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『錦町大字中田(⇒錦町・中田地区)』(令和4年12月21日市公式SNS投稿)

登録日:2022年12月20日

いわきの『今むがし』Vol.159

錦町中田地区中心部 工場群の南西部が拡張 〔昭和30年代半ば 長谷川達雄氏撮影〕

  明治22(1889)4月に施行された「市制・町村制」(明治の大合併)では300500戸で自治体を設ける目的で全国的な合併が推進され、市内南部を流れる鮫川と蛭田川(びんだがわ)の間の地域では、4か村が対象となりました。村名は中世において一帯の郷村としての呼称が「錦庄」とされていたことにちなみ、「錦村」とされました。
 
村域の大半が低地で、村役場や小学校などの公共施設は、集落が密集していた旧大倉村字大島に置かれました。旧中田村は錦村の南域に位置し、蛭田川に接しており、村の中心は浜街道が通じていた安良町(あらまち)の集落でした。
 その西方には、微高地の帯が横たわっていました。大昔、鮫川が乱れ川となってさまざまな流路をつくっていましたが、川底などが隆起して浜堤が形成された跡とみられます。礫(れき)や細かい砂が堆積していて水田の栽培には不向きで、畑や一部果樹園、荒地、マツ林などで占められていました。住民はその一帯をキツネなどが棲()む「中田っ原(ぱら)」と呼び、夜ともなるとキツネの嫁入りのたとえで言われる狐火が人を騙(だま)す、とささやかれ近づきませんでした。
 この微高地が着目されたのが、昭和時代初期でした。地域の政治・財界の重鎮・金成通氏がここに工場を誘致。昭和10(1935)6月、錦村大字中田字落合に昭和人絹(株)錦工場が操業を開始しました。操業当初の敷地面積は微高地の西半分、約10万坪(約33haという広さでした。
 工場進出は政治・経済、教育、労働など、純農村だった地域社会に大きな影響をもたらしました。急速に工場町として発展するようになると、村の中心は大字大倉から同中田に移行していきます。
 人口統計でみると、錦村の人口は昭和5(1930)年には1,069198世帯)でしたが、昭和10(1935)年には3,406502世帯)へ急増、錦村の税収も昭和9(1934)年に29,779円であったものが、昭和13(1938)年には93,668円へ急増しました。昭和15(1940)4月には錦村は町制を敷きました。この時点における人口は7,386人でした。
 鉄道を挟んで東側には、従業員を受け入れるための職工寄宿舎、病院、社宅などが相次いで建設されました。また、病院や映画館、郵便局なども設置され、市街地へ大きく変容していきました。
 その後、昭和人絹(株)は、呉羽紡績(株)、呉羽化学工業(株)(現(株)クレハ)と資本替えされ、この過程で西方へ工場が増設され、敷地は主要地方道いわき-日立線まで達しています。
 
(株)クレハの場合、小名浜地区に存する工場のような複雑多彩な資本系列やその変化はなく、自らの力で成長し、また系列会社の育成に努め、企業城下町として一つの系列で工業集積を創りあげたものでした。 

左上 昭和47年(1972)に国道6号常磐バイパスが開通。また、呉羽化学工業錦工場は西方に大きく拡張 〔昭和50年代半ば いわき市撮影〕
右上 国道6号と同バイパスの間では、無秩序に市街が拡大し、土地区画整理事業が計画 〔昭和55年(1980)5月 いわき市撮影〕
左下 写真左側の産業道路は国道289号に昇格〔平成8年(1996)10月  いわき市撮影〕
右下 勿来錦第一土地区画整理事業が写真中央右側で進行中  平成23年(2011)3月に発生した東日本大震災で被災した錦町須賀住民のために、災害公営住宅「市営錦団地」や須賀防災集団移転促進事業で移転した住宅敷地が配置された。〔平成26年(2014)12月 いわき市撮影〕

