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『塩屋埼灯台』(平成28年12月21日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14815-0749-3705 更新日:2016年12月21日

いわきの『今むがし』Vol.61

1 設置まもない塩屋埼灯台 〔明治時代末期 真木隆四郎氏撮影〕

1 塩屋埼灯台(明治時代末期、真木隆四郎氏撮影) いわき地方の沖は磐城灘(いわきなだ)と呼ばれ、海上交通の難所と言われていました。特に、塩屋埼の崖下から沖へ3km余には岩礁が点在し、座礁する船が多発しました。江戸時代には岬上にかがり火を焚き、あるいは、のろし台が設置され、航海の目印にしていた、と伝えられています。
 『石城郡誌(いわきぐんし)』(大正11年刊)では、「塩屋埼は東海岸第一の難所と称され、台下の険崖(けんがい)から一里半余、暗礁が棋布(きふ・碁石を並べたように点々と散っていること)し、外国船・日本船の沈没せるもの多し」と記述されていたほどでした。
 明治元年(1868)にはアメリカ・エルエル号が、明治15(1882)年には沖縄丸が、それぞれ座礁し、国内外から航行の安全性が求められるようになりました。加えて、日清戦争後における海運強化の機運を背景に、沖を航行する艦船を導く航路標識の建設が課題となっていました。
 このことから、北緯36度59分、東経140度59分の海を見下ろす高台に、塔の中ほどが白と黒の横縞状に施された煉瓦造り(煉瓦灯台としては高さ歴代1位)、高さ35.3mの塩屋埼灯台(現在の正式名称は塩屋埼航路標識事務所)が築造されました。初点灯されたのは明治32(1899)年12月のこと。灯油を燃やして20秒に1回、光度20万燭光(大正3年に60万燭光、大正9年に150万燭光へ)の光に変えて、23海里(42.6km)の沖合まで照らしました。
 大正4(1915)年に詩人・山村慕鳥の詩に「岬」と題した作品があります。「岬の光り 岬の下にむらがる魚ら 岬にみち尽き そら澄み 岬に立てる一本の指」暮鳥は灯台を1本の指にたとえ、海と岬と灯台の織り成す様の賛歌を言葉に託しました。
 この初代灯台は、昭和13(1938)年5月、レンズなどが破損する地震に見舞われました。これは即座に補修できたのですが、同年11月に福島県北方沖を震源とするマグニチュード7.7の地震では、灯器やレンズが大破したばかりではなく、塔が傾くほどの大きな被害となりました。
 このため、補修することができず取り壊され、代わって灯台の高さが地上から27.3m、平均水面から73.0m、鉄筋コンクリート造りによる白亜の塔形灯台(昭和19年-22年は戦時対応で茶と灰の迷彩色)が、昭和15(1940)年3月に完成しました。光度は80万カンデラ、光達距離は22海里(40.7km)に達しました。
 戦時色が濃くなるなか、灯台はアメリカ軍による空襲の標的となることが懸念されたため、本格的な戦争の始まる前、昭和15年6月に灯火管制の工事が行われました。さらに、開戦となった昭和16(1941)年12月には縄と漁網で偽装が施されました。昭和17(1942)年3月には、空襲に備えて、海軍対空監視通信網の一部に位置づけられたことから、昭和19(1944)年5月には、攻撃を回避するため、茶色と灰色のペンキで迷彩色に施されました。
 こうした備えを、アメリカ軍は容易に突破します。連合国軍の軍機により昭和20(1945)年6月を皮切りに4度も空襲に見舞われ、同年8月の空襲では灯台職員1人が殉職しました。終戦のわずか5日前の出来事でした。
 復旧を終え、白亜の灯台に塗り戻されたのは昭和22(1947)年9月のことでした。江名漁船船長会からの早期復旧要望があり、同会からの資材費用負担によって復旧予定時期より2年繰り上げで再開することができました。

