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『錦町大島』(令和2年3月11日市公式Facebook投稿)

更新日:2020年3月11日

いわきの『今むがし』Vol.135

上 錦町大島(上町)から南方(下町)を見る〔昭和14(1939)年、磐城国道事務所提供〕
中 錦町大島(上町)から南方(下町)を見る〔平成13(2001)年3月、おやけこういち氏撮影〕
下 自転車が走るのは旧道路。遠方に見える旧道から本線に入る自動車が見える。〔令和2(2020)年1月、おやけこういち氏撮影〕

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 今回は錦町大島集落の変遷について解説します。
 大島は江戸時代、浜街道に沿って帯状の集落を形成し、鮫川を挟んだ宿駅・植田に相対する船津集落として機能しました。
 山間部の道路が整備されていなかった時代、鮫川の船運を利用して上流からイカダで流された木材や藍玉などが浜街道に接する大島で陸揚げされ、これを取り扱う商家などが連なっていました。
 植田宿ほどの賑やかさはなかったものの、鮫川べりから浜街道沿いに、鮫川に近い場所から上町、中町、下町と人家が立ち並んでいました。『岩城道中記』には、大島について「民家壱丁半程(約150m)」と記述されています。街道沿いで、かつ物資の集散地でもあったことから、明治時代から昭和時代にかけて、冬と夏には「市」が開かれ、小規模ながら商業地としてにぎわいました。
 明治22(1889)年に実施された「明治の大合併」で錦村の一部となり、村役場が大島に置かれました。
 大島の繁栄は、通運の一大変革となる日本鉄道磐城線(現JR常磐線)が明治30 (1897)年2月に開通するまで続きました。
 河岸集落の多くは船運の物貨が減少したり、架橋により通過地点と化したりして、衰退を余儀なくされたのですが、大島集落は幹線道路に面していたので、壊滅的な状態に陥ることはありませんでした。
 大島は昭和10(1935)年前後に大きな転換期を迎えます。
昭和14(1939)年7月、国道6号に新しいコンクリート造りの鮫川橋が竣工しました。この工事からは、思わぬ余録が生まれました。工事費の予算余剰が生じたため、橋に続く植田町本町の600m区間、錦村大島の290m区間で、それぞれコンクリート舗装を実施しました。これは、当時としては画期的な措置でした。
 もう一つは、昭和9(1934)年11月、大島の南方の中田地区に昭和人絹(株)錦工場が進出して急速に工場町として発展したため、村の中心が中田地区に移行していったことです。
 中田地区を中心に人口が急増し、錦村が町制を敷いて「錦町」となったのは、昭和15(1940)年4月1日でした。 

上 錦町大島(上町)から北方の新鮫川橋建設を見る〔昭和13(1938)年、磐城国道事務所提供〕
中 錦町大島(上町)から北方(鮫川橋)を見る〔平成17(2005)年12月、おやけこういち氏撮影〕
下 自転車が走るのは旧道路〔令和2(2020)年1月、おやけこういち氏撮影〕

