コンテンツにジャンプ

『好間町上好間』(令和4年9月7日市公式SNS投稿)

登録日:2022年9月7日

いわきの『今むがし』Vol.153

上 好間町上好間の国道49号を西方に向かって見る〔昭和41(1966)、安斎秀雄氏撮影〕
中 好間町上好間の国道49号を西方にむかって見る〔昭和45(1970)年1月、いわき市撮影〕
下 好間町上好間の旧国道49号(現市道御台境町-北好間線) を西方にむかって見る〔令和2(2020)年11月、小宅幸一撮影〕

好間町上好間1 昭和30年代、石炭産業の発達とともに栄えてきた好間村にとって、石炭から石油へのエネルギー革命は大きな脅威となりました。昭和30年前後から零細・小炭鉱の閉山が相次ぎ、昭和39(1964)年には、半世紀近く好間村の発展を支えてきた古河好間炭礦が閉山して、街は大きな衝撃を受けました。(系列会社も昭和44年に閉山)
昭和40(1965)年の調査時には、上好間の人口集中地区が消失していています。大正時代から地域社会を牽引してきた古河好間炭礦の閉山に伴う人口流出が影響していることがわかります。好間村全体の人口も昭和28(1953)年3月の2万2,644人をピークに、昭和35(1960)年10月には1万7,653人、昭和40(1965)年10月には1万2,462人まで減少しました。
上好間や中好間を中心とする商店街も衰退の危機を迎えましたが、同時期、商店街を通る国道49号が昭和35(1960)年に舗装整備・拡幅されたことにより、商店街を通る自動車が増え、決定的な衰退に至らずに済みました。
 しかし、その後大衆の多くが車を保有するにつれて、移動手段はバスや列車などの公共交通機関からマイカーに移行し、買い物にも変化をもたらしました。常磐自動車道の開通と合わせて、国道49号平バイパスも開通。さらに駐車に便利な郊外の店へ向かうようになり、平市街の郊外地として中好間や下好間で商業施設が進出しています。
 上好間はかつてのにぎやかさはありませんが、地元住民に根ざした古くからの商店が落ち着いた表情を見せてくれます。
 好間地区における炭鉱開発は、阿武隈高地の東に位置する北好間から始まりました。最初の本格的な採炭は、明治33(1900)年に入山採炭(株)を辞任した地元の白井遠平氏が、好間村大字北好間に好間炭礦を開削したのが始まりでした。その後、地元の地の利を活かして鉱区を相次いで買収して拡大し、明治39 (1906)年10月に好間炭礦(株)を創立しました。
 周辺には小・零細炭鉱も進出して人口が増え、北好間は好間村の中心となりました。
 大正4(1915)年には古河鑛業合名会社(大正7年に古河鑛業(株)へ)が好間炭礦を買収、大正6(1917)年には北好間の東、上好間の丘陵地上に鉱業所を移し、古河好間炭礦として大正8(1919)年から採炭を始めました。これ以降、古河好間炭礦は好間地区の炭鉱界をリードするだけでなく、先に設立された磐城炭礦(株)、入山採炭(株)とともに、常磐炭田の大手3炭鉱の一つとして長く地域を牽引しました。
 これに伴い、高台や低地に炭鉱住宅が建設され、商業地として三坂街道(後の国道49号)沿いに発展して、以来昭和時代後期に至るまで、村の中心となりました。
 発展した様子は、昭和35(1960)年の国勢調査から始まった「人口集中地区」にみることができます。
 これは、昭和30(1955)年前後の「昭和の大合併」により新たに市が数多く誕生したことで、人口の規模が必ずしも市街地の大きさを示す指標となり得なくなったことから、新たに都市の規模をあらわす指標として、一定要件により人口が集中している区域を設定して、都市規模の大小をあらわしたものです。
 この内容は、以下の二つが基準になっています。
ア 人口密度が4000人/㎢以上の区が連続していること
イ 隣接する区の合計人口が5000人以上
 これを好間村でみると、昭和35(1960)年の人口集中地区の調査開始時点で、好間村大字上好間が設定されています。国道49号に沿う住宅地と、丘陵地上に広がる大手・古河好間炭礦の炭鉱施設や炭鉱住宅が含まれており、人口は6,825人、面積は0.9 ㎢でした。村のなかで人口集中地区が設定されることは珍しく、それだけ好間村の特異性をみることができます。
 好間小第一学校も昭和26(1951)年には、学級数58、児童数約3,000人を擁する県内一のマンモス校となり、翌年には好間第三小学校が分離するほどでした。
 

上 好間町上好間の旧国道49号(現市道御台境町-北好間線)を西方に向かって一小前横断歩道橋から見る〔平成2(1990)年10月、いわき市撮影〕
下 好間町上好間の旧国道49号(現市道御台境町-北好間線)を西方に向かって一小前横断歩道橋から見る〔令和2(2020)年11月、小宅幸一撮影〕

好間町上好間2 昭和30年代、石炭産業の発達とともに栄えてきた好間村にとって、石炭から石油へのエネルギー革命は大きな脅威となりました。昭和30年前後から零細・小炭鉱の閉山が相次ぎ、昭和39(1964)年には、半世紀近く好間村の発展を支えてきた古河好間炭礦が閉山して、街は大きな衝撃を受けました。(系列会社も昭和44年に閉山)
 昭和40(1965)年の調査時には、上好間の人口集中地区が消失していています。大正時代から地域社会を牽引してきた古河好間炭礦の閉山に伴う人口流出が影響していることがわかります。好間村全体の人口も昭和28(1953)年3月の2万2,644人をピークに、昭和35(1960)年10月には1万7,653人、昭和40(1965)年10月には1万2,462人まで減少しました。
 上好間や中好間を中心とする商店街も衰退の危機を迎えましたが、同時期、商店街を通る国道49号が昭和35(1960)年に舗装整備・拡幅されたことにより、商店街を通る自動車が増え、決定的な衰退に至らずに済みました。
 しかし、その後大衆の多くが車を保有するにつれて、移動手段はバスや列車などの公共交通機関からマイカーに移行し、買い物にも変化をもたらしました。常磐自動車道の開通と合わせて、国道49号平バイパスも開通。さらに駐車に便利な郊外の店へ向かうようになり、平市街の郊外地として中好間や下好間で商業施設が進出しています。
 上好間はかつてのにぎやかさはありませんが、地元住民に根ざした古くからの商店が落ち着いた表情を見せてくれます。
 

(いわき地域学會 小宅幸一)

その他の写真

好間第一小学校と古河好間炭礦〔昭和32(1957)年、山本重男氏撮影〕

3-1 好間第一小学校と古河好間炭礦〔昭和32(1957)年、山本重男氏撮影〕

 

好間第一小学校〔平成8(1996)年、いわき市撮影〕

3-2 好間第一小学校〔平成8(1996)年、いわき市撮影〕

 

国道49号・好間市街(昭和42年10月、いわき市撮影)

 

国道49号・好間市街(昭和44年12月、いわき市撮影)

4-2 国道49号・好間市街(昭和44年12月、いわき市撮影)

このページに関するお問い合わせ先

総合政策部 広報広聴課

電話番号: 0246-22-7402 ファクス: 0246-22-7469

このページを見ている人はこんなページも見ています

    このページに関するアンケート

    このページの情報は役に立ちましたか?