2 塩屋埼灯台の現在 〔平成28(2016)年1月 いわき市撮影〕

2 塩屋埼灯台(平成28年1月2日、いわき市撮影) 昭和25(1950)年4月、外壁やレンズ、灯器などが大規模に修復され、ふたたび海の航行の安全を確保することができるようになりました。このとき、光の強さである光度100万カンデラ(約100万燭光)に改修されました。現在は、光度は変わらず、灯台は20秒ごとに1閃光する単閃白光(たんせんはっこう)により22海里(約41km)まで光を届けています。その後、平成15(2003)年から翌年にかけては、全面的な改修を行いました。
 光とともに音も、灯台の重要な役割です。海が濃霧に覆われると、灯台は音の信号を出します。船が座礁しないように、大正15(1926)年8月、年配者には懐かしい、猛獣がうなるような霧笛信号(モーターサイレン方式)が導入されました。昭和52(1977)年4月からは、大型のブザーのような音を響かせる、ダイヤフラムホーン式に変更されましたが、通信機器の発達で廃止され、また昭和7(1932)年11月、灯台に併設された航行位置を知らせる無線方位信号もGPS測定機器の普及により、平成20(2008)年度に廃止されました。
 このように灯台は、社会変化に対応して、光や音、無線により昼夜を問わず沿岸を航行する船舶の安全を守り続けています。
 かつて、灯台には灯台守と呼ばれた職員とその家族が灯台近くの宿舎に住んで灯台を守っていました。
 灯台守にとって、生活するうえで最も苦慮したのが飲料水でした。麓からのもらい水を長い階段をかつぎ上げる苦闘の日々。加えて、麓の豊間集落は元々水利の便が悪い場所で、節水や時間給水が相次ぎました。昭和30年代半ばに井戸水を掘りポンプアップしましたが、水質が悪く、水量も少ないものでした。灯台に水道が通じたのは、昭和42(1967)年1月のことでした。
 塩屋埼灯台の灯台長を務めていた田中積(いさお)氏の妻・きよ氏は、生活のなかで味わう悲喜交々を綴った「海を守る夫とともに二十年」を『婦人倶楽部』に投稿しました。ちょうど、灯台職員とその家族が転勤で地方の灯台を廻り、積氏が塩屋埼灯台の台長に就いているときでした。それが昭和31(1956)年に掲載されました。(田中夫妻は、その後も全国の灯台を渡り歩きましたが、退職後の生活の場としていわきを選び、時折灯台守の取材に応じて一生を過ごしました。)
 その作品は、映画関係者の目にとまり、木下恵介監督の映画『喜びも悲しみも幾年月』(佐田啓二と高峰秀子が夫婦役)として昭和32(1957)年10月に封切られ、歌手・若山彰が歌う主題歌とともに大ヒットとなりました。(平成元(1989)年に灯台の入口に主題歌を刻んだ記念碑が建立)
 これで、塩屋埼灯台は一躍観光地として脚光を浴びました。昭和35(1960)年6月25日付『いわき民報』には、昭和34(1959)年度は灯台参観者に記載されただけでも6万2,051人を数え、平市観光協会の試算によると、名簿に記入しなかった参観者を含めると、約9万人に及び、しかもその半数以上が東京をはじめいわき地方以外の観光客、と報じていました。
 塩屋埼の灯台守による業務は昭和46(1971)年3月で終了し、福島航路標識事務所の職員が交代で勤務、それも平成5(1993)年2月に機器の自動化で無人化されました。
 昭和62(1987)年には、新しい舞台として、「塩屋埼灯台」が歌の世界に用意されました。病気から復活した、国民的歌手・美空ひばりの復帰第1作として、「みだれ髪」が作詞・星野哲郎、作曲・船村徹によって提供されたのです。同年12月にシングル盤として発表。彼女の数多いヒット売上げ曲のなかでもベスト10に入るほどの大ヒットを記録しました。
 平成10(1998)年は塩屋埼灯台にとって、実り多い年となりました。
 日本初の西洋式灯台(横須賀市観音埼灯台)の建設に着手してから130年、併せて11月1日を灯台記念日に制定してから50年目を記念して、平成10年に海上保安庁・燈光会が主催となって、心に残る灯台を一般募集し、同年10月「日本の灯台50選」に塩屋埼灯台が選ばれたのです。同年7月には、日没後2~3時間ライトアップされるようになり、灯台が夜空に幻想的に浮かぶ光景が見られるようになりました。
 また、塩屋埼灯台は、全国3,200余の灯台のうち、15か所しかない一般見学ができる灯台の一つでもあります。航路標識の広報や参観できる灯台の整備などを行っている燈光会によって、塩屋埼灯台物語や、映画の資料、灯台の仕組みの解説などを紹介した資料展示室が整備されています。
 平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災では、灯塔の一部やガラス、通路などが破損、通路や崖も被害を受けましたが、修理されて、灯光器は同年11月に再点灯、平成26(2014)年2月には一般公開が再開されました。
 灯台から視線を回すと東日本大震災からの復興・創生めざす、薄磯地区(北側)や豊間地区(南側)の新しいまちづくりが見えます。その先、起伏に富んだ磯浜と弓状の海岸線、新舞子に連なる松林の帯。自然の美しさは格別です。東に視線を転ずるとカモメと漁船が行き交う大海原が開放感を満たしてくれます。
 平成28(2016)年11月には、灯台記念日(11月1日)と市制施行50周年を記念して、夜間に初めて塩屋埼灯台が公開されました。
 20秒間隔で闇を切り裂き、遠くまで照らす灯台の光。その明かりは、「喜びも悲しみも幾年月」や「みだれ髪」の歌に彩られ、訪れる人の人生と重なって、希望に満ちた感情を浮かび上がらせてくれます。

