるために行われていることもあって、日本全国に広がりました。
 明治30年(1897年)2月に平(現いわき)駅まで、同年8月には久ノ浜駅まで、日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が開通して、東京近辺で行われていた海水浴の情報が具体的に伝わり、いわき地方の遠浅の海岸が海水浴の適地として注目されるようになりました。
 特に、四倉海岸は市街に近く便利であることから、平町の医師が推奨。平町や四倉町の有志が協力して、明治36年(1903年)7月には「四倉海水浴場」を、写真に見える海気館の前に設定しました。開設に際しては、近隣町村の有力者や青年会などによる「四倉海水浴友倶楽部」が結成。相撲大会や遊覧船の催しなどを実施して海水浴場PRに努めました。
 近くの潮声館も海に面しており、大正元年(1912年)8月11日付の『いはらき』新聞は「海水浴旅館として此(こ)の二軒の右に出(い)づ(ず)るものなく、浴客常に満員の状を呈し居(お)れり。何(いず)れも眺望に富み、狂乱(きょうらん)怒涛(どとう)を階下に観て、遠く塩屋埼灯台は手を延ばせば届くの思ひ(い)あり。魚類の新鮮なるは言は(わ)ずもがな」と報じています。

【山上から見る四倉海水浴場〔大正時代 郵便絵はがき 佐藤写真館発行〕】

大正時代の四倉海水浴場

 四倉市街の北部は標高数十mの丘陵地が海岸まで迫り出していて、海食崖となって太平洋になだれ込んでいます。
 現在のように木々が高く茂っていない時代、この高台には「四倉公園」や「千鳥ケ岡公園」が設けられ、四倉市街や四倉海岸を一望することができました。
 昭和3年(1928年)8月刊の『磐城海岸海水浴場案内』を見ると、「古くより海水浴場として人に知られ、真夏の頃(ころ)には多くの避暑客押しかけ、冬の淋(さび)しさに対比して實(じつ)に祭(まつり)の如(ごと)き賑(にぎわい)を呈(ごと)し、軒並(のきなみ)の漁師町も、にわかに蘇生(そせい)したるが如き観あり。浜は一帯に金(きん)砂(さ)銀(ぎん)砂(さ)をもて敷き浄(きよ)め、前は渺々(びょうびょう)たる太平に面し、遠く南方の濱(はま)辺(べ)には白馬の躍(おど)るが如き激浪(げきろう)美しくして、遠来(えんらい)の人を酔(よ)は(わ)しむ」と美文調で紹介されています。
 さて、写真を仔細に見ますと、撮影しているのは、千鳥ケ岡公園あるいは、その付近からでしょうか。
 手前に並ぶのは今でいう「海の家」でしょう。砂浜には伝馬船が見え、人だかりのある場所には相撲場が造られ、熱戦が繰り広げられているようです。
 絵はがきは、手前の松の枝を配し、単調になりがちな画面にアクセントを施し、バランスを保とうと工夫しています。
 この場所は、昭和7年(1932年)から始まった、四倉漁港の築港建設によって、南側に移行されることになります。

【四倉海水浴場の水着 〔昭和時代初期 郵便絵はがき 高木商店発行〕】

昭和時代初期の四倉海水浴場

 女性の場合、当初は背中やおへそなどが見えないことが重要な要素でした。なにしろ、女性が肌を露出することなど、言語道断のスタイルだったのですから、いくら海水浴場であっても、当時のタブーは守らなければなりませんでした。
 水着は、肌が透けないサージ(糸が交互に織られた、綾織りで作られた服地)やフランネル・アルパカ(らくだの毛を荒く織った、柔らかくて厚い毛織物)などの生地で作られており、露出する部分は膝下、肘先のみ。肘丈の長さの服と膝まで覆う上下の海水着でした。
 今考えると、とても解放された気分とはならなそうですね。
 明治時代後期になると、腕と足の露出部分が大きなデザインへ変化していきます。写真に見える水着は、このスタイルに近いように見えます。
 昭和時代に入ると、短いスカートの付いた水着が出回り、さらにスカートを省略して、上下を一体化して縫製し、見頃(袖、襟などを除いた、体の前後を覆う部分)から裁ち落としして、幅の広い肩紐を持ったタンクスーツ型が登場して、学生水着に受け継がれていきます。
 さて、いわき地方で珍しい水着姿の絵はがき。顔を見せていないのは、なぜでしょうか。
 それは絵はがきの持つ情報力を考えると理解できるでしょう。観光PRはもちろん、交通PR、企業案内、人物紹介、教材、災害、戦争などさまざまな情報を幅広く、絵はがきが情報手段として使われていたのです。そう、ネット情報の伝達と同じようなインパクトをもって当時の人にやり取りされていました。顔が出たら、たちまち多くの人に判ってしまう。それを避けたかったのでしょうね。

