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『岩間町』(平成29年2月15日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14869-4640-2680 更新日:2017年2月15日

いわきの『今むがし』Vol.64

上:県道泉-岩間-植田線の坂上から見る岩間集落(集落中央が県道)〔昭和30(1955)年頃 荒木良次氏撮影・大野章子氏撮影〕
下:竜宮岬・愛宕神社から見る岩間海岸・鮫川河口〔昭和32(1957)年 おやけこういち氏提供〕

組写真1 市内南部の小浜町から岩間町に向かうとき、県道泉-岩間-植田線はだらだら坂になります。その頂点、竜宮岬の愛宕神社に通じる脇道を横目に見て、すぐ大きな切通しの先に差し掛かり、まもなく一気に視界が開けていきます。
 どこまでも広がる空の下、菊多浦の弓なりの海岸線は遠く、茨城県平潟港の鵜ノ子岬まで続き、平野部を抱えた阿武隈の峰々とともに、雄大な眺めを一望させてくれます。海岸線は県立勿来自然公園に指定され、またこの絶景は「いわき百景」の一つに選ばれています。
 道路はここから高低差40mの急な坂道を、S字カーブを描いて平地へ降りていきます。
 この坂はかつて“間(馬)坂”(まざか)、あるいは近くに愛宕神社が所在することから“愛宕坂”(あたござか)などと呼ばれました。常磐共同火力勿来発電所ができた際には、一時“火力坂”(かりょくざか)とも呼ばれました。明治時代以前には七曲がりで、屈曲、断崖絶壁が多く、昭和6(1931)年12月には県道に編入されて、絶えず改修が繰り返されてきました。
 この坂を下りきった所が岩間集落です。背後には落差のある海食崖(かいしょくがい)、崖下には太平洋に注ぎ込む鮫川河口と砂浜の岩間海岸が控え、集落はこの両者に挟まれた低地にひしめき合っていました。
 昔から、岩間の人々は農業を主に、鮫川が竜宮岬下で太平洋に流れ込むという地形を利用して河口に船着場を設け、副業として小舟による沿岸漁業を営んでいました。
 しかし、鮫川河口が絶えず移動するうえに砂の堆砂が著しく、港としての機能を果たせず、漁業は次第に衰退していきました。また、鮫川河口に位置するとともに菊多浦に沿う沿岸流を正面から受けるような地形にあり、たびたび高潮の被害に遭いました。
 これらを克服するために、大正時代から昭和時代にかけて河口港建設の計画が立てられましたが、立ち消えとなりました。
 その一方で、普段は鮫川河口と岩間海岸の織り成す砂浜景海岸は、岩間海水浴場としても人気を集めました。今よりも砂浜は広がっていて、海は遠くにありました。
 やがて昭和30年代を中心に、沿岸流が強くなっていきます。特に、昭和32(1957)年に入り、鮫川の河口の位置が岩間の海岸線近くまで50~60mも移動しました。海に流れ込む鮫川の水と海水とがここでぶつかり合い、その勢いで砂地が流され、岩間海岸における海岸線の浸食が著しく進んだのです。戦後まもなく砂上に塩製造のために立てられた十数戸が危険にさらされ、また昭和32年10月の台風では、海岸に沿う県道の堤防を波が越え、岩間地区全体が危険となったため、勿来市は水防本部を立ち上げ、海岸に面する家屋の一部を解体するとともに、消防団などが土のうを積んで水難回避に努めました。
 このように被害が相次いだため、県施工により昭和33(1958)年度に延長520mの防潮堤が完成し、昭和35(1960)年度からは鮫川に沿って佐糠町までの防波堤延長が施され、水害の危険は避けられるようになりました。さらに昭和43、44(1968、69)年にかけて、高さ6.2mへ嵩上げ工事が施工されました。
 集落の中心を通っていた細い道路も昭和39(1964)年には、防潮堤に沿って避難誘導路の役割を果たすよう幅広に付け替えられました。

上:竜宮岬・愛宕神社から見る岩間海岸、岩間集落〔平成8(1996)年 いわき市撮影〕
中:県道泉-岩間-植田線の坂上から見る、東日本大震災の被害状況〔平成23(2011)年4月 鈴木大氏撮影〕
下:新ルートの県道建設や震災復興土地区画整理事業が進む岩間町〔平成29(2017)年2月 いわき市撮影〕