その他の写真

3 塩屋埼灯台と映画「喜びも悲しみも幾年月」の出演者、灯台職員・家族(昭和32年頃、塩屋埼灯台所蔵)

3 塩屋埼灯台と映画「喜びも悲しみも幾年月」の出演者、灯台職員・家族(昭和32年頃、塩屋埼灯台所蔵) 

4 塩屋埼灯台・川前町志田名分校の施設めぐり(昭和49年7月、いわき市撮影)

4 塩屋埼灯台・川前町志田名分校の施設めぐり(昭和49年7月、いわき市撮影) 

5 豊間漁港の漁師と塩屋埼灯台(昭和59年4月、いわき市撮影)

5 豊間漁港の漁師と塩屋埼灯台(昭和59年4月、いわき市撮影) 

6 空撮・塩屋埼灯台から薄磯海岸方面を見る(昭和60年8月、いわき市撮影)

6 空撮・塩屋埼灯台から薄磯海岸方面を見る(昭和60年8月、いわき市撮影) 

7 空撮・塩屋埼灯台を東側から見る(昭和60年8月、いわき市撮影)

7 空撮・塩屋埼灯台を東側から見る(昭和60年8月、いわき市撮影) 

8 薄磯海岸の釣人、カモメ、塩屋埼灯台を平薄磯字北ノ作から見る(昭和63年12月、高萩純一氏撮影)

8 薄磯海岸の釣人、カモメ、塩屋埼灯台を平薄磯字北ノ作から見る(昭和63年12月、高萩純一氏撮影) 

9 歌碑「喜びも悲しみも幾年月」の除幕式(平成元年12月、いわき市撮影)

9 歌碑「喜びも悲しみも幾年月」の除幕式(平成元年12月、いわき市撮影) 

10 塩屋埼灯台のライトアップ(平成時代初期、いわき市撮影)

10 塩屋埼灯台のライトアップ(平成時代初期、いわき市撮影) 

11 薄磯海水浴場(平成時代初期、いわき市撮影)

11 薄磯海水浴場(平成時代初期、いわき市撮影) 

12 美空ひばり遺影碑除幕式・作曲家船村徹氏の指揮でコーラス(平成2年5月、いわき市撮影)

12 美空ひばり遺影碑除幕式・作曲家船村徹氏の指揮でコーラス(平成2年5月、いわき市撮影) 

13 塩屋埼灯台と「雲雀の苑」の夜景(平成9年7月、いわき市撮影)

13 塩屋埼灯台と「雲雀の苑」の夜景(平成9年7月、いわき市撮影) 

14 塩屋埼下駐車場付近と灯台(平成10年7月、いわき市撮影)

14 塩屋埼下駐車場付近と灯台(平成10年7月、いわき市撮影) 

15 塩屋埼灯台と日の出(平成15年、いわき市撮影)

15 塩屋埼灯台と日の出(平成15年、いわき市撮影) 

16 永遠のひばり像・塩屋埼灯台下(平成15年9月、いわきジャーナル撮影)

16 永遠のひばり像・塩屋埼灯台下(平成15年9月、いわきジャーナル撮影) 

17 薄磯海岸の日の出待ち(平成21年1月、いわき市撮影)

17 薄磯海岸の日の出待ち(平成21年1月、いわき市撮影) 

18 塩屋埼灯台のランプ装置点検・東日本大震災後初の点灯に向けて(平成23年11月、いわき市所蔵)

18 塩屋埼灯台のランプ装置点検・東日本大震災後初の点灯に向けて(平成23年11月、いわき市所蔵) 

19 空撮・塩屋崎灯台、新舞子浜の海岸線を南側から見る(平成26年12月、いわき市撮影)

19 空撮・塩屋崎灯台、新舞子浜の海岸線を南側から見る(平成26年12月、いわき市撮影) 

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