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『小名浜字栄町、古湊』(令和元年12月25日市公式Facebook投稿)

登録日:2019年12月25日

いわきの『今むがし』Vol.131

魚市場前の栄町の街並み、道路、小名浜臨港鉄道の栄町停留所(江名鉄道の起点)〔昭和41(1966)年2月、高井薫平氏撮影〕


1 魚市場前の栄町の街並み、道路、小名浜臨港鉄道の栄町停留所(江名鉄道の起点)〔昭和41(1966)年2月、高井薫平氏撮影〕 その昔、小名浜は漁をする小船が風波を避けて停泊する港に過ぎませんでした。
 江戸時代初頭から、近隣藩の村々の年貢米を江戸へ海送する港、そして漁港として栄え、寛文10(1670)年には「東廻海運」の港に指定されました。さらに延享4(1747)年に幕府直轄領となって代官所が置かれたことにより、政治の拠点としての機能が加わりました。
 当時、小名浜の繁栄は平を上回るといわれていました。元和8(1622)年、内藤家が磐城平藩に入部した際に記録された『内藤侯平藩史』には、「小名(小名浜)、四倉ノ両所ハ領内ノ大浜ニシテ、世俗小名千軒ト云ヒ伝ヒシカレドモ、二千竈(戸)余軒ヲ並ベ」とその規模の大きさが表現されています。
 三崎側から西に向かって順に、米野村、中島村、中町村、西町村が街村の形態で並んでいました。
 そのなかでも、小名川から東側の米野村には、漁業の基地にちなんだ「商い店」などが軒を連ね、中島村とともに小名浜の中心を成していました。今でこそ古湊は県道15号小名浜四倉線から外れていますが、かつては、曲がりながら古湊区域を通っていました。つまり、古湊は海に面し、県道のメイン道路に沿っていたのです。通り沿いには、どっしりした威厳のある家が並び、地元民は屋号で商家を呼び合っていました。
 この古湊の道路環境が変わったのは、昭和10年代でした。下神白との間にあったトンネルを崩して切り通しにするとともに、高台の旧陣屋を回り込んで(当初は取り崩す予定でしたが、反対運動で変更)本町通りにつながる道路が開通したためです。
漁港整備に向けては、漁船の大型化と漁法の発展に対応するため古湊の前面の浜を埋め立てて漁業基地としても体裁が整えられるよう、明治18(1885)年、小名浜町の関係者などによって、請願が各機関に提出されました。
 そして大正7(1918)年から大正13(1924)年にかけて国の補助金を得て、漁業の振興と船舶の避難港として整備するため、沖防波堤や灯台などとあわせて埋立地が造成され、ここには漁業組合、製氷工場、捕鯨会社が建設されました。竣工式が行われたのは、大正15(1926)年10月のことでした。
 この埋立地は、小名浜字栄町(さかえちょう)と名づけられました。このように、縁起の良い地名を「瑞祥(ずいしょう)地名」と呼びます。栄町には、“町が栄えますように”、との願いが込められているものと考えられます。
 その後も内務省直轄の商港づくりと並行して、小名浜町においても直営で内務省築港事務所前の海岸6,000坪(約2ha)の埋め立てを施工し、昭和13(1938)年10月に町営魚市場と磐城水産工業(株)の竣工式を行いました。
 昭和16(1941)年11月に、小名浜臨港鉄道の泉-小名浜が開通すると、小名浜駅から魚市場までは引込線(昭和28〔1953〕年に江名鉄道が開通して接続駅へ)が敷かれ、多くの鮮魚が運ばれるようになりました。
 

上 臨港道路と小名浜魚市場〔平成2(1990)年4月、いわき市撮影〕
下 臨港道路と震災後新たに建設された福島漁連小名浜冷凍冷蔵工場(写真正面の奥) 〔平成27(2015)年1月、いわき市撮影〕
写真2

 埋め立てされた栄町には新しい建物が建ち並びましたが、幹線道路から外れ、漁港から少し遠くなった古湊の街並み(米野通り)は、港のにぎわいから解放されるように静かな時を刻むようになりました。
 通りを歩くと、古風な家屋が見られます。このうち、町屋の2階部分を見上げると目に入るのが「卯建(うだつ)」です。町屋の通り側に張り出した小屋根付きの袖壁のことで、火よけ壁ともいいます。火事になった場合に木造家屋の延焼を防ぐのが目的でしたが、次第にその家の繁栄を示す証となっていきます。たとえば、商売で成功したことを誇示する「うだつを上げた」、出世できないことを「うだつが上がらない」という言葉は、これに由来しています。
 こうした古い街並みも、時代とともに、少しずつ変化していきます。平成18(2006)年7月には空き店舗を活用して、小名浜の歴史がわかる資料を多数展示した「小名浜みなとまち資料館」がオープン、写真や大漁旗、漁具などが寄せられました。
 かつてのにぎわいは街全体の歴史遺産となって、今生きている私たちに何らかのカタチで受け継がれていることを、あらためて感じさせてくれます。
 一方、栄町は新しい時代の息吹を吸いこんで、大きく変化していきます。
 漁業が盛んな時代には、小名浜魚市場の周辺に冷凍工場や漁具倉庫、製氷工場などが並び、鮮魚の水揚げの時ともなると、トラックがひしめき合うように魚市場を取り囲み、その間漁業関係者がせわしく動き回る光景が風物詩となっていました。
 三崎公園の整備が進み、昭和41(1966)年に一部廃止となった江名鉄道の跡地を利用した臨港道路が昭和61(1986)年に開通すると、観光客が増えだしました。魚市場付近の水産物直売所には観光客が立ち寄り、にぎわいをみせます。海鮮レストランもオープンしました。
 しかし、200海里漁業専管規制や後継者不足などによる日本全体の漁業衰退傾向に加え、東日本大震災の福島第一原子力発電所事故による海洋汚染の風評によって、栄町もかつての町勢が失われています。栄町のシンボルだった小名浜魚市場も、平成27(2015)年3月に1号埠頭に移転していきました。
 魚市場跡地の大きな空地。海への眺望が開けた、とも言えますが、街の活性化に向けては、新しい機能が入ることを期待するばかりです。
(いわき地域学會 小宅幸一) 

その他の写真

小名浜字古湊を走る磐城海岸軌道のガソリン機関車(昭和時代初期、宇田恒雄氏提供)

小名浜字古湊を走る磐城海岸軌道のガソリン機関車(昭和時代初期、宇田恒雄氏提供)

 

栄町停留所ホームを江名に向かって見る(昭和28年1月、久野秀三郎氏提供)

 

栄町停留所を江名に向かって見る(昭和41年2月21日、高井薫平氏撮影)

5 栄町停留所を江名に向かって見る(昭和41年2月21日、高井薫平氏撮影)

 

江名方面から栄町駅に入線する気動車(昭41年2月21日、高井薫平氏撮影)

6 江名方面から栄町駅に入線する気動車(昭41年2月21日、高井薫平氏撮影)

 

小名浜古湊(昭和53年9月、いわき市撮影)

7 小名浜古湊(昭和53年9月、いわき市撮影)

 

小名浜古湊(平成7年1月、高萩純一氏撮影)

8 小名浜古湊(平成7年1月、高萩純一氏撮影)

 

小名浜魚市場前の臨港道路を江名に向かって見る(平成14年10月、おやけこういち氏撮影)

 

小名浜字古湊に残る、古い町並みと「うだつ」(平成19年6月、いわき市撮影)

10 小名浜字古湊に残る、古い町並みと「うだつ」(平成19年6月、いわき市撮影)

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