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『湯本町向田』(平成27年8月19日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8455-5701 更新日:2015年8月19日

いわきの『今むがし』 Vol.29

常磐炭礦(湯本町向田) 国道6号と交差していた常磐炭礦の専用鉄道向田線。写真奥に常磐炭礦西部礦の石炭積込場などの施設が見えます。〔昭和51(1976)年7月 須永秀夫氏撮影〕

昭和51年頃の湯本町向田

 最初の写真では、手前から奥へ石炭を運ぶための専用鉄道向田線、奥には石炭積込場や選炭場などの施設群を持つ常磐炭礦の礦業所が見えます。
 この専用鉄道は、大正7(1918)年5月、入山採炭株式会社が開削した第五坑から揚げた石炭を湯本駅まで運ぶため、0.9キロメートル区間で敷設したのが始まりで、昭和19(1944)年3月には磐城炭礦株式会社と合併して常磐炭礦株式会社へ組織替えをしながら、常磐炭田の中心として大量の石炭を運んだ歴史を持っていました。
 横断している道路は国道6号です。信号機と遮断機が取り付けられています。

施設群が撤去された、常磐炭礦磐城礦業所跡地(湯本町向田)〔昭和58(1983)年3月 いわき市撮影〕

昭和58年3月の湯本町向田

 昭和30年代初めまで、国道は湯本駅の西側を通り、上町踏切で常磐線と平面交差したので、鉄道と交わる道路はありませんでした。ところが、国道6号が、湯本駅東側を通るルートに付け替えられたことから、鉄道と交差するようになったのです。道路と鉄道が平面交差するようになると、事故が絶えず、危険な個所となりました。このため、昭和30年代半ば、信号機と遮断機が設けられています。
 

 

 

市石炭化石館の入口(湯本町向田) 市石炭・化石館と国道6号。写真左から道路を斜めに横断して、愛称「ほるる」の看板に向って専用鉄道が伸びていました。中央に見える山の稜線を比べなければ同じ位置がわからないほどの変容です。〔平成27(2015)年7月 いわき市撮影〕

平成27年7月の湯本町向田

 常磐炭礦は常磐地区や内郷地区に多くの坑口を持ち、そこから坑道を掘って石炭を揚げていましたが、採掘や土木工事の技術が進むと、できるだけ坑口の集約化を図るようになります。
 内郷地区の集約に続き、昭和37(1962)年、常磐線の西側を掘っていた石炭は、すべてこの礦業所へ運び、さらに昭和46(1971)年に磐城礦業所を閉鎖すると、今度は西部礦業所の石炭積込場・炭選場として機能し、地下600メートルの坑道を走るトロリー電気機関車により、5キロメートル以上離れた採炭現場から石炭を運ぶようになりました。
 

常磐炭礦磐城礦業所の全景(昭和30年頃、大平喜一氏撮影)

昭和30年頃の常磐炭礦磐城礦業所 さて、2枚目の写真が撮られたのは、昭和51(1976)年7月、西部礦業所の閉山を間近に控えた時期です。昭和46(1971)年の磐城礦業所閉山は大きな社会問題となったのですが、それから5年、工場でも家庭でもエネルギー源として石油への転換が進み、石炭需要が減るなか、常磐炭礦自体も脱石炭の方針を取るようになり、閉山は”時間の問題”とされていました。 「常磐炭礦の資料を後世に遺そう」という発想は、昭和44(1969)年ころから会社上層部から持ち上がっていました。当時、会社は「脱石炭」を図るため、さまざまな系列会社や子会社を興しており、石炭産業が先細りするなか、技術や文化を継承するための拠点づくりを念頭に置いていたものと考えられます。
 しかし、現場では実際に採炭を維持しており、具体的な構想とはなりませんでした。

 

石炭・化石館開館・標柱と館全景(昭和59年10月、いわき市撮影)