組写真2 昭和30年代の高潮とその後の防潮堤の築造によって、岩間町は水害から守られることになりました。
 それでも、大雨のたびに鮫川には複数の河口が生まれ、危険視されたことから、福島県は昭和58(1983)年9月、海と河川を直線で結ぶ延長約50mの導水堤を完成させました。これに伴い、鮫川は真っ直ぐ海に注ぐようになって、岩間前には旧河川の一部が袋状に残る状況となりました。
 広い砂浜には低樹木も茂り、地続きとなった海岸にはサーフィンの若者が集うようになり、豪快な波乗りが見られるようになりました。岩間地区民も駐車スペースを確保して、来訪者の便宜を図りました。
 しかし、暗転が訪れます。平成23(2011)年3月11日のことでした。東日本の太平洋を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生、その約40~50分後に大津波がいわき市の海岸域に押し寄せました。
 津波は、防波堤を基礎部分から弾き飛ばして、海岸に沿った家屋を破壊し、岩間町では188戸が全半壊の被災となりました。
 全壊家屋(流出・撤去・条件付再生可)が42%と高い割合を示し、大規模半壊家屋も33%を占め、直接死で10人が亡くなりました。
 震災から6年を迎えようとするなか、他の地区と同様に岩間町においても復旧・復興が急ピッチで進んでいます。
 海岸防潮堤は7.2mの高さに築造するとともに、背後には津波防災緑地を設けることとしています。これまで大きな曲線を描いて上り下りしていた県道泉-岩間-植田線は直線化するため、現在付け替え工事が行われています。旧市街については、震災復興土地区画整理事業(市街地エリアの岩間町岩下、高台エリアの岩間町小原)により、住宅、道路、公園などを配置して、良好な市街地環境を形成することとしており、高台の小原地区では事業が完了(岩間集会所も完成)し、家屋建築が進んでいます。また、低地には住環境に配慮しながら、産業・業務施設の誘導を図っています。
 岩間町の住民は、自らの復興をめざすとともに、今後のまち全体の復興を図るため、平成27(2015)年7月、いわき市や隣地・小浜町地区民との協働により、復興まちづくりを進めるための共通の指針を、『小浜・岩間地区復興グランドデザイン-人の和 まちの輪 自然の環』としてまとめました。復興まちづくりの目標は「和の心で安心して住めるまち-海・山・自然とともに人が集う癒しの町-」で、当面の目標は震災後10年です。
 岩間町は、地区民の動きも景観も、復興へ向けて大きく変わろうとしています。

参考地図

参考地図

その他の写真

3 県道坂上から見る岩間海岸(昭和30年頃 おやけこういち所蔵)

3 県道坂上から見る岩間海岸(昭和30年頃 おやけこういち所蔵)

4 竜宮岬から見る鮫川河口・岩間集落(昭和31年頃、長谷川達雄氏撮影)

4 竜宮岬から見る鮫川河口・岩間集落(昭和31年頃、長谷川達雄氏撮影)

5 竜宮岬・愛宕神社から見る鮫川河口(昭和32年、篠原貞利氏撮影)

5 竜宮岬・愛宕神社から見る鮫川河口(昭和32年、篠原貞利氏撮影)

6 岩間町の県道松並木(昭和51年7月、いわき市撮影)

6 岩間町の県道松並木(昭和51年7月、いわき市撮影)

7 空撮・岩間町、岩間海岸を西側から見る(平成時代初期、いわき市撮影)

7 空撮・岩間町、岩間海岸を西側から見る(平成時代初期、いわき市撮影)

8 岩間町と小浜町の境を七曲がり坂でつないでいた県道泉-岩間-植田線(平成19年11月、いわき未来づくりセンター撮影)

8 岩間町と小浜町の境を七曲がり坂でつないでいた県道泉-岩間-植田線(平成19年11月、いわき未来づくりセンター撮影)

9 岩間町、佐糠町に押し寄せる津波(2011.3.11午後3.42、常磐共同火力勿来発電所撮影)

9 岩間町、佐糠町に押し寄せる津波(2011.3.11午後3.42、常磐共同火力勿来発電所撮影)

10 県道坂上から見る岩間町の防潮堤工事、防災緑地、新設道路、土地区画整理事業区域・海フェス2016開催中(平成28年7月、いわき市撮影)

10 県道坂上から見る岩間町の防潮堤工事、防災緑地、新設道路、土地区画整理事業区域・海フェス2016開催中(平成28年7月、いわき市撮影)

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