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『泉崎の松並木』(令和元年12月11日市公式Facebook投稿)

登録日:2019年12月11日

いわきの『今むがし』Vol.130

浜街道の松並木・平泉崎(道路左側)、平下神谷(道路右側) 四倉方向を見る。〔昭和59(1984)年、高萩純一氏撮影〕


1 浜街道の松並木・平泉崎(道路左側)、平下神谷(道路右側) 四倉方向を見る。〔昭和59(1984)年、高萩純一氏撮影〕 古い写真を見ると、曲がりくねった幹線道路のかたわらに松並木が見えます。これは江戸時代の慶長9(1604)年、徳川幕府が一里塚とその周りにマツを植えることを命じたのが始まりでした。落葉樹は往来者が冬の寒さを防ぐことが難しく、果樹が傷みやすいとして、管理に容易な常緑樹が植樹されました。
 いわき地方では、江戸時代初期、磐城平藩主・内藤政長が、旅人の日除けなどのため、通称・浜街道沿いにクロマツを植栽しました。
慶安2(1649)年に出された「御触書」では、海道の両側に植えること、枯れた場合は責任者が植え直すこと、もし、松苗を引き抜く者、あるいは枝を折った者がいたら、捕まえて20日間入牢させること、などが周知されており、藩主の意気込みがうかがえます。
 内藤政長によって植栽された松が「道山林」(どうさんばやし)と呼ばれるのは、長政の法名「悟真院藤養誉堆安道山大居士」にちなんだものでした。
 この通称・浜街道は明治時代以降、国道として整備されていきましたが、曲がりくねった道が多いことから、昭和10年代に新しい国道敷設が始まりました。しかし、平以北の国道敷設替えが始まったのは昭和30年代で、原高野、泉崎付近の新道舗装は昭和34(1959)年でした。
 旧浜街道は昭和37(1962)年11月に国道から市道へ所管替えとなり、平市はこれを機に、松並木の保存を検討していきます。当時、道路舗装・改良や側溝の工事、上水道整備、沿線住宅の改築などにより道路脇の松は年々その数を減らしていました。勿来から双葉郡南部までの間に100本足らず、平市には神谷や泉崎にかけて約30本が残るばかりとなっていました。さらに松枯れの流行も加わって、マツが生き延びるには厳しい環境となっていきます。

 

松並木が消えた今 四倉方向を見る〔令和元(2019)年7月、小宅幸一氏撮影〕

2 松並木が消えた今 四倉方向を見る。〔令和元(2019)年7月、小宅幸一氏撮影〕

平市は道路脇の松を天然記念物に指定しましたが、昭和41(1966)年10月にいわき市が誕生し、松並木は指定から外されてしまいます。
昭和50(1975)年7月5日付『いわき民報』は、「老松2本の枯死が地元民をがっかりさせている。平下神谷字一里塚、神谷団地から花園神社への中間にあるもの。道路拡幅工事などで姿を消していったなかで、わずかに残っていたものだが、ケーブルの埋設や舗装道路工事などの影響で枯死したのではないかとみられている」と報じています。
平原高野から同泉崎の旧浜街道の5本と草野公民館前のマツのみも樹勢は衰え、いつのまにか、すべて姿を消してしまいました。
人の消えていくモノへの興味や郷愁は、生活に密着した事象が中心です。自動車で移動する人々は、道路のかたわらにたたずむマツの消失を気にもとめず、通り過ぎてしまいます。たとえ、気づいたとしても、まもなく記憶の重層に埋もれていってしまうでしょう。
(いわき地域学會 小宅幸一) 

その他の写真

泉崎付近における浜街道の松並木〔昭和40年代、『いわき今昔写真帖』〕

3 泉崎付近における浜街道の松並木〔昭和40年代、『いわき今昔写真帖』〕

 

合併記念聖火リレー・旧浜街道(昭和42年3月、いわき市撮影)

4 合併記念聖火リレー・旧浜街道(昭和42年3月、いわき市撮影)

 

旧浜街道における松並木・泉崎付近(昭和48年1月、いわき市撮影)

5 旧浜街道における松並木・泉崎付近(昭和48年1月、いわき市撮影)

 

旧浜街道の松並木。右が泉崎、左が下神谷(昭和51年、長谷川達雄氏撮影)

 

旧浜街道の松並木・左泉崎、右下神谷(昭和59年10月、高萩純一氏撮影)

7 旧浜街道の松並木・左泉崎、右下神谷(昭和59年10月、高萩純一氏撮影)

 

旧浜街道における松並木・泉崎付近(昭和63年8月、いわき市撮影)

8 旧浜街道における松並木・泉崎付近(昭和63年8月、いわき市撮影)

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