昭和59年10月の石炭化石館 こうしたなか、昭和46(1971)年には常磐炭礦磐城礦業所が閉山し、系列会社として興した常磐炭礦西部礦業所も昭和51(1976)年に閉山して、常磐炭田における約120年にわたる坑内採炭は終わりを告げました。
 構想はこれらの採炭現場の動きと連動して、具体的な動きとして表舞台に出ていきます。昭和47(1972)年には常磐炭礦や市が中心となって「石炭産業資料収集委員会」が発足。将来の資料館的な施設を念頭に置いた資料収集が続けられました。
 昭和49(1974)年には、“近い将来には炭鉱に関した資料などを展示する資料館を建設する”という計画が公表されて、具体化への模索が続けられました。

 

石炭・化石館開館記念パレード1.(昭和59年10月、いわき市撮影)

昭和59年10月の石炭化石館 その一方で、いわき市には博物館構想も持ち上がり、そのなかにジャンルとして民俗、歴史、地質、考古、海洋、石炭、炭鉱の7つが挙げられ、昭和50年代は、炭鉱関係の資料館づくりと博物館構想が、関連を持ちながらも別な流れとして実現化をめざしました。
 この博物館構想は、多くの関係者の考え方を取りまとめることが必要となりますが、石炭関係者はあくまでも個別の資料館建設にこだわりました。役目を終えた炭鉱跡は、施設の撤去や坑口の閉鎖などの処理が行われており、歳月の推移とともに資料散逸が懸念されるなか、元炭鉱従業員や研究者、地元住民などの関係者だけでなく、いわき地方の発展を支えた石炭産業と関わった産業界にとっても、これらを収蔵する施設建設は喫緊の課題として考えられていたのです。 石炭資料館の建設は、地元温泉街にとっても大きな関心事となりました。

 

湯本町向田 常磐炭礦磐城礦業所閉山後の専用鉄道(昭和52年11月、須永秀夫氏撮影)

昭和52年11月20日の湯本町向田 常磐地区の「常磐湯本温泉郷振興対策協議会」においては、昭和50年代半ば、近い将来の好機となる常磐自動車道の開通を見据え、「新湯本温泉郷」建設を模索していましたが、新温泉への移転・新築には資金面から難しく、むしろ「常磐炭礦磐城礦業所跡地を利用した石炭博物館」の建設が現実的という考え方が主流となっていったのです。
 昭和56(1981)年4月には、いわき市は自治省の進める「地域経済振興対策」推進地域に選ばれ、3年間、市特定事業の石炭資料館建設、温泉郷整備の2件について、国の財政支援を受けられることが決定し、建設に弾みがつきました。
 こうして石炭資料館は市立博物館・石炭部門として、常磐地区に建設されることが決まりました。

 

湯本町向田 石炭・化石館建設(昭和58年6月、いわき市撮影)

昭和58年6月の湯本町向田 建設地としては当初湯本坑ズリ山跡が挙がりましたが、造成費用や取り付け道路の敷設に難があったことから、一旦は台山の高台に変更されました。
 “石炭機能”も急きょ変更されます。湯本温泉の活性化に資するには石炭資料館だけでは弱いと判断され、これまで化石の収蔵・保管場所の確保に苦慮していたこと、首長竜や巨大アンモナイトなどが相次いで見つかり、化石の宝庫としていわきをPRできることなどを踏まえ、事業主体となる自治省の承認を得て、「石炭」と「化石」の機能を併せ持った施設を建設することとなりました。昭和57(1982)年7月のことでした。
 こうして、「市石炭・化石館」として建設されることが決まったのですが、一旦建設場所として決まった台山も造成・防壁工事の費用がかかるため、断念。近隣地も適さず、ようやく昭和58(1983)年1月に、国道に近いため買収価格が高くなるものの、交通の便を優先して、湯本町向田の常磐炭礦磐城礦業所跡地に決定しました。
 工事は昭和58(1983)年度から進められ、昭和59(1984)年10月にオープンしました。現在は「ほるる」の愛称で、多くの観光客や地元民に親しまれています。

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総合政策部 ふるさと発信課
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