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『内郷操車場』(平成26年9月3日市公式Facebook投稿)

問い合わせ番号:14551-8370-8712 更新日:2014年9月3日

【いわきの『今むがし』 Vol.5】

【内郷操車場〔昭和61年(1986年)9月 いわき市撮影〕】

昭和61年の内郷操車場

 何本も並んだ側線、その上に並べられた貨車の群…。この光景は、内郷高坂町に設置された内郷操車場の様子です。
 昭和30年代、当時自動車輸送のための道路は未整備の所が多く、このため、近距離はなんとか自動車に頼るとしても、遠距離輸送ともなると生鮮食品の輸送や納期の決まった製品・材料の輸送など、さまざまな面で鉄道が有利でした。
 加えて、いわき地方においては、高度経済成長を背景に工業が盛んとなり、貨物輸送量は急増していきました。いわき地方の駅には石炭や鮮魚、工業製品など多くの貨物が運び込まれ、何両もの貨車をつないだ列車が往来しました。勿来、植田、泉、湯本、内郷の各駅は構内、あるいはその付近に側線を増やして貨物をさばきましたが、平(現いわき)駅では、市街と北側の丘陵地に挟まれて、側線を増設する余地がありませんでした。
 平駅の場合は、増える旅客者をさばくための急行・特急列車などを増発するためにはホームを増やす必要がありましたが、これにも対応できない状況となっていきました。
 これら貨客混雑の解消策とともに考えられたのが、地域全体の荷主が貨物を1か所に集約させて、ここで貨車の組成作業を行い、専用の貨物列車で高速輸送を行うという、輸送力増強を図ることでした。
 これらの課題を一挙に解決する方策として、大量の貨物をさばくための操車場建設が平駅と内郷駅の間で具体化していきました。昭和30年代当時、常磐線に沿って、新川との間には見渡す限りの水田が広がっていて、ここが建設場所となりました。
 内郷操車場の建設は昭和39年(1964年)から着工され、昭和42年(1967年)12月から内郷貨物駅(後のいわき貨物駅)として、上り列車の営業を開始(下りは昭和47年から)しました。駅の広さは14.3ha、長さが2.5キロメートル。このなかに、貨物扱所、同保管庫、積卸場、貨物ホーム、機関車基地、同修理工場のほか、発着線、仕分け線など28本もの軌条が敷設されました。
 これによって、平駅では小荷物扱いだけが残り、現在の1・2番線ホームを増設することができました。

【内郷操車場跡〔平成3年(1991年)6月 いわき市撮影〕】

平成3年の内郷操車場跡

 昭和42年(1967年)に上り線が開通して発足した通称・内郷操車場(貨物ヤード)、「内郷貨物駅」は、昭和47年(1972年)10月に下り線が開通して、「いわき貨物駅」と改称されましたが、この頃になると、早くも貨物の集荷に苦慮する事態が続きました。
 計画されたのが、昭和30年代半ば。一部完成するまでに数年余を要し、さらに全面開通するまでの10年余で、貨物輸送の形態が大きく変化したのです。
 競争相手は自動車でした。自動車にとって必須な道路整備については、昭和28年(1953年)にガソリン税などの特定道路財源が確保され、予算化されるようになると飛躍的に進みました。自動車についても、連合国軍総司令部(GHQ)の間接統治を受け、禁止されていた自動車開発の措置が解かれると、国産貨物自動車が盛んに開発され、さらにその性能が高まると、「戸口から戸口へ(ドア・トウ・ドア)」を合言葉にした自動車輸送が、その利点を活かして、急速に輸送範囲を広げました。
 鉄道輸送は昭和40年代前半こそ高度経済成長の恩恵を受けていましたが、昭和40年代後半になると、貨物自動車の大型化や自動車輸送システムの確立などによって、長距離輸送においても大手企業が率先して自動車輸送に切り替えるようになり、加えて昭和40年代から断続的に続く国鉄(国有鉄道)の長期ストライキによって、顧客離れを加速させていきました。また、船舶輸送にも荷物が奪われるようになっていきました。
 いわき貨物駅で扱う貨物量も減り、存続が危ぶまれましたが、もっと大きな問題、つまり国鉄の赤字経営が社会問題となっていきました。こうして国鉄の民営化が模索され、鉄道事業の経営再建のため、他の貨物部門の合理化とともにヤード業務を縮小して、昭和60年(1985年)3月に「いわき貨物営業所」へ格下げされました。
 さらに、昭和62年(1987年)3月の国鉄の分割民営化を前に、同年2月末で廃止となりました。

【内郷操車場跡地の街づくり〔平成26年(2014年)8月、いわき市撮影〕】

現在の内郷操車場跡

 写真は、現在の内郷貨物ヤード(通称・内郷操車場)跡地の様子です。写真中央のJR常磐線の下り線は当時のままです。上り線は、かつては貨物ヤードの東側に敷設されていたのですが、廃止とともに下り線との並列となりました。したがって、線路の東側(写真向かって左側)が新しい街となります。
 貨物ヤードの跡地利用には、さまざまな意見が持ち上がりました。
 まず、分割民営化された昭和62年(1987年)4月以降、旧国鉄が所有していた土地、建物の清算を行う国鉄清算事業団などによって再開発の調査が行われたものの、容易に方向性が見いだせませんでした。このため、地元の内郷地区において、「いわき貨物ヤード跡地開発促進協議会」や「内郷商工会地域小売商業活性化事業委員会」、行政としては「内郷地区都市拠点総合整備計画策定調査委員会」などが組織されて、跡地と隣接地を含めた利用の検討を進められ、具体案が提案されましたが、跡地にどのような機能を持たせるのか、容易に決まりませんでした。
 このようななか、まず一部を雇用促進事業団が購入して14階建ての高層住宅を建設しました。その後市は、跡地が市立総合磐城共立病院や福島労災病院などの高度医療機関、市医師会館に近い位置であること、平成11年(1999年)4月の中核市移行をめざし市立の保健所が必要となり、さらに保健福祉センターも設置が予定されていたことから、同事業団から一部土地を購入し、医療と福祉、保健が連携できる核的な施設となる「総合保健福祉センター」を建設、平成 15年(2003年)4月にオープンさせました。
 ほかの敷地も住宅地などに転用され、跡地は大きく姿を変えました。
 真っ直ぐに延びた常磐線の上下合わせて4本の鉄路。その東側に広がる高層の建物や瀟洒(しょうしゃ)な住宅の連なり。今ではありふれた都市部の光景の一つかもしれませんが、いわき市の歩みとほぼ同じ歳月のなかで、激動の社会変化を映した土地利用の変化と街づくりへのさまざまな思いをみることができます。

お問い合わせ

総合政策部 ふるさと発信課
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