2 昭和人絹(株)工場(現(株)クレハいわき工場)が中田地区に進出し、町の中心が大島地区から中田地区に移ったため、錦町の庁舎改築計画に影響を及ぼしました
錦町は昭和27、28(1952、53)年度の2か年計画で庁舎を改築し、その場所を新しく敷設予定の国道沿いとなる中田地区(現錦中学校の北西側)に位置づけました。しかし大島側から反対意見があがったため、実現しませんでした。
 この問題は錦町ほか植田町、勿来町などとの合併により勿来市が誕生したとき、合併条件となった「市庁舎建設の位置」にも影響を及ぼすことになります。
 すなわち、植田町は合併条件として、かつて錦町の中田寄りに庁舎の位置が決定しそうになった前例を踏まえ、合併後に建設する予定の市庁舎について錦町地内と譲歩する条件として、“市庁舎の位置はできる限り植田町に寄った錦町地内に”と意見し、これが了承されることになりました。
 昭和30(1955)年4月に市制施行したものの、合併条件である新市庁舎の位置をめぐって、具体的な場所選定は難航しましたが、大島地内は国道に面してまとまった敷地が確保できないため、当時は大島と隣接し、旧浜街道と国道が分岐する上川田(現大島1番地)が選定されました。昭和32(1957)年6月(竣工は昭和35(1960)年2月)のことでした。
 昭和30年代になると、大島は自動車の急増にともなう交通渋滞で悩まされますが、昭和47(1972)年12月に国道6号常磐バイパス勿来町四沢-佐糠町が開通し、交通渋滞は解消されました。
 その後、歳月を経て、大島集落に接する鮫川橋の老朽化が課題になりましたが、幹線道路であるため往来を中断して長い橋を建設する手法は採れず、既設の鮫川橋の下流側に建築することとしました。
 架け替え区間は新・鮫川橋(385.6m)の築造を含む鮫川橋工区900mの計画と、大規模なものとなりました。
 橋に通じる既設道路の下流側、すなわち大島側の橋のたもとから大島交差点までの東側の区間で、平成7(1995)年から土地買収を含む事業に着手し、取り付け道路を含め、竣工・開通したのは、平成23(2011)年2月でした。
 旧取り付け道路133m区間はフリースペースが設けられ、ここには、大島の歴史を解説した表示板がテーマごとに設置され、“街角博物館”として人々に街の移り変わりを伝えてくれます。
(いわき地域学會 小宅幸一) 

 

その他の写真

左上 錦町大島(下町)から北方(上町)を見る〔昭和13(1938)年、磐城国道事務所提供〕
左下 錦町大島(下町)から北方(上町)を見る〔昭和31(1956)年、磐城国道事務所撮影〕
右上 錦町大島(下町)から北方(上町)を見る〔平成17(2005)年12月、おやけこういち氏撮影〕
右下 旧道の右側(東側)に新道が敷設〔令和2(2020)年1月、おやけこういち氏撮影〕

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勿来市役所上空から西方の大島、常磐線を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

4 勿来市役所上空から西方の大島、常磐線を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

 

勿来市役所庁舎上空から東方の菊多海岸方面を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

5 勿来市役所庁舎上空から東方の菊多海岸方面を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

 

勿来市役所庁舎上空から南西方向の上中田方面を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

6 勿来市役所庁舎上空から南西方向の上中田方面を俯瞰(昭和35年3月、長谷川達雄氏撮影)

 

錦町大島地内(昭和40年代、長谷川達雄氏撮影)

7 錦町大島地内(昭和40年代、長谷川達雄氏撮影)

 

国道6号大島歩道橋から(昭和47年5月、いわき市撮影)

8 国道6号大島歩道橋から(昭和47年5月、いわき市撮影)

 

拡幅前の大島地内・左(平成8年頃、おやけこういち氏撮影)

9 拡幅前の大島地内・左(平成8年頃、おやけこういち氏撮影)

 

錦町大島の新道(左)建設を勿来支所に向かって見る(1)(平成13年3月、おやけこういち氏撮影)

10 錦町大島の新道(左)建設を勿来支所に向かって見る(1)(平成13年3月、おやけこういち氏撮影)

 

錦町大島の新道(左)建設を勿来支所に向かって見る(2)(平成13年3月、おやけこういち氏撮影)

11 錦町大島の新道(左)建設を勿来支所に向かって見る(2)(平成13年3月、おやけこういち氏撮影)

 

錦町大島の新道(左)を勿来支所に向かって見る(平成14年6月、おやけこういち氏撮影)

12 錦町大島の新道(左)を勿来支所に向かって見る(平成14年6月、おやけこういち氏撮影)

 

新しい鮫川橋と旧取り付け道路に設置された、大島側の旧鮫川橋親柱と解説板(平成28年9月、いわき市撮影)

13 新しい鮫川橋と旧取り付け道路に設置された、大島側の旧鮫川橋親柱と解説板(平成28年9月、いわき市撮影)

 

旧鮫川橋の御柱と解説板(令和2年1月、おやけこういち氏撮影)

14 旧鮫川橋の御柱と解説板(令和2年1月、おやけこういち氏撮影)

 

錦村道標の解説板(令和2年1月、おやけこういち氏撮影)

15 錦村道標の解説板(令和2年1月、おやけこういち氏撮影)

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総合政策部 ふるさと発信課
電話番号:0246-22-7503
ファクス番号:0246-22-7469

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