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その25 『給食(1) ~市営パン工場がありました!』(平成28年4月13日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14605-3257-7761 更新日:2016年4月13日

「給食(1) ~市営パン工場がありました!」

 今月、ご入学、ご進級された皆さま、おめでとうございます!新しい学校生活がスタートした今月は、2回シリーズで、給食の話題を取り上げたいと思います。1回目の今回は、かつていわき市錦町にあった市営のパン工場について紹介します。

給食風景1(昭和30年代、長谷川達雄氏撮影):メニューは具だくさんの「すいとん」でしょうか? 日本の学校給食の歴史を紐解くと、時代は明治のころにさかのぼります。一部の地域や学校で、貧困や栄養不良児童への救済措置として、食事が提供されたことが給食の始まりとされています。明治・大正・昭和初期時代に実施された給食では、おにぎりやみそ汁、すいとんなどが提供されていたようですが、戦時下の食糧難と、昭和20年の終戦を経て、メニューは大きく変化していきます。

 

 

 

 

給食風景2・小玉小学校(昭和30年代、国府田英二氏提供):アルミのおわんで脱脂粉乳を飲んでいるようです

 終戦直後の日本は、深刻な食糧不足でした。
 昭和21年、「ララ物資」として知られる、アメリカのボランティア組織「ララ(LARA:アジア救援公認団体)」から日本へ食糧などの寄贈が始まります。
 昭和24年にはユニセフ(国際連合児童基金)からミルクが寄贈され、「ユニセフ給食」が開始、昭和31年には「米国余剰農産物に関する日米協定等」の調印により、学校給食用として小麦粉10万トンとミルク7万5千トンの贈与が決定します。

 

 

 

給食風景3・小玉小学校2昭和30年代、国府田英二氏提供):脱脂粉乳といっしょに並んでいるのはクラッカーでしょうか? 昭和20年代の給食の実施は、食糧不足が深刻だった首都圏や都市部で徐々に広がっていきました。アメリカから輸入された小麦粉とミルクは、当時栄養不足だった日本の子どもたちのおなかを満たしていきました。
 日本の学校給食の実施体制が法的に整ったのは、「学校給食法」が成立した昭和29年ですが、上記のような状況下で提供されるメニューは、当然ながら、ごはんとみそ汁ではなく、パンとミルクでした。

 

 

 

給食風景4・勿来市内の小学校(昭和39年版なこそ・市勢要覧):メニューは脱脂粉乳、勿来パン工場製のコッペパン、汁物のようです ちなみに、この時代の「ミルク」とは、現在の給食で提供されている「牛乳」ではなく、「脱脂粉乳(だっしふんにゅう)」のことを指します。脱脂粉乳は、生乳(牛からしぼったもの)や牛乳(生乳を加熱処理したもの)から、乳脂肪分(クリーム)を分離させた残りを濃縮乾燥させて粉状にしたものです。保存性が良く(牛乳のように冷蔵不要)、脂肪分以外の牛乳の栄養素をすべて含んでいて、特に、たんぱく質やカルシウム、ビタミンが豊富だそうです。現在も、お菓子やパン、アイスクリームなどの製造に使用されていて、当時の給食では、水やお湯で溶いたものを配膳して飲んでいました。味について、子どもたちの評判は……いろいろだったようです(苦笑)。

 昭和30年代、学校給食の実施は全国に広がっていき、いわき地方の学校でも始まっていきます。ただ、このころは、主食と副菜がそろった「完全給食」が実施できていた学校は多くはなく、脱脂粉乳だけを提供する「ミルク給食」もありました。また、給食の実施には、学校の自助努力や地域の協力などが大きく関係していて、実施状況や内容にはかなりばらつきがあったようです。脱脂粉乳から牛乳への移行も同様で、牛乳の調達や給食費の設定も、いわき市合併前の市町村それぞれで行われていたので、地域差がありました。

 

勿来給食センターパン工場内部の様子(昭和47年1月、いわき市撮影):大きなケースに入っているのは練り上がった生地のようです 公営のパン工場ができたのはこのころです。
 昭和36年10月、勿来市(現在の勿来地区)は、他市町村に先駆けて、勿来市内の小学校を対象とする学校給食用製パン専用の工場を設置しました。パン工場があったのは、現在の錦町中迎四丁目地内(鮫川大橋の近く)で、営業開始当時は、近隣の小学校7校(植田小、錦小、川部小、勿来一小、勿来二小、勿来三小、山田小(現在の菊田小))、中学校1校(川部中)の児童生徒約8,000人分のパンを製造していました。
 昭和41年9月に勿来市営学校給食共同調理場が設置されると、パン工場は調理場組織の一部「勿来給食センターパン工場」となって製造を続けました。昭和47年時点で、小学校7校、中学校5校、県立勿来高校定時制の約8,000人分を製造し、メニューも、揚げパン、ぶどうパン、コーヒーパン、ココアパンなど11種類と豊富だったようです(広報いわき 昭和47年2月号掲載『市内スケッチ(34)』より)。

 

勿来給食センターパン工場での給食パンの製造(昭和47年1月、いわき市撮影):コッペパンの整形作業中のようです しかし、昭和41年10月にいわき市が発足してからの経営は決して順調ではなく、人件費などによる赤字が続いていました。また、パン工場が勿来地区のみを対象にしていたことによる他地区とのバランス上の問題、さらには民間事業者が提供するパンと質や価格の面で差がなくなってきていることなどから、昭和48年3月末で廃止の方針が打ち出されます。これに対しては、パン工場存続運動を行っていた「教育費の父母負担軽減と子供の健康を守る会」から、同年3月市議会定例会に、パン工場廃止反対の請願が提出されました。当時の議事録には、勿来地区出身議員などによる熱の入った答弁が残っていますが、存続はかなわず、予定通り民間に払い下げられました。

 

勿来給食センターパン工場での給食パンの製造(昭和47年1月、いわき市撮影):焼きたてのコッペパン!いい香りが漂ってきそうです 昭和40年代は、学校給食の充実を図ろうとする動きが盛んになっていたころです。パンを主食としていた給食に、実験的にごはんが登場し始めるのは昭和45年ですから、勿来のパン工場の議論があった時期と重なります。
 いわき市内の給食を食べて育った大人世代には、「給食といえばパン!」というイメージを持っている方が多いと思いますが、今の給食を食べている子どもたちは「給食の主食はごはんでしょ?」と驚かれるかもしれません。現在の給食の主食は、ごはんが週3回、パンとめんは、それぞれ週1回を目安に実施されているのですから。
 ということで、次回は、いわき市の給食が現在の形態に至るまでを振り返ります。どうぞ、お楽しみに♪

 

勿来給食センターパン工場での給食パンの製造・パック詰め(昭和47年1月、いわき市撮影):大きなコッペパンをひとつひとつ手作業で詰めていたようです 

勿来市の給食配達(昭和39年版なこそ・市勢要覧)

 

<参考文献>
 いわき市勿来地区地域史編纂委員会(2014)『いわき市勿来地区地域史3・上巻』、いわき市勿来地区地域史編纂委員会、p.162-164
 いわき市勿来地区地域史編纂委員会(2014)『いわき市勿来地区地域史3・下巻』、いわき市勿来地区地域史編纂委員会、p.169-173

 学校給食の歴史については、こちら(全国学校給食会連合会のホームページ)。
 http://www.zenkyuren.jp/lunch/

〔担当〕市制施行50周年記念誌プロジェクト
   (ふるさと発信課内) TEL 0246-22-7503

お問い合わせ

総合政策部 ふるさと発信課
電話番号:0246-22-7402
ファクス番号:0246-22-7469

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