  昭和30(1955)4月、錦、植田、勿来の3町と他2村が合併して勿来市が誕生しました。この際に、新しい行政名の付け方が問題となりました。最終的に統一がとれず、旧5町村が別個に付すことになりました。
 旧錦町と旧山田村では、旧大字を外す方針が採られたことから、大字中田が外され、「勿来市錦町字◇◇」となりました。このため、「中田」という地名はこれを機に失われました。(以後、「中田地区」と表記)
 昭和29(1954)2月、微高地東の集落に沿って新しい国道が建設されると、道路東側の低地に広がっていた水田を埋め立てて住宅が無秩序に建てられていく状況となっていきます。
 背景には、高度経済成長に伴い国民の物資的な豊かさが飛躍的に向上し、持ち家所有が現実のものとなったことが挙げられます。しかし、水田の農道を幾分拡幅したような道路を急造するのがやっとで、救急車や消防車が入れないばかりか、水道管の埋設も浅く、細長い本管であったため、消火栓や生活雑排水の下水管も埋設できないほどでした。
 このため、昭和41(1966)10月には錦第一土地区画整理事業の整理組合が設立され、良好な市街地整備をめざしました。ところが、この区域の中央を南北に国道6号常磐バイパスの敷設計画が進められ、バイパスにより町が二分されるうえに減歩率が高くなり、苦労して購入した家屋敷地が減らさせる、と反対が相次ぎましだ。
 国道6号常磐バイパスの勿来町四沢-佐糠町が開通する昭和47(1972)年の頃には、事業が中断状態となっていきます。
 事態が変わったのは、鮫川水系の二級河川・中田川の流路変更問題でした。河川域が狭いうえに屈曲が多く、都市化が進むにつれて大雨のたびに流域は水害に見舞われていたことから、河川の付け替える必要が要請されたのです。しかし、この土地区画整理事業のなかへ河川改修を取り込む方法について、河道ルートを大きく変えることとしたこともあって容易にまとまらず、また区域外の下流においても反対者があって事業は進ちょくしませんでした。
 この苦境を打開するため、新たに昭和61(1986)1月、「新中田川河川改修対策懇談会」が結成されました。協議は平成3(1991)年まで継続的に重ねられ、ようやく合意に達し、平成310月には基本計画の見直しに着手しました。
 土地区画整理事業の対象事業区域としては、土地区画整理事業区域103.9ha全域を施行するのは困難として、市道川部・錦線から北域を第一工区、南域を第二工区に分け、第一工区から事業着手することとなりました。また、この時点までは組合施行による土地区画整理事業をめざしていましたが、河川改修の公共事業施工や国道6号常磐バイパスとの接続など、多くの課題がひかえていることから、平成4(1992)8月、「中田地区区画整理事業推進準備会」から、施行主体を「組合施行」から「市施行」に変更してほしいとの陳情書が提出され、市は国・県と協議。この結果、「市施行」に変更されました。「勿来錦第一土地区画整理事業」と改称した事業は、これまで検討してきた計画を基本として平成7(1995)11月に都市計画決定(市街化区域に編入。施行区域面積64.2haされ、現在、年次計画で施行中です。
 事業進捗と相まって錦町の中田地区は、大きく変貌しようとしています。
            
(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

中田村の絵地図(一部)  写真と同じ地図上部が西で、微高地にいくもの塚が見え、水利が可能な微高地東縁に集落が発生した。 〔江戸時代 『中田村絵図』 鷺孝行氏提供〕

 微高地は畑や果樹園、荒地の土地利用で、北西部には隔離病舎、墓地が配置 〔1.50,000地形図 平(明治41年測図)  国土地理院発行〕

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 呉羽紡績株式会社錦工場の糸繰り作業場で多くの助成が働く(昭和14年頃、郵便絵はがき 昭和人絹(株)錦工場発行)

呉羽紡績株式会社錦工場の糸繰り作業場で多くの助成が働く(昭和14年頃、郵便絵はがき 昭和人絹(株)錦工場発行)

 昭和人絹(株)錦工場 寄宿舎設けられ、女子青年学校が開校(昭和10年頃、郵便絵はがき)

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 中田原果樹園(明治時代末期)

7 大津波で被災した須賀集落(平成23年3月19日、いわき市撮影)

 明治22年(1889)4月に施行された「明治の大合併」で誕生した錦村を構成した旧村々

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  昭和47年(1972)に国道6号常磐バイパスが開通。また、呉羽化学工業錦工場は西方に大きく拡張 〔昭和50年代半ば いわき市撮影〕

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国道6号と同バイパスの間では、無秩序に市街が拡大し、土地区画整理事業が計画 〔昭和55年(1980)5月 いわき市撮影〕

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 写真左側の産業道路は国道289号に昇格〔平成8年(1996)10月  いわき市撮影〕

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 勿来錦第一土地区画整理事業が写真中央右側で進行中  平成23年(2011)3月に発生した東日本大震災で被災した錦町須賀住民のために、災害公営住宅「市営錦団地」や須賀防災集団移転促進事業で移転した住宅敷地が配置された。〔平成26年(2014)12月 いわき市撮影〕

12 熊野神社祭礼前日の勅使童児が精進潔斎のため須賀海岸へ(平成29年7月、いわき市撮影)

 水田の多くは工場や住宅地へ 〔1.50,000地形図 小名浜(平成19年修正) 国土地理院発行〕

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総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

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