【四倉海水浴場の男性〔昭和時代初期 郵便絵はがき 高木商店発行〕】

昭和時代初期の四倉海水浴場

 男性の水着姿が見えます。
 ちょうど、レスリングスタイルのようですが、当時の男性の水着としては珍しかったのでしょうかね。それよりも、組みの絵はがきとはいえ、なぜこの1枚が絵はがきに採用されたのでしょうか。この男性が“ぬぼー”っと、立っていることで、この絵はがきを見る視線は大きく変わってくるように思えるのですが…。皆さん、どう思いますか。あるいは、撮影者の縁者だったりして…。
 いずれにしても、“彼”以外、海水浴を楽しむ人々は、さまざまなスタイルで夏を楽しんでいるようです。
 それから、今の四倉海水浴場よりも北側にあったせいか、磯浜になっていて、岩があちこちに点在しているのが見えます。
 と、男性から視線をそらしてみると、岩の上に柱のようなものが立っているのに気づきます。ただ立てたわけではなさそうです。何のためなのか、気になりだしました。今なら注意を喚起する拡声器のため、とかなんでしょうが何も括り付けてはなさそうです。
 じっくり見た後、もう一度何気なく2枚目の絵はがきを見ていたところ、海の中から柱が2本見えるではありませんか。
 …ひょっとすると、満潮になったとき磯が見えなくなって危ないので、注意するように、という警告のための表示棒なのかもしれないと…。
 そういえば昔、岩の下では砂がえぐれていて、波にさらわれそうになって腕や足を引っ掻いたのを思い出しました。絶えず波が寄せる場所ならば、どうやって固定したのかについても、気になるところです。
 さて、どんなもんでしょうか。
 謎だらけの1枚ではあります。

【四倉海岸〔平成26年(2014年)9月 いわき市撮影〕】

現在の四倉海岸

 いわき地方を貫通する国道6号の改修は、昭和11年(1936年)に新設となった「平神橋」の建設からスタートしました。改修に際しては、これまでの江戸時代のルートをなぞった、通称“浜街道”とはほぼ異なって、市街などを迂回したルートで建設されることになりました。旧国道沿いの市街では、沿線に人家が密集し、さらに江戸時代の名残である屈曲部分もあって、容易に拡幅できなかったからです。
 しかし、太平洋戦争終結後に計画された植田-湯本、さらには平市街以北については、既成の道路とはまったく別なルートに設定されました。戦後の場合、円滑な自動車交通を想定しており、これまでとは考え方を変えたからです。
 四倉町の場合は、山に向かうルートと海沿いのルートが考えられましたが、漁港に接して、輸送に便利な海沿いが選ばれました。この場合、海岸の護岸と四倉市街の北側にある海食崖を通るため、トンネルを二つ掘るという難工事が控えていましたが、完成すれば蟹洗海岸や波立海岸など、観光ルートとして集客できるとの期待がありました。
 昭和30年(1955年)の国道建設(昭和36年に久之浜町まで完成)によって、四倉海水浴場はさらに南方の仲町海岸付近へ移転されました。当初は砂浜域が小さかったのですが、沖防波堤が建設されたこともあって、砂がたまるようになり、現在は広い砂浜を持った海水浴場となっています。
 さて、海気館の前に広がっていたかつての海水浴場。浜は、第一、第二の四倉築港建設、さらには国道が開通した結果、すっかり面影を変えました。海気館も平成15年(2003年)に取り壊され、当時と比べられるのは海食崖となって海になだれ込んでいた山の形状だけです。
 最初の写真とこの写真はほぼ同じところですが、皆さんは何を感じますでしょうか。

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?